色川三中
分野分類 CB | 宗教学・神道学 |
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文化財分類 CB | 学術データベース |
資料形式 CB | テキストデータベース |
大分類 | 国学関連人物データベース |
タイトル | 色川三中 |
+ヨミガナ / NAME / 性別 | イロカワ ミナカ / IROKAWA MINAKA / 男 |
+小見出し | 薬舗 |
+別称 | 〔称〕桂助・三郎兵衛 【和】弥三郎 【国続】 〔名〕英明 【和】 〔号〕東海・瑞霞園 【和】 [法号]中山道庸信士 【国2】 |
+生年月日 | 享和2年<1802> 【国2】享和元年<1801>6月24日 【書】 |
+没年月日 | 安政2年<1855>6月23日 【国2】 |
+享年 | 54歳 【和】(一説に、55歳 【書】) |
+生国・住国 | 常陸新治郡土浦 【国2】 |
+墓地名 | 土浦城南神龍寺 【国2】 |
+学統 | 橘守部 【和】 |
+典拠 | 国伝2,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.1365 |
+解説 | 常陸土浦藩で醤油醸造と薬種業とを営む豪商、色川英恵の長男として生れる。三中の出生前後より、家業は好況から不況に転じ、文化10年(1813)から2年あまり江戸の商家で奉公した後、青年期の三中は、家業の再興に尽力した。天保年中に至り、家産は漸く豊富となり、三中は、弟の美年に薬種を営ませ、自らは醤油製造販売に専念することになった。商人として一応の儒教的教養を備えていた三中は、20歳頃から漢詩のみならず和歌を詠み始め、更に源氏講釈をきく等、国学に関心を示すようになり、天保7年(1836)には、橘守部に入門し、これを契機として正式に国学者の道を歩むようになる。商人としての三中にとって、形式的な規範主義を主張する儒教道徳にではなく、人間性情をあるがままに受容する自然主義・主情主義とその庶民性を本質とする国学が商業経営を支える学問として、認識されたことであろう。そうした国学への傾斜を背景として、三中の著述の多くは、商人としての計数的才能を発揮したものであった。 ■学問動向 守部入門とともに、国学者の道を歩むようになった三中であるが、『稜威道別』に代表される守部固有の古道論に親炙したわけではなく、守部との関係は、書籍の交換、学術的見解の交渉、文献所在の通知など、むしろ相互の研究を進捗させるためのものであった。ちなみに、三中は、色川の家業が江戸問屋と密接な関係にあったことから、しばしば江戸に出府し、例えば、平田篤胤、黒川春村、山崎知雄、塙忠宝、大国隆正ら、著名な国学者達と広い交友関係を結ぶことができた。 三中は商人としての計数的才能を十分発揮した上で、わが国古道の闡明を志したが、その学問は、後進の学徒にも大きな関心を示した。遠方より来訪する者だけでなく、土浦地方の神職にして、三中に入門しなかった神職は、ほとんど皆無であったといわれる。また幕末の志士と称された佐久良東雄、三輪田綱一郎、あるいは学者として知られる伊能穎則、久米幹文等が三中の指導を受けている。 三中は、『検田考証』、『皇国田制考』、『束把考』、『神代身度考』その他多くの著書をもつ緻密な考証学者として、またひろく諸国の古文書、古記録の蒐集、校合につとめ、『香取文書纂』60巻を集成した文献学者として著名である。とりわけ、記事の精密、史料の蒐集、史実の判定で高い水準を示す郷土史誌『新編常陸国誌』を著者中山信名の没後、その未定の稿本が人に伝わり剽窃されたり、散乱することを避け、当該稿本を修正して完書となした。その功績は、高く評価されている。また以上の著作のほか、田制に、古今の異同あることを論証した『田令図解抄』、『本朝通貨考』、『租税考考証』、『租庸調考』、『京升考』など、とくに田制、税制、度量衡などに三中の学識を発揮した多くの研究を残したが、かかる考証により、古代社会と当代社会との間の変遷・比較考量、日本と中国との優劣を論ずることによって、わが国独自の制度観、それに基づく卓越性の主張をなした。 |
+史資料 | 〔古学下〕 幼ヨリ書ヲヨムコトヲ好シガ、以前二代トモ、書ヲ読デ、家産ヲ破レリトテ、父母親族モソノコトヲ気遣レテ、年十七マデ、外ヘ出サレ、フツニ書ヨムコトヲ為サヾリケリ。文化ノ末、家居火災ニ罹リ、父マタ身まかりければ、家を嗣ぎ、業にいたづき、暇には家業の為めとて、本草類の書を是彼と読れしが、後誰師と云ことなく、古へ学を深くたどられ、また歌をよまれけり。天保中に至り、家計漸く初に復しければ、弟の某に、本舗薬種の業を譲り、自ら川口なる支舗の醤油造る家に退き、これよりは、世煩を避け、専ら学事に心を入れ、書籍を集め、生徒を教育するを以て務めとす。四方来遊の士、常に絶えず。その業の因なるを以て、大同類聚方を註釈せんとし、異本数種を集しが、未だ事を畢へざれど、薬品の研究尠からず。また度量の学を諸葛琴台より受け、別に創見あり、(琴台は、下野人、姫路侯に仕ふ。律量全編の著書あり。三中の縁者なり)素より神祇を崇敬せしかば、天保十二年の頃、鹿島神宮の林木、故ありて伐り出す由を聞き、大に憂ひ、同志と謀り、桜樹数百株を栽植して、神林の繁茂を希はれけり。常に友人と、古をかたらひ、元弘建武の事に及ては、慷慨の心ををしく、身その時に在が如し。又田制の学に、昼夜身を委ね、普く古文書を探り索けるに、偶々香取文書の断篇を見て、いたく喜ばれ、田制考索の確証とならんもの、此外にも猶多かるべしとて、屡香取に赴き、門人禄司代某の家を主とし、前後五六年を経て、諸祠氏に散在せる文書を、残りなく写しとり、六十余巻となし、猶つぎつぎ諸国の文書をあつめ、考覈年を経て、竟に田制に、古今の異同あることを引証し、田令図解を著はさんとし、病に罹りて果さず。久しく塾生たりし伊予の人、菅右京が、国に帰るとき、病床に就てとひ明らめ、編録して、冊子とし、田令図解抄と名け、携へ帰りぬ。病間門人等に謂らく、吾病愈ゆることを得ば、卿が輩四五年を労し、著書皆稿を脱して後、地に入べしと、其こと遂げず、安政二年乙卯六月廿三日、身まかりぬ。 米夷屡々渡来し、陸梁少からざるよしをきゝ、憤悶に堪へず。危篤に臨んで、一医いふ、蘭薬某品にあらずんば、救ふ可からずと。三中その洋品なるを以て、これを服せずして歿す。その志おもふべし。しばしば江戸に至り、当時有志の国学家に交れり。中にも黒川春村、塙忠実、山崎知雄等、最うるはしき友なりき。中山信名の死するや、其遺稿の人に伝り、剽窃せられ、或は散乱せんことを嘆かれ、塙次郎が媒により、こがね若干にて購ひ求め、未定の稿本を修成して、粗完書となしぬ。これ新編常陸国誌なり。その友誼の厚き推知るべし、よみ歌は、古今集の風を好まれ、また万葉防人の詠の、真率するを愛し、常に朗吟して鬱悶を遣り、自もその手ぶりを学れけり。蔵書一万余巻に及べり。文庫をつくりて、書と共に、土浦候に奉らんといはれたれど果さず。三中歿後、菅右京、帰国の次、京師を過り、谷森外記を訪ひ、田制のことに及び、三中の宿志を告ぐ。外記、其齎す所の出令図解抄、量品便覧等を、三条家へ奉つりしを、窃に天覧に備られしと云。 余屡々田制、度量のことを質問して、其居を尋たり。人となり、一事を沈思反覆して、考得ざれば措かず。考得たることも、猶余義あらんかと、胸中に儲て筆せず。是を以て、著述多く成らざることゝ見ゆ。死に臨んで、門人某等、量品、田令の二書を草したれど、三中、一過せしまでにて、終られたりと云。恐くは其書円満せざらん。 ○三中、平生常人に遇ふことを厭ひ、客ありといへども、先つ其様を窺ひ、その上ならでは応対せず。近隣等に何ごとありても、一切出でず。毎に隠居避世のものゝ如し。 天保十二年二月七日、鹿島之大御神爾桜木奉而懽爾謡出有、 恐也、鹿島之神能、大前爾、散久良挿頭而、何加阿曾波牟。 香取大神の御前にて社頭月といふことを 大神の、ゆにはのおもに、月澄て、ふむにかしこき、夜半の蔭かも。 |
+辞書類 | 古学,国書,和歌,国史,神人,神史,大事典,名家 |
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資料ID | 40420 |