萩原広道
分野分類 CB | 宗教学・神道学 |
---|---|
文化財分類 CB | 学術データベース |
資料形式 CB | テキストデータベース |
大分類 | 国学関連人物データベース |
タイトル | 萩原広道 |
+ヨミガナ / NAME / 性別 | ハギワラ ヒロミチ / HAGIWARA HIROMICHI / 男 |
+小見出し | 岡山藩士 |
+別称 | 〔姓〕藤原 【和】 〔称〕小平太・鹿蔵・鹿左衛門 【和】 〔名〕浜雄 【和】 [幼名]就蔵・斧太郎 【書】 〔号〕葭沼・鹿沼・出石居・鹿鳴草舎・柿園・蒜園・有韮園 【和】韮 【書】 |
+生年月日 | 文化12年<1815>2月19日 【国続】 |
+没年月日 | 文久3年<1863>12月3日 【国続】 |
+享年 | 49歳 【国続】 |
+生国 | 備前岡山 【国2】 |
+生国(現在地名) | 岡山県 |
+住国 | 摂津大坂 【国2】 |
+住国(現在地名) | 大阪府 |
+墓地名 | 大阪西成郡浦江村妙寿寺 【国2】 |
+学統 | 大国隆正,平賀元義 |
+典拠 | 国伝2,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.8050 |
+解説 | ■履歴 備前岡山藩士・藤原栄三郎の次男として生まれ、藤原小平太濱雄と称した。母は村上氏。弘化2年(1845)に致仕の後、萩原姓を名乗った。 ■学問動向 岡山にあった頃、平賀元義に学ぶ。また大国(当時は野々口姓)隆正には、『源氏物語』の「語格」について問いを呈し、隆正が備前滞在時に名簿を送って教えを受けたとされる。備前国の吉備津神社祠官・藤井高雅(藤井高尚の養孫)や西田直養、鈴木重胤、佐久良東雄といった人物と親交を結び、単なる国文学者としての一面のみならず、尊王攘夷運動にも関心を寄せ、国防論を説くなど経世的な一面も有した。大坂に移住してからは、子弟に国学・歌学を指導し、その門人には緒方洪庵のほか、『古語拾遺新註』を著した池辺真榛や松野真維などがいる。また、終生、本居宣長を思慕した。 |
+特記事項 | ■『源氏物語評釈』 畢生の大著『源氏物語評釈』は、医家である春日寛平宅において篠崎竹陰や緒方洪庵、中玉樹などを会して開かれた『源氏物語』の講筵筆記であり、江戸期を通じて最も精細な註釈書とされる。本書で述べられる説は新旧の諸註釈を参照したもので、特に宣長が『玉の小櫛』において示した説を祖述するとともに、文章の修辞的批評にまで及んでおり、単なる註釈書の域を出ている。特に「評」の視点を導入することで、『源氏物語』の文芸性を啓蒙していることは注目される。しかし、広道の病死によって源氏五十四帖中、第八帖「花の宴」までで中絶となった。 ■語学 語学方面では、広道は『てにをは係辞弁』(『手邇遠波係辞弁』)を著してもいる。この書は係結びに関する研究を記したもので、宣長説への訂正を促している。本書は内容の妥当性と啓蒙性から広く流布し、その後版を重ねた。 ■学問論 また学問論に関しては『本学提綱』(上中下巻・弘化2年頃成)が挙げられる。まず本書上巻では「道の起源」から説き起こし、以下「皇国の正道」「外国乃道」「三教一致といふ説の辨」と章を立て、「道」の在り方を論じている。中巻では上巻を受けて「歴朝の沿革」を論じ、我国の歴史的変遷、国学勃興に至る学問史が解説される。下巻には「太古の御制度今の世の御制度に近き説」「学問の大概」とあって、広道の国学思想を窺う内容となっている。 ■歌論・著作 歌論では、加藤千蔭の『万葉集略解』の補遺『万葉集略解補遺』(5巻)、香川景樹『百首異見』の批評である『百首異見摘評』といった諸著、それに『住吉物語松風抄』『西戎音訳字論』『柿の落葉』『蒜園文集』等も広道の遺した業績として明記される。このほか戯文や随筆をはじめとして読本等の執筆や中国小説の翻訳を行なっている。 |
+史資料 | 〔古学 下〕 萩原広道は、通称鹿左衛門、葭沼と号す、 出石居、鹿鳴草舎、蒜園等の別号あり、 備前国岡山の人にして、摂津国大阪に奇遇せり、 松野真維云、翁の寓居大坂にてしばしば転ぜり、始め北野村に居り伏見堀に移り、高麗橋に転し、江戸堀、心斎橋にと居し、最後北浜白子町にて没す 藩に仕へし時は、藤原小平太浜雄と云へり、浪人の後、萩原鹿蔵、又今の名に変たり、誰を師といふことなけれど、 松野云、某著書には、先師本居翁と称して鈴屋翁を尊べり 幼より国書を読むことを好まれ、中にも源氏物語を誦読せられしこと数回、故にその評釈は、畢生の力を見に足れり、 松野云、翁文章を評することを創意して、源氏物語評釈を作る、総論二巻其所見を述尽せり、然れども此書始めより全部の稿を成せしものにあらずして、当時篠崎竹陰、緒方洪庵、中玉樹の輩、春日寛平の宅に会して、源氏を講するを聞く、其時の筆記より成れるものなり、故に花宴の巻まで出来て後中風にかゝり、講筵も絶え、稿も績かず、惜むべし、 猶本居氏の古事記伝に於るが如し、傍を漢籍にも精しかりしと見え、本学提綱と云書は、先皇の大道を本とし、歴朝の沿革と、外教の得失とを精しく弁じ、学芸を十科に分ち、神道の今日に用あることを論ぜられし書なれば、其学風を見るに足るべし、玉匣補注は経済を論し、西戎音訳字論は、他方の語を訳するを論し、其他心の種、葉山の栞、古言訳解等、皆重宝の書なれば、実用に志させし人なり、兎にも角にも書物のくみ合せかた面白し、惜かな中年より中風の病にかゝり、百事皆廃す、病間左筆にて、書せるもの、僅に短冊書牘の類なり、嘉永七年久貝因幡守正典の斡旋にて、佐々木春夫資を捐て評釈の初のかたを刊行せり、 松野云、翁野々口隆正に語格のことを聞んとて、備前に在りしとき、名簿を送りしことあり、又源氏評釈出版のとき、湖月抄の板元某より、種々故障出来て出版なりがたかりしを、久貝因幡守正典朝臣の斡旋にて前田健助夏蔭門人萩原某の名義にて、許可を得たり、然れども学風は野々口、前田の流にあらさること、著書を以て知るべし、 詠歌の事は、百首異見摘評一巻あり、其持論を見るべし、文化十年に生れ、文久三年浪花白子町の寓居に没す、年五十一、摂津国西成郡浦江村妙寿寺に葬る |
+辞書類 | 古学,国書,和歌,国史,明治,神人,神史,大事典,名家 |
- | |
資料ID | 40418 |