有賀長伯

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル有賀長伯
+ヨミガナ / NAME / 性別アルガ チョウハク / ARUGA CHOHAKU / 男
+小見出し有賀家始祖
+別称〔号〕以敬斎 【国1】風観斎・無曲軒・六喩 【和】黄和 【書】
[法号]以敬斎長伯貞斎居士 【書】
+生年月日寛文元年<1661> 【国1】
+没年月日元文2年<1737>6月2日 【国1】
+享年77歳 【国1】
+生国大坂 【国1】肥後 【和】
+住国京都・大坂 【和】
+墓地名正法寺(大阪高津) 【国1】京都東山頂妙寺 【書】
+学統平間長雅,望月長孝,広沢長孝,中西信慶
+典拠国伝1,国書人名辞典,和学者総覧.536
+解説■履歴
 越前福井に生まれる。祖父戸田泰俊、父道純。越前で医業を営んだ父道純は、長伯17歳のとき歿した。父歿後、母方の姓有賀を名乗り京都に移り住み、和歌宗匠として身を立てた。

■学問動向
 越前から京都に移り住んだ後、堂上派地下歌人の祖松永貞徳の門下望月長孝に入門、天和元年(1681)長孝が没した後は、その高弟平間長雅に入門・随従し、長雅から元禄元年(1688)1月に『詠歌大概安心秘訣』2巻、元禄2年(1689)2月『詠歌大本秘訣』3巻5帖を附与され、世々相承の古今伝授の箱並びに二条家正統秘訣奥旨を残りなく受けたとされる。元禄9年(1696)正月、師の長雅が粟田山荘に閑居した後、同年5月長伯は、契沖と親交あり神学・歌道に長じた外宮祠官中西信慶に入門の誓紙を呈したという。また、大坂天満宮月次会等で門人知友と歌会を催し和歌を奉納した他、石見国高角社・住吉大社等にも和歌を奉納している。長伯は秘伝書を書写して多くの門人に伝えており、伝授を受けた者は、数十人ないし百人近く存在すると予想されている。近世堂上派の祖細川幽斎から、松永貞徳、望月長孝、平間長雅を経て伝えられた堂上派歌道の秘伝が今日に伝わるのは、実に長伯の功績が大きい。また、多くの著作を残し、和歌の普及において重要な役割を担ったことが指摘されており、その家学は長伯から、有賀長因(1712~1778)、同長収(1750~1818)、同長基(1777~1833)、同長鄰(1818~明治39年)へと継承された。
 
+特記事項■歌学研究と歌集
 著作・出版活動では、貞享3年(1686)長雅等の勧めで初学者に供する啓蒙書『世々のしをり』12冊追加1冊を上梓した後、元禄5年(1692)には和歌による名勝解説書『歌枕秋の寝覚』、元禄9年(1696)には和歌初学の百科事典『初学和歌式読かた詞よせ』7冊・歌題用例辞典『歌林雑木集』8冊を刊行している。元禄10年(1697)には『初学和歌式』の続編、和歌初学の手引書・用語辞典『濱の真砂』7冊などを刊行した。
 また、歌集には元禄4年(1691)に長伯編『釈教和歌片岡山』6冊・『教誡和歌冨雄川』3冊、宝永6年(1709)には長雅編『住吉社奉納千首和歌』4冊などがあり、『和歌麓の塵』は、孫の長収によって公刊された。
+史資料〔鑑定三〕
以敬斎ト号ス。京師ノ人ナリ。長雅ノ門に入テ学ビ、苦学年アリテ大ニ進ミ、終ニ一家風ヲナス。専ラ名所ヲ探リ、既ニ秋ノ寝覚ヲ著ハシテ世ニ益アリ。時ニ従ヒ学ブノ徒、甚多ク、家学ヲ伝ヘテ子孫益唱フ。

〔扶桑残葉集一三〕
奉哭長伯先生詞並和歌 河井立牧/以敬斎長伯先生は、此道の正宗として、其声誉高く、四方にしきみこそ。されば詞のはやしにあそぶ人々、此門にたゝん事をのみねがひ、一たび相ことを得れば、ひとへに登竜門のこゝちなんして、よろこびあへり。僕もかたじけなく、門垣の末に侍りければ、千歳の松のとことはならんをのみ、朝な夕な祈り侍りしに、過にしよりこゝち儘ならず、なやみたまひしが、かぎりある御齢にやありけん、終に身まかりたまひし。御名残いはんかたなし。天地にふしあふぎて、今さら世のありさまも思ひわかず、しか有とてせんすべなければ、せめての手向にもやと、なくゝゝ霊前に奉りける。
なみだにぞ、くれまどひける、ことのはの、道のたづきも、なき心地して。
長川のうしのもとへ、
袖の露、色にいづらん、秋またで、ちりし老会の、森のひと葉に。
ちとせもと、たのむ老木は、枯ぬとも、のこる小松の、かげをあふがん。
元文二年丁巳六月
+辞書類古学, 国書,和歌,国史,大事典,名家
-40392 国学関連人物データベース 36 1 CKP000052 有賀長伯 ARUGA CHOHAKU  越前福井に生まれる。祖父戸田泰俊、父道純。越前で医業を営んだ父道純は、長伯17歳のとき歿した。父歿後、母方の姓有賀を名乗り京都に移り住み、和歌宗匠として身を立てた。

■学問動向
 越前から京都に移り住んだ後、堂上派地下歌人の祖松永貞徳の門下望月長孝に入門、天和元年(1681)長孝が没した後は、その高弟平間長雅に入門・随従し、長雅から元禄元年(1688)1月に『詠歌大概安心秘訣』2巻、元禄2年(1689)2月『詠歌大本秘訣』3巻5帖を附与され、世々相承の古今伝授の箱並びに二条家正統秘訣奥旨を残りなく受けたとされる。元禄9年(1696)正月、師の長雅が粟田山荘に閑居した後、同年5月長伯は、契沖と親交あり神学・歌道に長じた外宮祠官中西信慶に入門の誓紙を呈したという。また、大坂天満宮月次会等で門人知友と歌会を催し和歌を奉納した他、石見国高角社・住吉大社等にも和歌を奉納している。長伯は秘伝書を書写して多くの門人に伝えており、伝授を受けた者は、数十人ないし百人近く存在すると予想されている。近世堂上派の祖細川幽斎から、松永貞徳、望月長孝、平間長雅を経て伝えられた堂上派歌道の秘伝が今日に伝わるのは、実に長伯の功績が大きい。また、多くの著作を残し、和歌の普及において重要な役割を担ったことが指摘されており、その家学は長伯から、有賀長因(1712~1778)、同長収(1750~1818)、同長基(1777~1833)、同長鄰(1818~明治39年)へと継承された。

■著作・歌集
 著作・出版活動では、貞享3年(1686)長雅等の勧めで初学者に供する啓蒙書『世々のしをり』12冊追加1冊を上梓した後、元禄5年(1692)には和歌による名勝解説書『歌枕秋の寝覚』、元禄9年(1696)には和歌初学の百科事典『初学和歌式読かた詞よせ』7冊・歌題用例辞典『歌林雑木集』8冊を刊行している。元禄10年(1697)には『初学和歌式』の続編、和歌初学の手引書・用語辞典『濱の真砂』7冊などを刊行した。
 また、歌集には元禄4年(1691)に長伯編『釈教和歌片岡山』6冊・『教誡和歌冨雄川』3冊、宝永6年(1709)には長雅編『住吉社奉納千首和歌』4冊などがあり、『和歌麓の塵』は、孫の長収によって公刊された。 有賀長伯 ARUGA CHOHAKU , 536 小伝 国伝 全 35983 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 有賀家始祖 男 アルガ チョウハク / ARUGA CHOHAKU / 男 ■履歴
 越前福井に生まれる。祖父戸田泰俊、父道純。越前で医業を営んだ父道純は、長伯17歳のとき歿した。父歿後、母方の姓有賀を名乗り京都に移り住み、和歌宗匠として身を立てた。

■学問動向
 越前から京都に移り住んだ後、堂上派地下歌人の祖松永貞徳の門下望月長孝に入門、天和元年(1681)長孝が没した後は、その高弟平間長雅に入門・随従し、長雅から元禄元年(1688)1月に『詠歌大概安心秘訣』2巻、元禄2年(1689)2月『詠歌大本秘訣』3巻5帖を附与され、世々相承の古今伝授の箱並びに二条家正統秘訣奥旨を残りなく受けたとされる。元禄9年(1696)正月、師の長雅が粟田山荘に閑居した後、同年5月長伯は、契沖と親交あり神学・歌道に長じた外宮祠官中西信慶に入門の誓紙を呈したという。また、大坂天満宮月次会等で門人知友と歌会を催し和歌を奉納した他、石見国高角社・住吉大社等にも和歌を奉納している。長伯は秘伝書を書写して多くの門人に伝えており、伝授を受けた者は、数十人ないし百人近く存在すると予想されている。近世堂上派の祖細川幽斎から、松永貞徳、望月長孝、平間長雅を経て伝えられた堂上派歌道の秘伝が今日に伝わるのは、実に長伯の功績が大きい。また、多くの著作を残し、和歌の普及において重要な役割を担ったことが指摘されており、その家学は長伯から、有賀長因(1712~1778)、同長収(1750~1818)、同長基(1777~1833)、同長鄰(1818~明治39年)へと継承された。
  ■歌学研究と歌集
 著作・出版活動では、貞享3年(1686)長雅等の勧めで初学者に供する啓蒙書『世々のしをり』12冊追加1冊を上梓した後、元禄5年(1692)には和歌による名勝解説書『歌枕秋の寝覚』、元禄9年(1696)には和歌初学の百科事典『初学和歌式読かた詞よせ』7冊・歌題用例辞典『歌林雑木集』8冊を刊行している。元禄10年(1697)には『初学和歌式』の続編、和歌初学の手引書・用語辞典『濱の真砂』7冊などを刊行した。
 また、歌集には元禄4年(1691)に長伯編『釈教和歌片岡山』6冊・『教誡和歌冨雄川』3冊、宝永6年(1709)には長雅編『住吉社奉納千首和歌』4冊などがあり、『和歌麓の塵』は、孫の長収によって公刊された。 あるが ちょういん,以敬斎,風観斎,無曲軒,六喩,黄和,以敬斎長伯貞斎居士 アルガ チョウハク 〔号〕以敬斎 【国1】風観斎・無曲軒・六喩 【和】黄和 【書】 [法号]以敬斎長伯貞斎居士 【書】 〔号〕以敬斎 【国1】風観斎・無曲軒・六喩 【和】黄和 【書】
[法号]以敬斎長伯貞斎居士 【書】 寛文元年<1661> 【国1】 6月2日 元文2年<1737>6月2日 【国1】 77歳 【国1】 1661 - 1737 山城国 摂津国 京都,大坂  大坂 【国1】肥後 【和】 京都・大坂 【和】 正法寺(大阪高津) 【国1】京都東山頂妙寺 【書】 平間長雅,望月長孝,広沢長孝,中西信慶 平間長雅 【国1】望月長好・広沢長孝・中西信慶 【和】 国伝1,国書人名辞典,和学者総覧.536 〔鑑定三〕
以敬斎ト号ス。京師ノ人ナリ。長雅ノ門に入テ学ビ、苦学年アリテ大ニ進ミ、終ニ一家風ヲナス。専ラ名所ヲ探リ、既ニ秋ノ寝覚ヲ著ハシテ世ニ益アリ。時ニ従ヒ学ブノ徒、甚多ク、家学ヲ伝ヘテ子孫益唱フ。

〔扶桑残葉集一三〕
奉哭長伯先生詞並和歌 河井立牧/以敬斎長伯先生は、此道の正宗として、其声誉高く、四方にしきみこそ。されば詞のはやしにあそぶ人々、此門にたゝん事をのみねがひ、一たび相ことを得れば、ひとへに登竜門のこゝちなんして、よろこびあへり。僕もかたじけなく、門垣の末に侍りければ、千歳の松のとことはならんをのみ、朝な夕な祈り侍りしに、過にしよりこゝち儘ならず、なやみたまひしが、かぎりある御齢にやありけん、終に身まかりたまひし。御名残いはんかたなし。天地にふしあふぎて、今さら世のありさまも思ひわかず、しか有とてせんすべなければ、せめての手向にもやと、なくゝゝ霊前に奉りける。
なみだにぞ、くれまどひける、ことのはの、道のたづきも、なき心地して。
長川のうしのもとへ、
袖の露、色にいづらん、秋またで、ちりし老会の、森のひと葉に。
ちとせもと、たのむ老木は、枯ぬとも、のこる小松の、かげをあふがん。
元文二年丁巳六月 ・日下幸男 『近世古今伝授史の研究』地下篇(新典社,1998.10)
・上野洋三 『元禄和歌史の基礎構築』(岩波書店,2003.10)
・島原泰雄 「松永貞徳と地下歌人の人々」(有吉保ほか編『和歌文学講座8 ;近世の和歌』, 勉誠社, 1994.1)
・日下幸男 「地下一流の古今伝授」(横井金男,新井栄蔵編『古今集の世界―伝授と享受―』, 世界思想社, 1986) 古学, 国書,和歌,国史,大事典,名家 初学和歌式,和歌八重垣,和歌八重垣分類,歌林雑木抄,歌枕秋の寝覚,歌枕秋の寝覚増補,浜のまさご(浜のまさこ),和歌二葉草,和歌麓の塵,代々のしをり(和歌世々濃志遠利),代々の栞追加,源氏掌故(源氏物語掌故),長伯集 [慶著 和] 秋葉愚草, [編者 補] 春樹顕秘増抄 [近.6] 史資料・解説 寛文(1661-1673) 延宝(1673-1681) 天和(1681-1684) 貞享(1684-1688) 元禄(1688-1704) 宝永(1704-1711) 正徳(1711-1716) 享保(1716-1736) 元文(1736-1741)
資料ID40392

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