山崎知雄

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル山崎知雄
+ヨミガナ / NAME / 性別ヤマザキ トモオ / YAMAZAKI TOMOO / 男
+小見出し
+別名
+別称〔称〕彌左衛門 【和】
〔号〕武陵・蝸牛舎 【和】瓢巷廬 【国続】
+生年月日寛政10年<1798> 【国2】
+没年月日文久元年<1861>9月23日 【国2】
+享年64歳 【国2】
+生国・住国江戸伝馬町 【国2】
+生国・住国(現在地名)東京都
+生国
+生国(現在地名)
+住国
+住国(現在地名)
+墓地名江戸浅草大松寺 【書】
+墓地現在地
+学統岸本由豆流・塙保己一 【和】喜多武清 【国2】
+典拠国伝2,国伝続,和学者総覧.10923
+解説目次
+解説■履歴
江戸伝馬町の瓢箪新道に住居し、周囲の児童を集めて手習い等を教えた【※1】。

■学問動向
岸本由豆流の門に入り、国史を学ぶ。その傍らで喜多武清に就いて画を学び、特に肖像画を能くした。「神代」から「後一条天皇」の治世までを漢文編年体で記した『日本紀略』の刊本が無いこと、および伝写本による誤謬や脱字の多さ、といった不備を知り、その校正を志して塙保己一とともに事にあたった。<⇒特記1>黒川春村や内藤広前、色川三中などと親交を結んでいる【※2】。

〔注〕
【※1】清宮秀堅『古学小伝 下』(明治19年)48丁ウ
【※2】清宮秀堅『古学小伝 下』(明治19年)48丁ウ‐49丁オ
+特記事項<特記1> 『校正日本紀略』

『日本紀略』の校正作業をするにあたり、特に「醍醐天皇」以降の記事について古写本十数本を比較した。さらに『扶桑略記』・『一代要記』・『公卿補任』等の諸本を参考に供してそれぞれの異同を検証し、本文の上層部位に註を付す方法を採った。そして『校正日本紀略』は、嘉永3年(1850)10月に上梓された。また、『続日本後紀』『三代実録』の校正などにも従事するなど、諸本の考証に長じた。しかし、安政2年(1855)の大地震で妻子を失ったことにより業を廃し、その後再起を期したが病没した。その他の著作に『下学集類字抄』『古事記万葉集人名類字』等がある。

【参考文献】
・清宮秀堅『古学小伝 下』(明治19年)
・『国書人名辞典』第四巻(岩波書店、平成10年)
+参考文献
+史資料〔古学 下〕
江戸の人なり、 伝馬町瓢箪新道に住して、家主を務め、傍ら手習の師などせられし人也、 岸本由豆流に従ひて、国史を学びけるが、日本紀略を読で、印本の無きと、且伝写の訛脱、居多なるをなげき、慨然として是を校正せんと思ひ、塙保己一に謀る。保己一、是を慫慂して、其功を成んことを励ましぬ。知雄おもへらく、紀略の書は、光孝天皇以前は、六国史等より抄出せしものなれば、要ならず。醍醐天皇以後は、全く当時の記載にて、未だ正史の体を得ザレドモ、六史に継もの、是書より外あることなしと、醍醐天皇以後を分ちて、古写本十数本を比校し、又扶桑略記、一代要記、公卿補任等の諸書を参考し、其同異を上層に標し、嘉永三年庚戌十月梓に上せぬ。 玉山堂と云書肆あり。知雄が厚き志を感じ、書肆の冥利なりとて、此書を刻しぬ。此人もまた志ある人なりけり、 又続後紀をも校正し、次で三代実録を校せしが、安政乙未の歳の火災に妻子を失ひ、大に力を落したれど、又馬伏波の老当益壮の語に奮発せしが、文久元年の春の比より病にかゝり、是歳九月廿三日身まかりぬ。年六十四。知雄傍ら図を喜多武清に学び、肖像などよく書れたり。人と為り然諾を重んじ、約せしことを違はざりけり。黒川春村、内藤広前、色川三中など、最も知音の友なり、と云。
+史資料〈著作〉
+史資料〈碑文〉
+史資料〈その他〉
+辞書類古学,国書,神人,大事典,名家
+和学者カード
-40426 国学関連人物データベース 36 1 CKP000086 山崎知雄 YAMAZAKI TOMOO  江戸伝馬町の瓢箪新道に住居し、周囲の児童を集めて手習い等を教えた。
 

■学問動向・交友
岸本由豆流の門に入り、国史を学ぶ。その傍らで喜多武清に就いて画を学び、特に肖像画を能くした。「神代」から「後一条天皇」の治世までを漢文編年体で記した『日本紀略』の刊本が無いこと、および伝写本による誤謬や脱字の多さ、といった不備を知り、その校正を志して塙保己一とともに事にあたった。黒川春村や内藤広前、色川三中などと親交を結んでいる。


『日本紀略』の校正作業にあって、特に「醍醐天皇」以降の記事について古写本十数本を比較した。それに『扶桑略記』や『一代要記』、『公卿補任』等の諸本を参考に供してそれぞれの異同を検証し、本文の上層部位に註を付す方法を採っている。なお本書『標註日本紀略』は、嘉永3年(1850)10月に上梓の運びとなった。その後も、『続日本記』『三代実録』といった史書の校正にも従事したものの、安政2年(1855)の大地震によって妻子を失った衝撃により、一時期業を廃し、その後再起を期すも病没。その他の著作に『古事記万葉集人名類字』『下学集類字抄』等がある。 山崎知雄 YAMAZAKI TOMOO , 10923 小伝 国伝 全 36017 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 男 ヤマザキ トモオ / YAMAZAKI TOMOO / 男 ■履歴
江戸伝馬町の瓢箪新道に住居し、周囲の児童を集めて手習い等を教えた【※1】。

■学問動向
岸本由豆流の門に入り、国史を学ぶ。その傍らで喜多武清に就いて画を学び、特に肖像画を能くした。「神代」から「後一条天皇」の治世までを漢文編年体で記した『日本紀略』の刊本が無いこと、および伝写本による誤謬や脱字の多さ、といった不備を知り、その校正を志して塙保己一とともに事にあたった。<⇒特記1>黒川春村や内藤広前、色川三中などと親交を結んでいる【※2】。

〔注〕
【※1】清宮秀堅『古学小伝 下』(明治19年)48丁ウ
【※2】清宮秀堅『古学小伝 下』(明治19年)48丁ウ‐49丁オ <特記1> 『校正日本紀略』

『日本紀略』の校正作業をするにあたり、特に「醍醐天皇」以降の記事について古写本十数本を比較した。さらに『扶桑略記』・『一代要記』・『公卿補任』等の諸本を参考に供してそれぞれの異同を検証し、本文の上層部位に註を付す方法を採った。そして『校正日本紀略』は、嘉永3年(1850)10月に上梓された。また、『続日本後紀』『三代実録』の校正などにも従事するなど、諸本の考証に長じた。しかし、安政2年(1855)の大地震で妻子を失ったことにより業を廃し、その後再起を期したが病没した。その他の著作に『下学集類字抄』『古事記万葉集人名類字』等がある。

【参考文献】
・清宮秀堅『古学小伝 下』(明治19年)
・『国書人名辞典』第四巻(岩波書店、平成10年) やまざき ともお,彌左衛門,武陵,蝸牛舎,瓢巷廬 ヤマザキ トモオ 〔称〕彌左衛門 【国2】 〔号〕武陵 [家号]蝸牛舎、瓢巷廬 【国2】 〔称〕彌左衛門 【和】
〔号〕武陵・蝸牛舎 【和】瓢巷廬 【国続】 寛政10年<1798> 【国2】 9月23日 文久元年<1861>9月23日 【国2】 64歳 【国2】 1798 - 1861 武蔵国 武蔵江戸伝馬町 東京都 東京都 江戸伝馬町 【国2】 東京都 江戸伝馬町 【国2】 江戸浅草大松寺 【書】 岸本由豆流・塙保己一 【和】喜多武清 【国2】 岸本由豆流・塙保己一 【和】喜多武清 【国2】 国伝2,国伝続,和学者総覧.10923 〔古学 下〕
江戸の人なり、 伝馬町瓢箪新道に住して、家主を務め、傍ら手習の師などせられし人也、 岸本由豆流に従ひて、国史を学びけるが、日本紀略を読で、印本の無きと、且伝写の訛脱、居多なるをなげき、慨然として是を校正せんと思ひ、塙保己一に謀る。保己一、是を慫慂して、其功を成んことを励ましぬ。知雄おもへらく、紀略の書は、光孝天皇以前は、六国史等より抄出せしものなれば、要ならず。醍醐天皇以後は、全く当時の記載にて、未だ正史の体を得ザレドモ、六史に継もの、是書より外あることなしと、醍醐天皇以後を分ちて、古写本十数本を比校し、又扶桑略記、一代要記、公卿補任等の諸書を参考し、其同異を上層に標し、嘉永三年庚戌十月梓に上せぬ。 玉山堂と云書肆あり。知雄が厚き志を感じ、書肆の冥利なりとて、此書を刻しぬ。此人もまた志ある人なりけり、 又続後紀をも校正し、次で三代実録を校せしが、安政乙未の歳の火災に妻子を失ひ、大に力を落したれど、又馬伏波の老当益壮の語に奮発せしが、文久元年の春の比より病にかゝり、是歳九月廿三日身まかりぬ。年六十四。知雄傍ら図を喜多武清に学び、肖像などよく書れたり。人と為り然諾を重んじ、約せしことを違はざりけり。黒川春村、内藤広前、色川三中など、最も知音の友なり、と云。 古学,国書,神人,大事典,名家 〔古学 下〕校正日本紀略,校正続日本後紀 史資料・解説 寛政(1789-1801) 享和(1801-1804) 文化(1804-1818) 文政(1818-1830) 天保(1830-1844) 弘化(1844-1848) 嘉永(1848-1854) 安政(1854-1860) 万延(1860-1861) 文久(1861-1864)

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