(資料群)植村家 資料

資料群・作家名(ヨミ)うえむらけしりょう

略歴・解説

平安時代後期以降、末法思想の流行によって、末法の世が終わるときまで経典を保持しようとする考えが広まった。法華経などの経典を地中に埋める経塚は、このような思想を背景にして全国的に築かれるようになった。
香川県下においても、善通寺市の香色山経塚など平安時代に築かれたものから、石に経文を墨書し埋納した江戸時代の一字一石経塚など、50を超える経塚の存在が知られている。
当該資料が発見された屋島には、山頂に江戸時代の一字一石経塚があることがすでに知られ、また『讃岐国名勝図会』には、屋島南嶺に「経塚」という地名、そして「経を埋めし処なり。万治年中国君の命によつて掘り出ださしむるに一切経全ければ元のごとくにをさめしむ。」との記載が見られる。牟礼町白羽神社の後方にも平安期とみられる経塚が存在しており、屋島周辺一帯は経塚の一大群集地といえるであろう。
当資料は屋島大宮八幡神社境内付近において、昭和37年に発見されたものである。現在、発見地は舗装されており、出土状況を知る資料はほとんどない。発見者によると、瓦質の外容器に讃岐岩質安山岩の蓋石がされ、周囲には川原石が積み重ねられた状態で、外容器の中は、八分程土で埋まっており、経筒の蓋の上に青白磁の合子があったとのことである。蓋石には、外容器口縁の痕跡が残っている。
経筒は、現在側面に破損が生じているが、非常に薄い銅板から作られ、精巧な細工がなされている。蓋の意匠は、八花形でそれぞれの花弁先端部に猪目の透しが施されており、滝の宮経塚(徳島県美馬町)出土経筒との共通性が指摘されている。また二つの銅板を組み合わせた火焔宝珠形の鈕など特徴的な意匠を持つ。総高はやや小さいものの、以上のような意匠形態から、平安時代末期~鎌倉時代初期の製作と考えられる。底部内面には経巻八巻分の圧痕が確認され、法華経八巻が納められていたと推定される。経巻片は、繊維から楮紙質であるが、墨書や装飾の顔料などは確認できない。
経筒外容器は綾川町十瓶山産の瓦製である。県内の他経塚(善通寺市香色山経塚・満濃町金剛院経塚など)から出土した経筒外容器の製作技法の比較から、12世紀後半と推測される。青白磁の合子は、蓋に花卉が描かれており、他の経塚遺跡から出土したもの同様、11世紀~12世紀に日本からの注文を受けた製作品と考えられる。
さらに、肉眼では墨書の確認はできないが、平滑な小石も一括して保存されており、当資料は経塚資料として大変貴重な資料群である。
なお、この経塚出土資料については、瀬戸内海歴史民俗資料館において昭和52(1977)年に開催された「四国の経塚展」・「讃岐の経塚展」に出品されたものである。
(香川県教育委員会『歴史博物館整備に伴う収蔵資料目録 平成8年度』より、一部修正し転載)

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