【解説】中臣祓記解 梵舜筆 慶長12(1607)年写

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小分類中臣祓記解 梵舜筆 慶長12(1607)年写
分野分類 CB歴史学
文化財分類 CB図書
資料形式 CBテキストデータベース
+登録番号(図書館資料ID)貴87
+本タイトル【解説】中臣祓記解 梵舜筆 慶長12(1607)年写
+解説中臣祓記解 ・中臣祓義解 [貴87]

〈外題〉中臣祓記解(表紙)
〈内題〉中臣祓記解(巻頭、本文首葉)
〈巻冊〉1冊
〈体裁〉袋綴(四ツ目綴)
〈書写年代〉慶長12年(1607)写
〈表紙寸法〉縦27・5糎×横21.0 糎
〈奥書〉「右一覧之次而令書写畢、/于時 慶長十二仲秋初二 神龍院龍玄(花押)」
〈蔵書印〉「宝玲文庫」、巻末に「月明荘」
〈解題〉

『中臣祓記解』は両部神道書のなかで、最も早い時期の成立とされ、両部神道成立に関わる重要書籍である『中臣祓訓解』の異本である。伊勢神道の成立にも強い影響を与えた。中臣祓注釈書のうち、現存する最古の記録の一つ。『中臣祓訓解』が途中に手を加えるなどして流布用としたのに対し、『記解』は伊勢の神宮(外宮)に奉仕した氏である度会氏代々の書写歴を有し、同家の門外不出の書として、鎌倉時代には流布することがなかった。

中臣祓は平安時代中期以降、 陰陽師によって流布され、また僧侶たちも「六字河臨法」に取り入れ、個人のための呪術的祈祷に用いた。僧侶たちは、さらに密教に託して中臣祓の注釈を試み、「最大最勝の利益」、「抜苦与楽の隠術」である中臣祓の効能を説いた。 本書は空海の作とされているが、これは後世の 仮託であり、平安末期以降、建久年間(1190~1198)頃までの間に、天台宗の園城寺および 伊勢神宮の法楽寺院である仙宮院に関係した僧侶によって作られたと推定できる。伊勢神道の度会常昌(1263〜1339)に本書は伝えられ、最極秘本とされた。追記には、「吉津御厨」と仙宮院の由来を『三角柏伝記』などから引用し、以上の書籍を、正平24年(1369)南朝方祭主為綱の宿所において僧侶・範超が書写したとある。

後半は『中臣祓義解』を収める。題下に「阿倍朝臣真勝撰」とあるが、仮託である。『中臣祓訓解』 を下敷きに、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』 などの古典を援用して注釈しており、仏教の影響を排除する立場で書かれている。京都府立総合資料館所蔵、若杉家文書『中臣祓儀解』の奥書によれば、弘安元年(1278)に度会常良(のち常昌) によって書写されており、鎌倉中期頃には伊勢神道の周辺で作成されていた。

本資料は、慶長12年に吉田兼右(1516〜1573)の子である神龍院梵舜によって書写された。兼右は吉田神道を大成した吉田兼倶の孫である。祖本は、現在、天理図書館が所蔵する吉田文庫本であり、本書とともに吉田家伝来の書である。『記解』『義解』の語注の上部には、一から十一までの数字が見える。吉田兼倶は中臣祓を序段と十二段(合計十三段)に分割して理解しており、この数字は、各段を示す。このような点から、本書は神宮周辺に伝来したままの状態ではなく、兼倶の影響によって改変されたことがわかる。
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-143144 37 2020/11/18 r.teshina 【解説】中臣祓記解 梵舜筆 慶長12(1607)年写 【解説】中臣祓記解 梵舜筆 慶長12(1607)年写 貴87 01 028 中臣祓記解 ・中臣祓義解 [貴87]

〈外題〉中臣祓記解(表紙)
〈内題〉中臣祓記解(巻頭、本文首葉)
〈巻冊〉1冊
〈体裁〉袋綴(四ツ目綴)
〈書写年代〉慶長12年(1607)写
〈表紙寸法〉縦27・5糎×横21.0 糎
〈奥書〉「右一覧之次而令書写畢、/于時 慶長十二仲秋初二 神龍院龍玄(花押)」
〈蔵書印〉「宝玲文庫」、巻末に「月明荘」
〈解題〉

『中臣祓記解』は両部神道書のなかで、最も早い時期の成立とされ、両部神道成立に関わる重要書籍である『中臣祓訓解』の異本である。伊勢神道の成立にも強い影響を与えた。中臣祓注釈書のうち、現存する最古の記録の一つ。『中臣祓訓解』が途中に手を加えるなどして流布用としたのに対し、『記解』は伊勢の神宮(外宮)に奉仕した氏である度会氏代々の書写歴を有し、同家の門外不出の書として、鎌倉時代には流布することがなかった。

中臣祓は平安時代中期以降、 陰陽師によって流布され、また僧侶たちも「六字河臨法」に取り入れ、個人のための呪術的祈祷に用いた。僧侶たちは、さらに密教に託して中臣祓の注釈を試み、「最大最勝の利益」、「抜苦与楽の隠術」である中臣祓の効能を説いた。 本書は空海の作とされているが、これは後世の 仮託であり、平安末期以降、建久年間(1190~1198)頃までの間に、天台宗の園城寺および 伊勢神宮の法楽寺院である仙宮院に関係した僧侶によって作られたと推定できる。伊勢神道の度会常昌(1263〜1339)に本書は伝えられ、最極秘本とされた。追記には、「吉津御厨」と仙宮院の由来を『三角柏伝記』などから引用し、以上の書籍を、正平24年(1369)南朝方祭主為綱の宿所において僧侶・範超が書写したとある。

後半は『中臣祓義解』を収める。題下に「阿倍朝臣真勝撰」とあるが、仮託である。『中臣祓訓解』 を下敷きに、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』 などの古典を援用して注釈しており、仏教の影響を排除する立場で書かれている。京都府立総合資料館所蔵、若杉家文書『中臣祓儀解』の奥書によれば、弘安元年(1278)に度会常良(のち常昌) によって書写されており、鎌倉中期頃には伊勢神道の周辺で作成されていた。

本資料は、慶長12年に吉田兼右(1516〜1573)の子である神龍院梵舜によって書写された。兼右は吉田神道を大成した吉田兼倶の孫である。祖本は、現在、天理図書館が所蔵する吉田文庫本であり、本書とともに吉田家伝来の書である。『記解』『義解』の語注の上部には、一から十一までの数字が見える。吉田兼倶は中臣祓を序段と十二段(合計十三段)に分割して理解しており、この数字は、各段を示す。このような点から、本書は神宮周辺に伝来したままの状態ではなく、兼倶の影響によって改変されたことがわかる。 1

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