川田剛

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル川田剛
+ヨミガナ / NAME / 性別カワダ タケシ / KAWADA TAKESHI / 男
+小見出し備中松山藩士、大学博士、東宮御用掛
+別称〔称〕竹次郎・城三郎・城之助・剛介
〔名〕資兼
〔字〕毅卿
〔号〕甕江・執斎・百日紅園・行雲流水書屋
+生年月日文政13年<1830>
+没年月日明治29年<1896>2月2日
+享年67歳
+生国備中浅ロ郡
+生国(現在地名)岡山県
+住国東京
+住国(現在地名)東京都
+学統小野務
+典拠和学者総覧.3197
+史資料〔岡山県人名辞書〕カハダ ヨウコウ    川田甕江
川田甕江、名は剛、字は毅卿、幼名を竹次郎といひ、後城三郎と改め、更に剛介と称す、浅口郡玉島の人なり、天保元年六月生る、幼にして頴悟、初め和歌を隣村長尾村の小野務に学ひ、漸長するに及んて贄を松山藩の鉅儒山田方谷の門に執り、矻々として業を修め、継史百家窺はさるなし、衆推して秀才となす、尋いて藩士に挙けられ東遊を命せられ昌平黌に入り又藤森天山に従つて学ふ、幾もなくして召還せられ藩の重職に擢てらる、明治戊辰正月、伏見鳥羽の変起るや、藩主徳川氏の親近なるを以て、官軍に攻圍せられ社黍将に危からんとす、依つて身を脱して私かに京都に入り陳情百回苦心備さに至る、是に於て嫌疑氷解し、藩主をして長々百世に廟食するを得せしむ、維新後辟されて大学博士に任せられ、帷を牛込に下して子弟に教へ、門下又知名の士を出す少からす、後宮内省四等出仕より諸陵頭東宮御用掛に累遷し、貴族院議員に勅撰せられ、文学博士の称号を授けられ、学士会院に員たり、漢文学の泰斗として中外に尊敬せらる、明治二十九年二月一日正四位勲四等を以て終る、病革まるや特に御物を賜ひ宮中顧問官に任し、従三位に昇進せしめらる
-43984 国学関連人物データベース 36 1 CKP003649 川田剛 KAWADA TAKESHI 川田剛 KAWADA TAKESHI 文政13年,明治29年 , 3197 和学 全 39580 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 備中松山藩士、大学博士、東宮御用掛 男 カワダ タケシ / KAWADA TAKESHI / 男 かわだ たけし,竹次郎,城三郎,城之助,剛介,資兼,毅卿,甕江,執斎,百日紅園,行雲流水S屋 カワダ タケシ 〔称〕竹次郎・城三郎・城之助・剛介 〔名〕資兼 〔字〕毅卿 〔号〕甕江・執斎・百日紅園・行雲流水書屋 〔称〕竹次郎・城三郎・城之助・剛介
〔名〕資兼
〔字〕毅卿
〔号〕甕江・執斎・百日紅園・行雲流水書屋 文政13年<1830> 2月2日 明治29年<1896>2月2日 67歳 1830 - 1896 備中国 武蔵国 備中浅ロ郡,東京 岡山県 東京都 備中浅ロ郡 岡山県 東京 東京都 小野務 小野務 和学者総覧.3197 〔岡山県人名辞書〕カハダ ヨウコウ    川田甕江
川田甕江、名は剛、字は毅卿、幼名を竹次郎といひ、後城三郎と改め、更に剛介と称す、浅口郡玉島の人なり、天保元年六月生る、幼にして頴悟、初め和歌を隣村長尾村の小野務に学ひ、漸長するに及んて贄を松山藩の鉅儒山田方谷の門に執り、矻々として業を修め、継史百家窺はさるなし、衆推して秀才となす、尋いて藩士に挙けられ東遊を命せられ昌平黌に入り又藤森天山に従つて学ふ、幾もなくして召還せられ藩の重職に擢てらる、明治戊辰正月、伏見鳥羽の変起るや、藩主徳川氏の親近なるを以て、官軍に攻圍せられ社黍将に危からんとす、依つて身を脱して私かに京都に入り陳情百回苦心備さに至る、是に於て嫌疑氷解し、藩主をして長々百世に廟食するを得せしむ、維新後辟されて大学博士に任せられ、帷を牛込に下して子弟に教へ、門下又知名の士を出す少からす、後宮内省四等出仕より諸陵頭東宮御用掛に累遷し、貴族院議員に勅撰せられ、文学博士の称号を授けられ、学士会院に員たり、漢文学の泰斗として中外に尊敬せらる、明治二十九年二月一日正四位勲四等を以て終る、病革まるや特に御物を賜ひ宮中顧問官に任し、従三位に昇進せしめらる 史資料
資料ID43984

PageTop