清原雄風

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル清原雄風
+ヨミガナ / NAME / 性別キヨハラ オカゼ / KIYOHARA OKAZE / 男
+小見出し岡藩黌由学館、医家
+別名
+別称〔姓〕森 【国1】小沢 【書】
〔称〕忠次郎 【国1】
〔名〕蔵 【国1】玄達蔵・玄達 【和】
〔字〕伯高 【国1】
〔号〕崑岡・楊伯・雲巣道人 【国1】
+生年月日延享4年<1747> 【国1】
+没年月日文化7年<1810>8月20日 【国1】
+享年64歳 【国1】(一説に、68歳 【和】)
+生国・住国
+生国・住国(現在地名)
+生国豊後岡 【国1】豊後直入郡 【和】
+生国(現在地名)
+住国江戸・上総・下総 【国1】下総香取郡・江戸 【和】
+住国(現在地名)
+墓地名
+墓地現在地
+学統
+典拠国伝1,国書人名辞典,和学者総覧.3649
+解説目次
+解説■履歴
豊後岡藩の医師森養節の子として生まれ、父の生業を継いで医師となる。医師としては小沢玄達【※1】、歌人としては清原雄風と称した。後に、藩主中川久貞が抜擢して、藩学由学館の司業を命ぜられた【※2】。しかし自由奔放な性格から官務を厭い学館へ出仕しないことも多く、藩主より蟄居謹慎を命じられたこともあったという【※3】。

■学問動向・門人
幼少より学問を好み、詩才に富み、筑前に遊学して儒学者亀井道載(南冥)と交流したことが伝わる【※4】。安永4年(1775)頃、名を変じて諸所を放浪し【※5】、はじめ江戸に寓して、上総某寺、下総銚子の酒屋、下総の香取などを転住して和歌・漢詩に没頭した。香取に在した頃から、江戸の加藤千蔭と詠歌を交わし始めたとされる【※6】。そして寛政期には再び江戸に帰り、上野・葛飾などで数年毎に居を変えつつ草の庵を結んだという。この頃から歌人としての本領が認められて加藤千蔭・村田春海らと共に詠歌に専念し、「清原雄風」と称するようになった【※7】。その後、次第に雄風の名声が高まって招聘しようとする諸侯も多くなり、豊後岡藩も脱藩の旧罪を許して邸門に出入りさせた【※8】。雄風に教えを乞う者は頗る多く、門人として正木千幹の他、藤原正虎・藤原清覧・小河伴鹿・村田了阿・岸本弓弦・一柳千古などが挙げられる【※9】。文化7年(1810)雄風が没して後、門人正木千幹が雄風の和歌を集録した『雄風歌集』を編纂した【※10】。<⇒特記1> 

(注)
【※1】清宮秀堅『古学小伝 下』明治19年(『国学和学研究資料集成』第1巻、平成20年)
【※2】角田九華『続近世叢語』弘化2年、17丁ウ(『近世文芸者伝記叢書』第9巻、昭和63年)
【※3】今村孝次「清原雄風」17頁(『清原雄風家集』大正12年)
【※4】角田九華『続近世叢語』弘化2年、17丁ウ(『近世文芸者伝記叢書』第9巻、昭和63年)
【※5】今村孝次「清原雄風」20頁(『清原雄風家集』大正12年)
【※6】角田九華『続近世叢語』弘化2年、18丁オ・ウ(『近世文芸者伝記叢書』第9巻、昭和63年)
【※7】角田九華『続近世叢語』弘化2年、18丁ウ(『近世文芸者伝記叢書』第9巻、昭和63年)
【※8】角田九華『続近世叢語』弘化2年、18丁ウ(『近世文芸者伝記叢書』第9巻、昭和63年)
【※9】今村孝次「清原雄風」26頁(『清原雄風家集』大正12年)
【※10】角田九華『続近世叢語』弘化2年、18丁ウ(『近世文芸者伝記叢書』第9巻、昭和63年)
+特記事項<特記1> 著作
著作として、『清原雄風家集』『新撰六帖』等があるほか、雄風が編集した『類題怜野集』12巻(文化4年、序文・加藤千蔭、跋文・村田春海)は、題毎に分類することで初学者の手本とするべく、『万葉集』をはじめ「八代集」(『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』)、『新勅撰和歌集』『月詣和歌集』『続詞花和歌集』『万代和歌集』『古今和歌六帖』の諸書より歌題を抽出のうえ、約13,000首余りの秀歌を集めて編集されたもので、広く使用されて類題集流行のさきがけとなって版を重ねた。
【参考文献】
・今村孝次「清原雄風」(『清原雄風家集』大正12年)
+参考文献
+史資料〔三十六家下〕
 翁平生座するごとに、其膝を揺顫す。是を以て人異名して顫々先生といふ。後下総の香取に移徒す。時に加藤千蔭と交りを結び、詠評して頻りに贈答なせり。こゝに寛政の季年、江戸に徒居して田町にト居し、小澤玄達と称して医を業とす。然れども其好むところにあらざりければ、此に汲々せず、独り書を読み、また詩を作りて、自ら楽しみ、或は歌を詠て情を述べつゝ、千蔭、春海の二翁と交遊し、遂に医事を廃して、専ら詠歌を治め、こゝにして更に清原雄風と称し、頻りに道を究む。こゝに於て、名声大いに高く、諸侯これを召て客となす。
+史資料〈著作〉
+史資料〈碑文〉
+史資料〈その他〉
+辞書類古学,国書,和歌,国史,大事典,名家
+和学者カード
-40402 国学関連人物データベース 36 1 CKP000062 清原雄風 KIYOHARA OKAZE 清原雄風 KIYOHARA OKAZE , 3649 小伝 国伝 全 35993 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 岡藩黌由学館、医家 男 キヨハラ オカゼ / KIYOHARA OKAZE / 男 ■履歴
豊後岡藩の医師森養節の子として生まれ、父の生業を継いで医師となる。医師としては小沢玄達【※1】、歌人としては清原雄風と称した。後に、藩主中川久貞が抜擢して、藩学由学館の司業を命ぜられた【※2】。しかし自由奔放な性格から官務を厭い学館へ出仕しないことも多く、藩主より蟄居謹慎を命じられたこともあったという【※3】。

■学問動向・門人
幼少より学問を好み、詩才に富み、筑前に遊学して儒学者亀井道載(南冥)と交流したことが伝わる【※4】。安永4年(1775)頃、名を変じて諸所を放浪し【※5】、はじめ江戸に寓して、上総某寺、下総銚子の酒屋、下総の香取などを転住して和歌・漢詩に没頭した。香取に在した頃から、江戸の加藤千蔭と詠歌を交わし始めたとされる【※6】。そして寛政期には再び江戸に帰り、上野・葛飾などで数年毎に居を変えつつ草の庵を結んだという。この頃から歌人としての本領が認められて加藤千蔭・村田春海らと共に詠歌に専念し、「清原雄風」と称するようになった【※7】。その後、次第に雄風の名声が高まって招聘しようとする諸侯も多くなり、豊後岡藩も脱藩の旧罪を許して邸門に出入りさせた【※8】。雄風に教えを乞う者は頗る多く、門人として正木千幹の他、藤原正虎・藤原清覧・小河伴鹿・村田了阿・岸本弓弦・一柳千古などが挙げられる【※9】。文化7年(1810)雄風が没して後、門人正木千幹が雄風の和歌を集録した『雄風歌集』を編纂した【※10】。<⇒特記1> 

(注)
【※1】清宮秀堅『古学小伝 下』明治19年(『国学和学研究資料集成』第1巻、平成20年)
【※2】角田九華『続近世叢語』弘化2年、17丁ウ(『近世文芸者伝記叢書』第9巻、昭和63年)
【※3】今村孝次「清原雄風」17頁(『清原雄風家集』大正12年)
【※4】角田九華『続近世叢語』弘化2年、17丁ウ(『近世文芸者伝記叢書』第9巻、昭和63年)
【※5】今村孝次「清原雄風」20頁(『清原雄風家集』大正12年)
【※6】角田九華『続近世叢語』弘化2年、18丁オ・ウ(『近世文芸者伝記叢書』第9巻、昭和63年)
【※7】角田九華『続近世叢語』弘化2年、18丁ウ(『近世文芸者伝記叢書』第9巻、昭和63年)
【※8】角田九華『続近世叢語』弘化2年、18丁ウ(『近世文芸者伝記叢書』第9巻、昭和63年)
【※9】今村孝次「清原雄風」26頁(『清原雄風家集』大正12年)
【※10】角田九華『続近世叢語』弘化2年、18丁ウ(『近世文芸者伝記叢書』第9巻、昭和63年) <特記1> 著作
著作として、『清原雄風家集』『新撰六帖』等があるほか、雄風が編集した『類題怜野集』12巻(文化4年、序文・加藤千蔭、跋文・村田春海)は、題毎に分類することで初学者の手本とするべく、『万葉集』をはじめ「八代集」(『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』)、『新勅撰和歌集』『月詣和歌集』『続詞花和歌集』『万代和歌集』『古今和歌六帖』の諸書より歌題を抽出のうえ、約13,000首余りの秀歌を集めて編集されたもので、広く使用されて類題集流行のさきがけとなって版を重ねた。
【参考文献】
・今村孝次「清原雄風」(『清原雄風家集』大正12年) きよはら おかぜ,森,小沢,忠次郎,蔵,玄達,伯高,崑岡,楊伯,雲巣道人 キヨハラ オカゼ 〔姓〕森 【国1】小沢 【書】 〔称〕忠次郎 【国1】 〔名〕蔵 【国1】玄達蔵・玄達 【和】 〔字〕伯高 【国1】 〔号〕崑岡・楊伯・雲巣道人 【国1】 〔姓〕森 【国1】小沢 【書】
〔称〕忠次郎 【国1】
〔名〕蔵 【国1】玄達蔵・玄達 【和】
〔字〕伯高 【国1】
〔号〕崑岡・楊伯・雲巣道人 【国1】 延享4年<1747> 【国1】 8月20日 文化7年<1810>8月20日 【国1】 64歳 【国1】(一説に、68歳 【和】) 1747 - 1810 豊後岡 【国1】豊後直入郡 【和】 江戸・上総・下総 【国1】下総香取郡・江戸 【和】 国伝1,国書人名辞典,和学者総覧.3649 〔三十六家下〕
 翁平生座するごとに、其膝を揺顫す。是を以て人異名して顫々先生といふ。後下総の香取に移徒す。時に加藤千蔭と交りを結び、詠評して頻りに贈答なせり。こゝに寛政の季年、江戸に徒居して田町にト居し、小澤玄達と称して医を業とす。然れども其好むところにあらざりければ、此に汲々せず、独り書を読み、また詩を作りて、自ら楽しみ、或は歌を詠て情を述べつゝ、千蔭、春海の二翁と交遊し、遂に医事を廃して、専ら詠歌を治め、こゝにして更に清原雄風と称し、頻りに道を究む。こゝに於て、名声大いに高く、諸侯これを召て客となす。 古学,国書,和歌,国史,大事典,名家 史資料 延享(1744-1748) 寛延(1748-1751) 宝暦(1751-1764) 明和(1764-1772) 安永(1772-1781) 天明(1781-1789) 寛政(1789-1801) 享和(1801-1804) 文化(1804-1818)

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