橘守部

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル橘守部
+ヨミガナ / NAME / 性別タチバナ モリベ / TACHIBANA MORIBE / 男
+小見出し
+別名
+別称〔姓〕飯田・北畠 【和】源 【書】
〔称〕吉弥・源助・元輔 【和】
〔名〕庭麿 【国2】旭敬・庭麻呂 【和】
〔号〕池庵・蓬壺・椎本・生薬園・波瀲舎 【和】
[法号]深達院広耀常円居士 【書】
+生年月日天明元年<1781>4月8日 【国続】
+没年月日嘉永2年<1849>5月 24日 【国2】
+享年69歳 【国2】
+生国・住国
+生国・住国(現在地名)三重・東京
+生国伊勢朝明郡 【和】
+生国(現在地名)
+住国武蔵国幸手駅・江戸深川大島町・浅草弁天山・本所 【国2】
+住国(現在地名)
+墓地名牛島長命寺 【国2】江戸向島長命寺 【書】
+墓地現在地
+学統
+典拠国伝2,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.6387
+解説目次
+解説■履歴
 伊勢国朝明郡小向村・飯田長十郎元親の長男として生まれる。元親は谷川士清の門人であったと言われる。幼い頃に母親が離縁され、12歳の時に一家離散。各地を転々としたのち、親類を頼って大坂に移る。寛政9年(1797)に江戸へ出、文化6年(1809)に武蔵国幸手に転居するが、文政12年(1829)に再び江戸へ戻り、多くの門弟を教授した。弘化2年(1845)、自身の神典註釈書『稜威道別』を朝廷に献じている。

■学問動向
 寛政9年に江戸へ出たのち、葛西因是・清水浜臣に一時期入門したが、ほぼ独学で国学を修める。また浜臣を介して桐生・足利の機業家・豪農らと接触。浜臣の没後、彼らの多くはなべて守部の門人となった。そうした門人には、桐生の機業家・吉田秋主や寺子屋の師匠・田村梶子などがおり、とくに秋主は、守部が江戸へ戻った後も物心両面に於いて守部を支え続けるとともに、守部に長女(いと)と長男(元次郎)の訓育を託した。また守部の著『待問雑記』(文政12年・1829)は、機業家の生活の知恵としてすこぶる有益であったため、桐生の門人たちによく読まれた。守部の学問には、単に和歌を教えるということのみならず、こうした商人たちの期待によく応えていったという側面がある。
 守部は伴信友・平田篤胤・香川景樹とともに「天保ノ四大家」と称され、本居宣長の学問を批判し、それとは異なる立場で一家の学を確立した国学者として知られている。その学問的成果は多岐に亘るが、関心は常に「記紀」や『万葉集』に向けられ、そこから見出される古道を究明することにあった。その学問方法は、例証を博捜する実証的な態度をとる。特に『日本書紀』を重視する立場をとり、『古事記』を『日本書紀』の一書としてあつかった。国学者としての名声が高まるにつれ、津田千畝・青木永章・池浦信基・色中三中・船曳大滋等のように従学する者も多く、さらに肥前平戸藩主の松浦氏や輪王寺宮の厚遇も得た。
 守部には1男1女があり、とくに長男の冬照は父の業を継ぎ、その著書の出版にも尽力した。長女の浜子は若くして亡くなったが、歌人としての才があった。
+特記事項■守部の古道論
 本居宣長の古道論の批判者として著名な橘守部は、必ずしも研究生活の当初から、その姿勢を堅持していた訳ではない。守部が始めて国学者として自らの主張を開陳した文化13年(1816)の『神風問答』を見ると、禍津日神悪神論等、宣長の中核的な学説をそのまま祖述していたことを窺える。かかる守部の古道論の内容が変化した契機の一つは、天保期の混乱した社会情勢にあって、その原因を、民衆が天神地祇を蔑ろにしていたことに見出した守部は、当代人々の敬神の念を強固なものとするべく、神典の復権と、当代民衆の信仰を喚起するべく天神地祇の実在を論証するため神典学に取り組んだ。
 守部の古道論に於ける代表作と見做されてきた『稜威道別』は、基本的に『日本書紀』神代巻の註釈書であるが、当該書を特徴づけているのは、「神秘五箇条」という独自の神典解釈法であろう。守部に拠れば、記紀神話の伝承内容は、神から人へと口承されたものを後に筆録したものである。故に神典は、朝廷だけのものではなく、一般大衆にも膾炙したものであり、その過程に於いて、幼童等にも理解せしめるべく、昔話的要素が混入した。従って、神話伝承は、神代の事実である「本辞」と昔話的要素である「談辞(かたりごと)」(非事実)とによって構成されているのである。こうした「神秘五箇条」の中核となる第3条「稚辞談辞弁」に従って、当代人々の崇敬する神のイメージと著しく乖離する記紀の伝承内容は、悉く「談辞」とみなし非事実と位置づけられたのである。「神秘五箇条」のもう一つの核となる第5条「天、黄泉、幽、現、顕露大意」は、高天原や黄泉国あるいは根之堅洲国等、神話伝承に確認される他界を一括して神霊の鎮まる幽世の一部と規定するものであるが、かかる解釈法にも、例えば伊邪那美命を始めとする出雲系の神々を悪神と規定する宣長の理解を糺すことにあったと見做される。つまり守部にとって天神地祇とは、おしなべて人の力を遥かに凌駕し、この世に秩序をもたらす存在であり、人が天神地祇を敬祭することによって、天神地祇の御稜威が発揚され、この世に凶悪をもたらす「禍津日」(悪霊)の働きは封じ込められるのである。
 守部の古道論を語る上で、更に看過できぬ書は、『古事記』・「六国史」・『太神宮諸雑事記』といった神宮の文献等、諸書に見出せる神威・霊威に関する記述を抜粋し、守部の解説を加えた『歴朝神異例』(天保15年・1844)であろう。この書が『稜威道別』と相互補完の関係にあって、守部の古道論の課題が神霊の実在論証にあったことは、当該書の序文に次の如く記されていることから明確であろう。即ち「まろうれたむ事ありて、稜威道別ちふ書はつくりたれど、久しく埋れ来し今にしては、人の信もとりがたげなり。さりとて、現しくそのしるしも見せがたきわざなれば、こたびおもひよりて、御世々々の書の中に、時として顕はれ給ひし神の霊異を、いさゝかかき出て、示すにぞある。人のこゝろ岩木ならざれば、此いつくしき御験を見奉りて、たれか信を起さゞらん」と。かくして、守部の古道論は、今日的な表現を用いるならば、現実が対応を迫る問題に対して、神道信仰の立場から応える実践神学と見做されるのである。

■守部の語学・歌学研究
 守部の語学・歌学研究を一瞥すると、まず天保2年(1831)に完成した『山彦冊子(やまびこぞうし)』を挙げられよう。これは、我が国古典において、従前定説を得ていない語句・文章について自説を開陳したものであり、当該語句・文章の原義探求を目指したものである。また一般に「三撰格」と云われる『長歌撰格』『短歌撰格』『文書撰格』各2巻の3部作は、それぞれ古代の長歌・短歌・散文に一定の句格乃至は歌体・文体の構造分析を試みるものであって、守部の代表作の一つに数えられる。和歌と文章について、その本源の形態を古代に遡って分析しようとする「三撰格」の方法は、語句の原義探究を目的とした『山彦冊子』のそれと、方法論上の一致を指摘できよう。それは、ともに守部の古典研究に対する根本姿勢から発しているとの指摘が存在する。和歌の表現様式の分析については、今なお見るべきものが多く、高く評価される。長歌・短歌も多くつくり、歌集『穿履集』6巻がある。更に弘化4年(1847)には、「記紀」の歌謡についての詳細な註釈書である『稜威言別』を完成せしめている。
+参考文献
+史資料〔古学 下〕
 元ヨリミル所コトニシテ、鈴屋翁ノトクトコロト、矛盾シテ一家ノ学ヲナセリ。大意幽冥ノ説ヲ主張シ、禍福ミナ天照大御神ノ与奪スル所トナシ、鈴屋翁ノ産霊三神ハ、造化ノ主トナリト云ヲ取ラズシテ、造化ノ主ハ、素盞男尊ナリトシ、マタ外宮ノ祭神豊受姫ノ神ナリト云ヲ、倭姫世記等ノ古記ヲタスケテ、国常立ノ尊トスルノ類、スベテ宣長ト相反セリ。ソノコト稜威道別ニ詳ナリ。其外著ハセル書、多カル中ニ、神楽催馬楽入稜ハ、世人ニメデラレヌ。或云、入稜ハ、一条兼良公ノ説ヲ敷衍セシノミニテ、別ニ新説ナシト云。
+史資料〈著作〉
+史資料〈碑文〉
+史資料〈その他〉
+辞書類古学,国書,神大,和歌,国史,神人,神事,神史,大事典,名家
+和学者カード
-40413 国学関連人物データベース 36 1 CKP000073 橘守部 TACHIBANA MORIBE  伊勢国朝明郡小向村・飯田長十郎元親の長男として生まれる。元親は谷川士清の門人であったと言われる。幼い頃に母親が離縁され、12歳の時に一家離散。各地を転々としたのち、親類を頼って大坂に移る。寛政9年(1797)に江戸へ出、文化6年(1809)に武蔵国幸手に転居するが、文政12年(1829)に再び江戸へ戻り、多くの門弟を教授した。弘化2年(1845)、自身の神典註釈書『稜威道別』を朝廷に献じている。

■学問動向
 寛政9年に江戸へ出たのち、葛西因是・清水浜臣に一時期入門したが、ほぼ独学で国学を修める。また浜臣を介して桐生・足利の機業家・豪農らと接触。浜臣の没後、彼らの多くはなべて守部の門人となった。そうした門人には、桐生の機業家・吉田秋主や寺子屋の師匠・田村梶子などがおり、とくに秋主は、守部が江戸へ戻った後も物心両面に於いて守部を支え続けるとともに、守部に長女(いと)と長男(元次郎)の訓育を託した。また守部の著『待問雑記』(文政12年・1829)は、機業家の生活の知恵としてすこぶる有益であったため、桐生の門人たちによく読まれた。守部の学問には、単に和歌を教えるということのみならず、こうした商人たちの期待によく応えていったという側面がある。
 守部は伴信友・平田篤胤・香川景樹とともに「天保ノ四大家」と称され、本居宣長の学問を批判し、それとは異なる立場で一家の学を確立した国学者として知られている。その学問的成果は多岐に亘るが、関心は常に「記紀」や『万葉集』に向けられ、そこから見出される古道を究明することにあった。その学問方法は、例証を博捜する実証的な態度をとる。特に『日本書紀』を重視する立場をとり、『古事記』を『日本書紀』の一書としてあつかった。国学者としての名声が高まるにつれ、津田千畝・青木永章・池浦信基・色中三中・船曳大滋等のように従学する者も多く、さらに肥前平戸藩主の松浦氏や輪王寺宮の厚遇も得た。
 守部には1男1女があり、とくに長男の冬照は父の業を継ぎ、その著書の出版にも尽力した。長女の浜子は若くして亡くなったが、歌人としての才があった。

■守部の古道論
 本居宣長の古道論の批判者として著名な橘守部は、必ずしも研究生活の当初から、その姿勢を堅持していた訳ではない。守部が始めて国学者として自らの主張を開陳した文化13年(1816)の『神風問答』を見ると、禍津日神悪神論等、宣長の中核的な学説をそのまま祖述していたことを窺える。かかる守部の古道論の内容が変化した契機の一つは、天保期の混乱した社会情勢にあって、その原因を、民衆が天神地祇を蔑ろにしていたことに見出した守部は、当代人々の敬神の念を強固なものとするべく、神典の復権と、当代民衆の信仰を喚起するべく天神地祇の実在を論証するため神典学に取り組んだ。
 守部の古道論に於ける代表作と見做されてきた『稜威道別』は、基本的に『日本書紀』神代巻の註釈書であるが、当該書を特徴づけているのは、「神秘五箇条」という独自の神典解釈法であろう。守部に拠れば、記紀神話の伝承内容は、神から人へと口承されたものを後に筆録したものである。故に神典は、朝廷だけのものではなく、一般大衆にも膾炙したものであり、その過程に於いて、幼童等にも理解せしめるべく、昔話的要素が混入した。従って、神話伝承は、神代の事実である「本辞」と昔話的要素である「談辞(かたりごと)」(非事実)とによって構成されているのである。こうした「神秘五箇条」の中核となる第3条「稚辞談辞弁」に従って、当代人々の崇敬する神のイメージと著しく乖離する記紀の伝承内容は、悉く「談辞」とみなし非事実と位置づけられたのである。「神秘五箇条」のもう一つの核となる第5条「天、黄泉、幽、現、顕露大意」は、高天原や黄泉国あるいは根之堅洲国等、神話伝承に確認される他界を一括して神霊の鎮まる幽世の一部と規定するものであるが、かかる解釈法にも、例えば伊邪那美命を始めとする出雲系の神々を悪神と規定する宣長の理解を糺すことにあったと見做される。つまり守部にとって天神地祇とは、おしなべて人の力を遥かに凌駕し、この世に秩序をもたらす存在であり、人が天神地祇を敬祭することによって、天神地祇の御稜威が発揚され、この世に凶悪をもたらす「禍津日」(悪霊)の働きは封じ込められるのである。
 守部の古道論を語る上で、更に看過できぬ書は、『古事記』・「六国史」・『太神宮諸雑事記』といった神宮の文献等、諸書に見出せる神威・霊威に関する記述を抜粋し、守部の解説を加えた『歴朝神異例』(天保15年・1844)であろう。この書が『稜威道別』と相互補完の関係にあって、守部の古道論の課題が神霊の実在論証にあったことは、当該書の序文に次の如く記されていることから明確であろう。即ち「まろうれたむ事ありて、稜威道別ちふ書はつくりたれど、久しく埋れ来し今にしては、人の信もとりがたげなり。さりとて、現しくそのしるしも見せがたきわざなれば、こたびおもひよりて、御世々々の書の中に、時として顕はれ給ひし神の霊異を、いさゝかかき出て、示すにぞある。人のこゝろ岩木ならざれば、此いつくしき御験を見奉りて、たれか信を起さゞらん」と。かくして、守部の古道論は、今日的な表現を用いるならば、現実が対応を迫る問題に対して、神道信仰の立場から応える実践神学と見做されるのである。

■守部の語学・歌学研究
 守部の語学・歌学研究を一瞥すると、まず天保2年(1831)に完成した『山彦冊子(やまびこぞうし)』を挙げられよう。これは、我が国古典において、従前定説を得ていない語句・文章について自説を開陳したものであり、当該語句・文章の原義探求を目指したものである。また一般に「三撰格」と云われる『長歌撰格』『短歌撰格』『文書撰格』各2巻の3部作は、それぞれ古代の長歌・短歌・散文に一定の句格乃至は歌体・文体の構造分析を試みるものであって、守部の代表作の一つに数えられる。和歌と文章について、その本源の形態を古代に遡って分析しようとする「三撰格」の方法は、語句の原義探究を目的とした『山彦冊子』のそれと、方法論上の一致を指摘できよう。それは、ともに守部の古典研究に対する根本姿勢から発しているとの指摘が存在する。和歌の表現様式の分析については、今なお見るべきものが多く、高く評価される。長歌・短歌も多くつくり、歌集『穿履集』6巻がある。更に弘化4年(1847)には、「記紀」の歌謡についての詳細な註釈書である『稜威言別』を完成せしめている。 橘守部 TACHIBANA MORIBE , 6387 小伝 国伝 全 36004 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 男 タチバナ モリベ / TACHIBANA MORIBE / 男 ■履歴
 伊勢国朝明郡小向村・飯田長十郎元親の長男として生まれる。元親は谷川士清の門人であったと言われる。幼い頃に母親が離縁され、12歳の時に一家離散。各地を転々としたのち、親類を頼って大坂に移る。寛政9年(1797)に江戸へ出、文化6年(1809)に武蔵国幸手に転居するが、文政12年(1829)に再び江戸へ戻り、多くの門弟を教授した。弘化2年(1845)、自身の神典註釈書『稜威道別』を朝廷に献じている。

■学問動向
 寛政9年に江戸へ出たのち、葛西因是・清水浜臣に一時期入門したが、ほぼ独学で国学を修める。また浜臣を介して桐生・足利の機業家・豪農らと接触。浜臣の没後、彼らの多くはなべて守部の門人となった。そうした門人には、桐生の機業家・吉田秋主や寺子屋の師匠・田村梶子などがおり、とくに秋主は、守部が江戸へ戻った後も物心両面に於いて守部を支え続けるとともに、守部に長女(いと)と長男(元次郎)の訓育を託した。また守部の著『待問雑記』(文政12年・1829)は、機業家の生活の知恵としてすこぶる有益であったため、桐生の門人たちによく読まれた。守部の学問には、単に和歌を教えるということのみならず、こうした商人たちの期待によく応えていったという側面がある。
 守部は伴信友・平田篤胤・香川景樹とともに「天保ノ四大家」と称され、本居宣長の学問を批判し、それとは異なる立場で一家の学を確立した国学者として知られている。その学問的成果は多岐に亘るが、関心は常に「記紀」や『万葉集』に向けられ、そこから見出される古道を究明することにあった。その学問方法は、例証を博捜する実証的な態度をとる。特に『日本書紀』を重視する立場をとり、『古事記』を『日本書紀』の一書としてあつかった。国学者としての名声が高まるにつれ、津田千畝・青木永章・池浦信基・色中三中・船曳大滋等のように従学する者も多く、さらに肥前平戸藩主の松浦氏や輪王寺宮の厚遇も得た。
 守部には1男1女があり、とくに長男の冬照は父の業を継ぎ、その著書の出版にも尽力した。長女の浜子は若くして亡くなったが、歌人としての才があった。 ■守部の古道論
 本居宣長の古道論の批判者として著名な橘守部は、必ずしも研究生活の当初から、その姿勢を堅持していた訳ではない。守部が始めて国学者として自らの主張を開陳した文化13年(1816)の『神風問答』を見ると、禍津日神悪神論等、宣長の中核的な学説をそのまま祖述していたことを窺える。かかる守部の古道論の内容が変化した契機の一つは、天保期の混乱した社会情勢にあって、その原因を、民衆が天神地祇を蔑ろにしていたことに見出した守部は、当代人々の敬神の念を強固なものとするべく、神典の復権と、当代民衆の信仰を喚起するべく天神地祇の実在を論証するため神典学に取り組んだ。
 守部の古道論に於ける代表作と見做されてきた『稜威道別』は、基本的に『日本書紀』神代巻の註釈書であるが、当該書を特徴づけているのは、「神秘五箇条」という独自の神典解釈法であろう。守部に拠れば、記紀神話の伝承内容は、神から人へと口承されたものを後に筆録したものである。故に神典は、朝廷だけのものではなく、一般大衆にも膾炙したものであり、その過程に於いて、幼童等にも理解せしめるべく、昔話的要素が混入した。従って、神話伝承は、神代の事実である「本辞」と昔話的要素である「談辞(かたりごと)」(非事実)とによって構成されているのである。こうした「神秘五箇条」の中核となる第3条「稚辞談辞弁」に従って、当代人々の崇敬する神のイメージと著しく乖離する記紀の伝承内容は、悉く「談辞」とみなし非事実と位置づけられたのである。「神秘五箇条」のもう一つの核となる第5条「天、黄泉、幽、現、顕露大意」は、高天原や黄泉国あるいは根之堅洲国等、神話伝承に確認される他界を一括して神霊の鎮まる幽世の一部と規定するものであるが、かかる解釈法にも、例えば伊邪那美命を始めとする出雲系の神々を悪神と規定する宣長の理解を糺すことにあったと見做される。つまり守部にとって天神地祇とは、おしなべて人の力を遥かに凌駕し、この世に秩序をもたらす存在であり、人が天神地祇を敬祭することによって、天神地祇の御稜威が発揚され、この世に凶悪をもたらす「禍津日」(悪霊)の働きは封じ込められるのである。
 守部の古道論を語る上で、更に看過できぬ書は、『古事記』・「六国史」・『太神宮諸雑事記』といった神宮の文献等、諸書に見出せる神威・霊威に関する記述を抜粋し、守部の解説を加えた『歴朝神異例』(天保15年・1844)であろう。この書が『稜威道別』と相互補完の関係にあって、守部の古道論の課題が神霊の実在論証にあったことは、当該書の序文に次の如く記されていることから明確であろう。即ち「まろうれたむ事ありて、稜威道別ちふ書はつくりたれど、久しく埋れ来し今にしては、人の信もとりがたげなり。さりとて、現しくそのしるしも見せがたきわざなれば、こたびおもひよりて、御世々々の書の中に、時として顕はれ給ひし神の霊異を、いさゝかかき出て、示すにぞある。人のこゝろ岩木ならざれば、此いつくしき御験を見奉りて、たれか信を起さゞらん」と。かくして、守部の古道論は、今日的な表現を用いるならば、現実が対応を迫る問題に対して、神道信仰の立場から応える実践神学と見做されるのである。

■守部の語学・歌学研究
 守部の語学・歌学研究を一瞥すると、まず天保2年(1831)に完成した『山彦冊子(やまびこぞうし)』を挙げられよう。これは、我が国古典において、従前定説を得ていない語句・文章について自説を開陳したものであり、当該語句・文章の原義探求を目指したものである。また一般に「三撰格」と云われる『長歌撰格』『短歌撰格』『文書撰格』各2巻の3部作は、それぞれ古代の長歌・短歌・散文に一定の句格乃至は歌体・文体の構造分析を試みるものであって、守部の代表作の一つに数えられる。和歌と文章について、その本源の形態を古代に遡って分析しようとする「三撰格」の方法は、語句の原義探究を目的とした『山彦冊子』のそれと、方法論上の一致を指摘できよう。それは、ともに守部の古典研究に対する根本姿勢から発しているとの指摘が存在する。和歌の表現様式の分析については、今なお見るべきものが多く、高く評価される。長歌・短歌も多くつくり、歌集『穿履集』6巻がある。更に弘化4年(1847)には、「記紀」の歌謡についての詳細な註釈書である『稜威言別』を完成せしめている。 たちばな もりべ,北畠,飯田,源,元輔,吉称,源助,庭麿,旭敬,池庵,藤壺,椎本,生薬園,波瀲舎,深達院広耀常円居士 タチバナ モリベ 〔姓〕北畠 【国2】飯田 【国続】源 【書】 〔称〕元輔 【国2】吉称 【国続】源助 【和】 〔名〕庭麿 【国2】旭敬 【国続】 〔号〕池庵 【国2】藤壺・椎本・生薬園 【国2】(続),波瀲舎 【和】 [法号]深達院広耀常円居士 【書】 〔姓〕飯田・北畠 【和】源 【書】
〔称〕吉弥・源助・元輔 【和】
〔名〕庭麿 【国2】旭敬・庭麻呂 【和】
〔号〕池庵・蓬壺・椎本・生薬園・波瀲舎 【和】
[法号]深達院広耀常円居士 【書】 43929 天明元年<1781>4月8日 【国続】 5月24日 嘉永2年<1849>5月 24日 【国2】 69歳 【国2】 1781 - 1849 伊勢,武蔵国幸手駅・江戸深川大島町・浅草辨天山・本所 三重・東京 伊勢朝明郡 【和】 武蔵国幸手駅・江戸深川大島町・浅草弁天山・本所 【国2】 牛島長命寺 【国2】江戸向島長命寺 【書】 国伝2,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.6387 〔古学 下〕
 元ヨリミル所コトニシテ、鈴屋翁ノトクトコロト、矛盾シテ一家ノ学ヲナセリ。大意幽冥ノ説ヲ主張シ、禍福ミナ天照大御神ノ与奪スル所トナシ、鈴屋翁ノ産霊三神ハ、造化ノ主トナリト云ヲ取ラズシテ、造化ノ主ハ、素盞男尊ナリトシ、マタ外宮ノ祭神豊受姫ノ神ナリト云ヲ、倭姫世記等ノ古記ヲタスケテ、国常立ノ尊トスルノ類、スベテ宣長ト相反セリ。ソノコト稜威道別ニ詳ナリ。其外著ハセル書、多カル中ニ、神楽催馬楽入稜ハ、世人ニメデラレヌ。或云、入稜ハ、一条兼良公ノ説ヲ敷衍セシノミニテ、別ニ新説ナシト云。 ・鈴木暎一 『橘守部』(吉川弘文館, 1988.10)
・太田善麿 「橘守部と「記紀歌謡」」(『国語と国文学』19-7, 昭和17)
・田邊正男 「文章撰格の文体論的意義」(『國學院雑誌』60-8, 1959)
・風間誠史 「表現の国学―賀茂真淵から橘守部まで―」(『日本文学』48, 1999)
・中野裕三 「橘守部の神理解」(『神道宗教』184・185, 2002) 古学,国書,神大,和歌,国史,神人,神事,神史,大事典,名家 史資料・解説 天明(1781-1789) 寛政(1789-1801) 享和(1801-1804) 文化(1804-1818) 文政(1818-1830) 天保(1830-1844) 弘化(1844-1848) 嘉永(1848-1854)

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