塙保己一

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル塙保己一
+ヨミガナ / NAME / 性別ハナワ ホキイチ / HANAWA HOKIICHI / 男
+小見出し検校、和学講談所教授
+別名
+別称〔姓〕荻野 【国1】
〔称〕寅之助・辰之助・千彌 【国1】多門房 【和】保木野一 【書】
〔名〕保木野一 【和】
[法名]和学院總検校心眼明光居士 【国1】
〔号〕水母子・温故堂 【国1】早鞆和布刈(はやとものめかり) 【書】
[法号]和学院心眼智光居士 【書】
+生年月日延享3年<1746>5月5日 【国1】
+没年月日文政4年<1821>9月12日 【国続】
+享年76歳 【国続】
+生国・住国
+生国・住国(現在地名)
+生国武蔵国児玉郡保己野村 【国1】
+生国(現在地名)埼玉県
+住国江戸六番町 【国1】
+住国(現在地名)東京都
+墓地名四谷醫王山安楽寺(明治31年に四谷愛染院に移す) 【国1】
+墓地現在地
+学統荻原宗固・賀茂真淵・日野資枝・外山光實・川島貴林・山岡明阿弥・雨富須賀一山岡浚明・閑院宮典仁親王,山岡明阿・萩原宗固・外山光実
+典拠国伝1,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.8233
+解説目次
+解説
+特記事項
+参考文献
+史資料〔温故堂塙先生伝〕
温故堂塙大人、名は保己一、氏は萩野といふ。塙は其師須賀一検校の本姓を冒されし也。…幼名を寅之助といふ。三歳の年より肝を病て、五歳の春、俄に盲目となる。或人大人の父母に告て曰く、寅之助が歳星其身にかなはず。むべ歳星の次を転しなばよかるべしと。これによりて生年二歳を減じ、戊辰の生に准へ辰之助と改む。又同郡池田村なる験者正覚房が名に擬らへて、一名を多門房と名づけらる。

・・・十二といふ年。 宝暦七年丁丑 母をうしなひて、うれひ忍こと尋常ならず。これより漸く東都に出て、業をなすべき心起こされしが、或人の語るをきかれしに、当時某とかやいふもの、太平記一部を暗誦し、東都にありて諸家にいでいり、名を顕はすときゝて、大人心におもはく、太平記は全部四十巻に過ず、これをしるをもて名を顕はし、妻子を養ふことを得、かたかるべきことかは。こゝに至て東都にいづるの志いと切なり。十三といふとしの春 宝暦十三年庚申三月 父に請て、絹商と共に、東都にいたり、 此絹商は江戸へ出て、与力の株を買て、後遂に町奉行までに昇進して、根岸肥前守といひし人也。さてかく連立て、江戸までくる途中にて、大人と互に名の挙げくらべせんと約されしとぞ。 雨富検校須賀一が門人となり、彼家に寄宿し、名を千弥と改む。須賀一検校、本氏は塙と云、常陸国茨城郡、市原村の人なり、雨富といふは、盲目の座のならひに、在名といふものにて、別称なり、本氏をそのまゝに、在名に用ふる人もあり、ことに設けて称ふるものもあり、雨富の家は四谷の西念寺横町にあり。 盲目一座のならはしにて、この座につらなるものは、必ず瑟琶、琴、三絃などいふものを習ひ得て、音曲の事を業とし、又は針治導引抔、なりはひぐさとなすことなるを。大人は文よまむと思ふ事、始よりの根ざしなれば、心そこにあらず。されど師のいさめやむことなければ、其筋のことも習ふさまなれど、ともすればひまをうかゞひ、文読ことのみを旨とす。翌年荻原宗固、 百華庵と称す、 が門弟となり、物語やうの文どもを読て、歌よむ業をまなばる。其比、川島貴林(タカシゲ) 字は源八郎といふ人あり。山崎の流れを汲みて、神道の事にこゝろをいたせし人也。大人これにつきて、小学近思録などよりはじめて、異朝の書籍をならふ節には神道の教をも受たり。又雨富が家の隣は松平乗尹(ノリタダ) 織部正 の家なりけるが、この人も文よむことを好み、大人の学才の、人にことなるをめでゝ、いと懇にして、劇務のひまには、物よみをしへければ、大人もいとうれしきことに思ひ、其家に行通ひて、契約をたて、あしたの寅の刻より卯の刻にいたりて、一事がほどは、必ず文よみならはれけり。

・・・廿四といふ年の春、 明和六年三月 歌の師宗固、大人と横田の茂語(シゲツゲ) 字は孫兵衛 とを招ていへらく、汝等、このとしごろ読書詠歌にまめなること、余人にすぎたり。後には皆業なりぬえし。然れども人各得る処あり。彼を学びこれをならはんとすれば、人にすぐれんことかたかりなん。これよりの後、茂語は歌をむねとし、読書はこれにつげよ。保木は歌よむことをやめて、専ら文よむべし。されどことに勝れたらん人によらずば、ことゆくべからず。当今賀茂真淵は、国学の才名、世にしられたり。保木は彼につきて学べよ。但し吾にならひしこと、かたくかたるべからず。もと学流異なれば、かの人もしくば隔心ありなんと、大人そのことに従ひ、県居につきてならふ。初めてゆきたりしをり、県居こゝまでは、何書読れしやなど、問れければ、文よむすべをも、わきかねしまゝには、宗祇季吟などやらの人の、かかれたりける書のみ、よみて侍れば、あたらいとまをむなしくなし候と、いらへられしに、県居いたくめで、そはよき業をしつる人かな。今の世の学者は、大かた人のいひけん、言まなびをのみして、書のよしあしを、おのれとさとる人は少なし。おのれとわきまへしるものならねば、業なりがたしとなんいひける。又大人の詠て出したる歌は「すがるなす、腰ぼそ未通女、えましかば、あさよいさけず、なづさはましを。」今一首のは「宮城野の、萩の露はら、分ぬ夜も、ひとりしぬれば、ぬるゝ袖かな。」とぞありし。大人古体の歌よまれしは、多く聞えず、且これぞ初にはありける。されば県居も並ならず感(ホメ)思はれけり。こゝにて六国史をも、とげ読れけり。されどこの冬、県居死たりければ、わづか年半ばかりななむ、教へをば受られにき。

・・・あはれ世のため、後のためにもならんことをなしてん。異朝には漢魏叢書などよりはじめて、さる叢書どもゝ聞えたり。皇国には、いまだそのためしなし。さらばこゝにも、かしこにならひて、かしここゝにちりぼひある、一巻二巻の書をとり集めて、かた木にゑりおきなば、国学する人の、能たすけなるべしと、思ひとりて、同八年己亥の元日より、天満宮に誓ひ、心経百万巻願たてし。なかばよまむほどに、千部の書をあつめ、よみをへなんまでには上木の功なりねかしとて、これよりあしたあしたには塩だちし、日ごとに寅の時より起いで、百巻つゝの看経おこたらず。此年又家うつりして、土手四番町なる東條 信濃守 の宅地に住む。これより先にも、来り学ぶもの無にはあらねど、こゝに至りて、門人となるもの数多かり。現時など講ぜらるゝに、つどひきく人、大かたならず。奈佐勝皋(カツヨシ) 妙阿の門人字は久左衛門 横田茂語などは、みな学びのともなりけるが、物語やうのこと葉、大人に問聞えけり。屋代弘賢 字は太郎 も大人の門人となりて、二心なく学びければ、後には世にもきこゆる人となれり。さて彼集めてんと思ふ書をば、群書類従といふ名を設けて、こゝに求めかしこにかり得しほどに、珍書どもゝ多くいできにければ、やがて上木の功を起し、年に従ひて若干の巻数いできにけり。

・・・このとし(※天明四年)宗固、また大人をよびていふやう、汝先に我ことに従ひ、歌を廃て、読書に力を尽くして、今既に学術なりにけり。むべこれより又歌をかね勤むべし。人の拒むをりに、上下つゞかざらん、歌よまむも便なければなり。われ年老にたれば、かなふ可らず。日野資枝卿の門人と成るべしと聞えければ、これより日野殿の教をうけらる。当時宗固翁は冷泉家にて、為村卿の門人なり。さるを二条家なる日野殿の門にいるべきよしいはれたるは、翁もはじめは二条家にて、烏丸光永卿の門下なりしが、令息光種卿事にあたりて、蟄居ありしの後、為村卿には従ひけり。これ為村卿は、もと光永卿に習ひ給ひしゆかりあるゆゑなり。されば初を思ひて、かくいはれたるものなりとぞ。資枝卿薨じ給ひし後は、閑院宮に学びまゐらせ、又宮もかくれ給ひては、外山光実卿の門人にいられしなり。

・・・寛政四年といふとし、笄橋のほとりより火いでゝ、東都なかば焼けたりし日、四番町の家もやけにければ、しばし人の家に仮寓したり。そのをりに験者常照院といふものあり。 上野国の人 文字のかたにもこゝろありければ、常に大人のかたに来とぶらひてけるが、いうやう今の世は、文道ひらけて、経書よむかたはいふもさらなり、神道歌道につきても、その家々皆定まれり。たゞ歴史律令などよむかたのなきが、いとをしきに、あはれ公に請(マウシ)て、さるべき地所給はりて、講談の所さだめ、かんのくだり、ときをしへてんやと。大人もさるべく思はれければ、翌年の春 寛政五年癸丑二月 そのあらましをこひもうせしかば、公にもいとよきことにおぼして、和学講談所建つべき地所、かし給はるべきよし、とみに仰ことありて、その七月に裏六番町なる宅地四百坪をかし給はる。同じき十一月、講談所なりにければ、やがて会始あり。・・・同七年の九月に、講談所永く絶まじき料にとて、町屋敷を給はり、年ごとにその治むる金五十両をもて、雑費にあてらる。
+史資料〈著作〉〔明良帯録 二〕
 ○寛政の度に、和学に習熟する故を以て、和学講談所と号し、六番町に於て、第宅を拝領被2仰付1、和書著述編集せり。群書類従、六国史、二十一代集、江家次第、菅家次第、百練抄等を考訂す。其外著述の書籍、御書物奉行へ訴て、御留判有レ之、品川抅屋敷に蔵書に蔵板を入置けり。

〔水母余韵〕
今物語(或云時秋物語)を校正し、之を始めて出版して、堀田摂津守(正敦若年寄賢明の名一時に高し)へもて参りければ、摂津守いふやう、其方は瞽者にして、書を読むは、名を天下に掲げ、功を後世に貽さんとてなるべし。然るに今斯一小冊をものすとはいかにやと。是より大人奮発して、大著述の志あり。遂に群書類従上木の挙あるに至れり。

〔群書一覧 六〕
 郡書類従五百三十巻、 六百三十六本 江都の塙検校保己一、これをあつめて蔵刻とす。此書漢土の叢書の類にして、皇国古今小冊の書、一千二百七十三種、或は合せ、或は分ちて、六百三十六冊とし、目録一巻を附す。其類を分つ事左の如し。(目録略)按ずるに、本邦古来、書典の大部なるものは、滋野貞主の、秘符略説千巻のみ。それより降りて、藤原の敦基の、桂下類林、三百六十巻。藤原の通憲の、法曹類林、二百三十巻等なり。其書とも、早く亡びて、世に伝はらず。国史に云、淳和天皇の天長八年、東宮学士、滋野貞主、諸儒と古今の書を撰集す。類を以て相従ふ、一千巻あり。秘符略と名づく云々。今塙氏集むる所の書、すでに一千二百七十余部に及べり。彼天長より後、千歳の今に至て、此盛挙あること、その功亦偉ならずや。また此書に名づくるに、類従の二字を以てすることは、ひそかに彼秘符略にとるところあるにや。このごろ、群書類従彙輯のこゝろざしありて、再び古今の書をあつむるに、已に一千部のなかばに過たるよし、其門人某氏ものがたれり。

〔塙検校伝〕
 温古堂学則
          定
一、古事記 六国史 律 令義解 三代格 内理式 儀式 延喜式 符宣抄 西宮記 北山抄 江家次第 日本紀略 扶桑略記 百練抄 帝王編年記 一代要記 歴代皇記 世継 水鏡 大鏡 今鏡 増鏡 栄花物語 東鑑 本朝文粋 続本朝文粋 政事要略 朝野郡載 万葉集 廿一代集 新葉集 源氏物語
   右三拾三部の書中、毎月九之日、自午中刻至申中刻まで、申合会読校正可致事、
一、稽古の道は、道として読べからざるはなし。依之雖為三拾三部之外、申合自申中刻至酉上刻まで可致考訂事、
一、読書の間は、雑談殊に令停止、議論校正専一にいたすべき事、
   年 月 日
○和学講談所、寛政五年、癸丑十一月、裏六番町に於て、和学所普請落成し、会読を始めたり。是れ実に、開闢以来、国学館の創設なりと云。幕府に於て、初めは、大人の私願を容れ、保護を与え、遂には林大学頭の支配に属せしむ。(実は林家なり、之を視て独立の一学院と做し、令達を、取次のみになりき。)
開祖初代 塙保己一(自寛政五年、至文政五年、三十年間)二代男塙次郎(忠実、自文政五年、至文久二年、丗六年間)三代孫塙敬太郎(忠韶、自文久二年、至慶応三年、六年間)
○和学所定員、 出役 拾人 
手伝出役(稽古所共)拾四人 八人 稽古所附世話心得 五人 同世話心得 九人(稽古所とは、和学所の学寮なり、塙の家の温古堂と、混ずる勿れ、)
 因に云、幕府末世には、松岡重三郎事務を幹し、小貫弥太郎出役頭取たり。又鈴林類集取調として、木村荘之助(正辞)小中村将曹(清矩)横山保三(由清)の三人会頭助を勤め、石束達三郎、武家故実会頭世話心得たりしが、慶応三年六月、塙を始め、役向一同廃せられたり。
+史資料〈碑文〉
+史資料〈その他〉
+辞書類古学,国書,和歌,国史,神人,神事,神史,大事典,名家
+和学者カード
-40395 国学関連人物データベース 36 1 CKP000055 塙保己一 HANAWA HOKIICHI 塙保己一 HANAWA HOKIICHI , 8233 小伝 国伝 全 35986 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 検校、和学講談所教授 男 ハナワ ホキイチ / HANAWA HOKIICHI / 男 はなわ ほきいち,萩野,寅之助,辰之助,多聞坊,千彌,保己野一,水母子,温故堂4,早鞆和布刈,はやとものめかり,和学院總検校心眼明光居士,和学院心眼智光居士 ハナワ ホキイチ 〔姓〕荻野 【国1】 〔称〕寅之助・辰之助・千彌 【国1】多門房 【和】保木野一 【書】 〔名〕保木野一 【和】[法名]和学院總検校心眼明光居士 【国1】 〔号〕水母子・温故堂 【国1】早鞆和布刈(はやとものめかり) 【書】 [法号]和学院心眼智光居士 【書】 〔姓〕荻野 【国1】
〔称〕寅之助・辰之助・千彌 【国1】多門房 【和】保木野一 【書】
〔名〕保木野一 【和】
[法名]和学院總検校心眼明光居士 【国1】
〔号〕水母子・温故堂 【国1】早鞆和布刈(はやとものめかり) 【書】
[法号]和学院心眼智光居士 【書】 43956 延享3年<1746>5月5日 【国1】 9月12日 文政4年<1821>9月12日 【国続】 76歳 【国続】 1746 - 1821 武蔵国 武蔵国 武蔵国児玉郡保己野村、武蔵江戸六番町 埼玉県 東京都 武蔵国児玉郡保己野村 【国1】 埼玉県 江戸六番町 【国1】 東京都 四谷醫王山安楽寺(明治31年に四谷愛染院に移す) 【国1】 荻原宗固・賀茂真淵・日野資枝・外山光實・川島貴林・山岡明阿弥・雨富須賀一山岡浚明・閑院宮典仁親王,山岡明阿・萩原宗固・外山光実 荻原宗固・賀茂真淵・日野資枝・外山光實・川島貴林・山岡明阿弥・雨富須賀一 【国1】山岡浚明・閑院宮典仁親王 【書】山岡明阿・萩原宗固・外山光実 【和】 国伝1,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.8233 〔温故堂塙先生伝〕
温故堂塙大人、名は保己一、氏は萩野といふ。塙は其師須賀一検校の本姓を冒されし也。…幼名を寅之助といふ。三歳の年より肝を病て、五歳の春、俄に盲目となる。或人大人の父母に告て曰く、寅之助が歳星其身にかなはず。むべ歳星の次を転しなばよかるべしと。これによりて生年二歳を減じ、戊辰の生に准へ辰之助と改む。又同郡池田村なる験者正覚房が名に擬らへて、一名を多門房と名づけらる。

・・・十二といふ年。 宝暦七年丁丑 母をうしなひて、うれひ忍こと尋常ならず。これより漸く東都に出て、業をなすべき心起こされしが、或人の語るをきかれしに、当時某とかやいふもの、太平記一部を暗誦し、東都にありて諸家にいでいり、名を顕はすときゝて、大人心におもはく、太平記は全部四十巻に過ず、これをしるをもて名を顕はし、妻子を養ふことを得、かたかるべきことかは。こゝに至て東都にいづるの志いと切なり。十三といふとしの春 宝暦十三年庚申三月 父に請て、絹商と共に、東都にいたり、 此絹商は江戸へ出て、与力の株を買て、後遂に町奉行までに昇進して、根岸肥前守といひし人也。さてかく連立て、江戸までくる途中にて、大人と互に名の挙げくらべせんと約されしとぞ。 雨富検校須賀一が門人となり、彼家に寄宿し、名を千弥と改む。須賀一検校、本氏は塙と云、常陸国茨城郡、市原村の人なり、雨富といふは、盲目の座のならひに、在名といふものにて、別称なり、本氏をそのまゝに、在名に用ふる人もあり、ことに設けて称ふるものもあり、雨富の家は四谷の西念寺横町にあり。 盲目一座のならはしにて、この座につらなるものは、必ず瑟琶、琴、三絃などいふものを習ひ得て、音曲の事を業とし、又は針治導引抔、なりはひぐさとなすことなるを。大人は文よまむと思ふ事、始よりの根ざしなれば、心そこにあらず。されど師のいさめやむことなければ、其筋のことも習ふさまなれど、ともすればひまをうかゞひ、文読ことのみを旨とす。翌年荻原宗固、 百華庵と称す、 が門弟となり、物語やうの文どもを読て、歌よむ業をまなばる。其比、川島貴林(タカシゲ) 字は源八郎といふ人あり。山崎の流れを汲みて、神道の事にこゝろをいたせし人也。大人これにつきて、小学近思録などよりはじめて、異朝の書籍をならふ節には神道の教をも受たり。又雨富が家の隣は松平乗尹(ノリタダ) 織部正 の家なりけるが、この人も文よむことを好み、大人の学才の、人にことなるをめでゝ、いと懇にして、劇務のひまには、物よみをしへければ、大人もいとうれしきことに思ひ、其家に行通ひて、契約をたて、あしたの寅の刻より卯の刻にいたりて、一事がほどは、必ず文よみならはれけり。

・・・廿四といふ年の春、 明和六年三月 歌の師宗固、大人と横田の茂語(シゲツゲ) 字は孫兵衛 とを招ていへらく、汝等、このとしごろ読書詠歌にまめなること、余人にすぎたり。後には皆業なりぬえし。然れども人各得る処あり。彼を学びこれをならはんとすれば、人にすぐれんことかたかりなん。これよりの後、茂語は歌をむねとし、読書はこれにつげよ。保木は歌よむことをやめて、専ら文よむべし。されどことに勝れたらん人によらずば、ことゆくべからず。当今賀茂真淵は、国学の才名、世にしられたり。保木は彼につきて学べよ。但し吾にならひしこと、かたくかたるべからず。もと学流異なれば、かの人もしくば隔心ありなんと、大人そのことに従ひ、県居につきてならふ。初めてゆきたりしをり、県居こゝまでは、何書読れしやなど、問れければ、文よむすべをも、わきかねしまゝには、宗祇季吟などやらの人の、かかれたりける書のみ、よみて侍れば、あたらいとまをむなしくなし候と、いらへられしに、県居いたくめで、そはよき業をしつる人かな。今の世の学者は、大かた人のいひけん、言まなびをのみして、書のよしあしを、おのれとさとる人は少なし。おのれとわきまへしるものならねば、業なりがたしとなんいひける。又大人の詠て出したる歌は「すがるなす、腰ぼそ未通女、えましかば、あさよいさけず、なづさはましを。」今一首のは「宮城野の、萩の露はら、分ぬ夜も、ひとりしぬれば、ぬるゝ袖かな。」とぞありし。大人古体の歌よまれしは、多く聞えず、且これぞ初にはありける。されば県居も並ならず感(ホメ)思はれけり。こゝにて六国史をも、とげ読れけり。されどこの冬、県居死たりければ、わづか年半ばかりななむ、教へをば受られにき。

・・・あはれ世のため、後のためにもならんことをなしてん。異朝には漢魏叢書などよりはじめて、さる叢書どもゝ聞えたり。皇国には、いまだそのためしなし。さらばこゝにも、かしこにならひて、かしここゝにちりぼひある、一巻二巻の書をとり集めて、かた木にゑりおきなば、国学する人の、能たすけなるべしと、思ひとりて、同八年己亥の元日より、天満宮に誓ひ、心経百万巻願たてし。なかばよまむほどに、千部の書をあつめ、よみをへなんまでには上木の功なりねかしとて、これよりあしたあしたには塩だちし、日ごとに寅の時より起いで、百巻つゝの看経おこたらず。此年又家うつりして、土手四番町なる東條 信濃守 の宅地に住む。これより先にも、来り学ぶもの無にはあらねど、こゝに至りて、門人となるもの数多かり。現時など講ぜらるゝに、つどひきく人、大かたならず。奈佐勝皋(カツヨシ) 妙阿の門人字は久左衛門 横田茂語などは、みな学びのともなりけるが、物語やうのこと葉、大人に問聞えけり。屋代弘賢 字は太郎 も大人の門人となりて、二心なく学びければ、後には世にもきこゆる人となれり。さて彼集めてんと思ふ書をば、群書類従といふ名を設けて、こゝに求めかしこにかり得しほどに、珍書どもゝ多くいできにければ、やがて上木の功を起し、年に従ひて若干の巻数いできにけり。

・・・このとし(※天明四年)宗固、また大人をよびていふやう、汝先に我ことに従ひ、歌を廃て、読書に力を尽くして、今既に学術なりにけり。むべこれより又歌をかね勤むべし。人の拒むをりに、上下つゞかざらん、歌よまむも便なければなり。われ年老にたれば、かなふ可らず。日野資枝卿の門人と成るべしと聞えければ、これより日野殿の教をうけらる。当時宗固翁は冷泉家にて、為村卿の門人なり。さるを二条家なる日野殿の門にいるべきよしいはれたるは、翁もはじめは二条家にて、烏丸光永卿の門下なりしが、令息光種卿事にあたりて、蟄居ありしの後、為村卿には従ひけり。これ為村卿は、もと光永卿に習ひ給ひしゆかりあるゆゑなり。されば初を思ひて、かくいはれたるものなりとぞ。資枝卿薨じ給ひし後は、閑院宮に学びまゐらせ、又宮もかくれ給ひては、外山光実卿の門人にいられしなり。

・・・寛政四年といふとし、笄橋のほとりより火いでゝ、東都なかば焼けたりし日、四番町の家もやけにければ、しばし人の家に仮寓したり。そのをりに験者常照院といふものあり。 上野国の人 文字のかたにもこゝろありければ、常に大人のかたに来とぶらひてけるが、いうやう今の世は、文道ひらけて、経書よむかたはいふもさらなり、神道歌道につきても、その家々皆定まれり。たゞ歴史律令などよむかたのなきが、いとをしきに、あはれ公に請(マウシ)て、さるべき地所給はりて、講談の所さだめ、かんのくだり、ときをしへてんやと。大人もさるべく思はれければ、翌年の春 寛政五年癸丑二月 そのあらましをこひもうせしかば、公にもいとよきことにおぼして、和学講談所建つべき地所、かし給はるべきよし、とみに仰ことありて、その七月に裏六番町なる宅地四百坪をかし給はる。同じき十一月、講談所なりにければ、やがて会始あり。・・・同七年の九月に、講談所永く絶まじき料にとて、町屋敷を給はり、年ごとにその治むる金五十両をもて、雑費にあてらる。 〔明良帯録 二〕
 ○寛政の度に、和学に習熟する故を以て、和学講談所と号し、六番町に於て、第宅を拝領被2仰付1、和書著述編集せり。群書類従、六国史、二十一代集、江家次第、菅家次第、百練抄等を考訂す。其外著述の書籍、御書物奉行へ訴て、御留判有レ之、品川抅屋敷に蔵書に蔵板を入置けり。

〔水母余韵〕
今物語(或云時秋物語)を校正し、之を始めて出版して、堀田摂津守(正敦若年寄賢明の名一時に高し)へもて参りければ、摂津守いふやう、其方は瞽者にして、書を読むは、名を天下に掲げ、功を後世に貽さんとてなるべし。然るに今斯一小冊をものすとはいかにやと。是より大人奮発して、大著述の志あり。遂に群書類従上木の挙あるに至れり。

〔群書一覧 六〕
 郡書類従五百三十巻、 六百三十六本 江都の塙検校保己一、これをあつめて蔵刻とす。此書漢土の叢書の類にして、皇国古今小冊の書、一千二百七十三種、或は合せ、或は分ちて、六百三十六冊とし、目録一巻を附す。其類を分つ事左の如し。(目録略)按ずるに、本邦古来、書典の大部なるものは、滋野貞主の、秘符略説千巻のみ。それより降りて、藤原の敦基の、桂下類林、三百六十巻。藤原の通憲の、法曹類林、二百三十巻等なり。其書とも、早く亡びて、世に伝はらず。国史に云、淳和天皇の天長八年、東宮学士、滋野貞主、諸儒と古今の書を撰集す。類を以て相従ふ、一千巻あり。秘符略と名づく云々。今塙氏集むる所の書、すでに一千二百七十余部に及べり。彼天長より後、千歳の今に至て、此盛挙あること、その功亦偉ならずや。また此書に名づくるに、類従の二字を以てすることは、ひそかに彼秘符略にとるところあるにや。このごろ、群書類従彙輯のこゝろざしありて、再び古今の書をあつむるに、已に一千部のなかばに過たるよし、其門人某氏ものがたれり。

〔塙検校伝〕
 温古堂学則
          定
一、古事記 六国史 律 令義解 三代格 内理式 儀式 延喜式 符宣抄 西宮記 北山抄 江家次第 日本紀略 扶桑略記 百練抄 帝王編年記 一代要記 歴代皇記 世継 水鏡 大鏡 今鏡 増鏡 栄花物語 東鑑 本朝文粋 続本朝文粋 政事要略 朝野郡載 万葉集 廿一代集 新葉集 源氏物語
   右三拾三部の書中、毎月九之日、自午中刻至申中刻まで、申合会読校正可致事、
一、稽古の道は、道として読べからざるはなし。依之雖為三拾三部之外、申合自申中刻至酉上刻まで可致考訂事、
一、読書の間は、雑談殊に令停止、議論校正専一にいたすべき事、
   年 月 日
○和学講談所、寛政五年、癸丑十一月、裏六番町に於て、和学所普請落成し、会読を始めたり。是れ実に、開闢以来、国学館の創設なりと云。幕府に於て、初めは、大人の私願を容れ、保護を与え、遂には林大学頭の支配に属せしむ。(実は林家なり、之を視て独立の一学院と做し、令達を、取次のみになりき。)
開祖初代 塙保己一(自寛政五年、至文政五年、三十年間)二代男塙次郎(忠実、自文政五年、至文久二年、丗六年間)三代孫塙敬太郎(忠韶、自文久二年、至慶応三年、六年間)
○和学所定員、 出役 拾人 
手伝出役(稽古所共)拾四人 八人 稽古所附世話心得 五人 同世話心得 九人(稽古所とは、和学所の学寮なり、塙の家の温古堂と、混ずる勿れ、)
 因に云、幕府末世には、松岡重三郎事務を幹し、小貫弥太郎出役頭取たり。又鈴林類集取調として、木村荘之助(正辞)小中村将曹(清矩)横山保三(由清)の三人会頭助を勤め、石束達三郎、武家故実会頭世話心得たりしが、慶応三年六月、塙を始め、役向一同廃せられたり。 古学,国書,和歌,国史,神人,神事,神史,大事典,名家 〔古学 下〕皇親譜略,花咲松,椒庭譜略,蛍蝿抄,総隠集,松山集,群書類従,続群書類従,〔慶著 和〕士気城再興記,鶏林拾葉,三国年数閏中抄,仮字暦略記,武家名目抄,史料,耳食労筆,水月文藻,〔編者補〕南朝公卿補任考,和学講談所蔵書目録 史資料 延享(1744-1748) 寛延(1748-1751) 宝暦(1751-1764) 明和(1764-1772) 安永(1772-1781) 天明(1781-1789) 寛政(1789-1801) 享和(1801-1804) 文化(1804-1818) 文政(1818-1830)

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