新庄道雄

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル新庄道雄
+ヨミガナ / NAME / 性別シンジョウ ミチオ / SHINJOU MICHIO / 男
+小見出し八条隆輔男、石山寺大僧正
+別名
+別称〔姓〕藤原 【和】
〔称〕幸次郎・平蔵・三階屋仁右衛門・新左衛門・甚右衛門 【和】
〔名〕敬恭 【和】
〔号〕栢園・松華主人・清藁科河 【和】
[神号]玉鉾雷神 【書】
+生年月日安永5年<1776>2月1日 【国続】
+没年月日天保6年<1835>12月 19日 【国2】
+享年60歳 【国続】
+生国・住国駿河府中 【和】
+生国・住国(現在地名)
+生国
+生国(現在地名)
+住国
+住国(現在地名)
+墓地名
+墓地現在地
+学統野澤昌樹・松村春枝・平田篤胤,北川真潮・本居春庭,栗田土満・本居大平
+典拠国伝2,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.5276
+解説目次
+解説
+特記事項
+参考文献
+史資料〔古学 下〕
 遠祖は伊豆国人にて、江川家の世臣なりしが、天正の際、江川英長、故ありて北条家を去り、神君に仕へしをり、駿府にて宅地を給はり居られしが、徳川氏の北条氏直へ嫁せし時、御附として、小田原へ遣はさる。是より江川氏、復北条家に仕ふ。此より其旧宅を、道雄の遠祖某に給ひけり。是より府中にうつり住む。 今府中の江川町、則道雄の居所也、 道雄幼にして、父身まかりてより、母に事へ、いとけなきより、書をよむことを好み、野澤昌樹と云人を師とし、手習ひ物読ことをされ、韮山の字沢七蔵と云人につき、詩を学ぶ。年十歳の折、服部某の父の七十の賀を祝して「七十の、後のよはひを、八十かへり、花咲松に、ちぎり置らん」天明六年、野澤翁、此里のほとりなる、木枯(コガラシ)の森に碑を建んことをはかる。道雄、是を本居宣長にあつらへて、其識をたのみける。此をり宣長、玉くしげの板本と、直毘の魂とを、其書を道雄に寄らる。此時、年三十 皇国の道と云ものあることを知りき。されど師に乏しく、思ふに任せず、月日を送りける。後僧某を師として、漢学をも学ばれ、同里の村松春枝 本居門也 を師として、古学を学び、歌をもよまれけるが年四十ばかりのをり、平田篤胤が、此地に游ばれ、古道を講釈せるをきゝ、又是に従ひ学ばる。後二十年来、年毎に江戸に行き、講をきかれけるが、天保六年十二月十九日、風と病に侵されて身まかりぬ。平田篤胤、碑陰を認らる。平生、本居大平、穂井田忠友などゝ、書を通はし、親しく交られぬ。

〔気吹舎文集 中〕
新庄道雄、そのよび名を甚右衛門といふ。国府の江川町のさと長(おさ)にて、いと古き家なりとぞ。道雄、をさなくて、父におくれたれど、家の業をつぎ勤めつゝ、母に事ふる道を尽し、其教によく順ひ、殊に、よろづよりも書読(フミヨ)むことを好みて、大倭のからの、何巻のきらひなく、傍へにつみおきて、しばし家を出るにも、ふところを放たず、読みつゝなむ行きける。中にも皇国の書を尊び、実のみやびの歌にすきて、北川真顔がよみ口をも学び、其道にいたり深く、またの字(ナ)を柏苑とも云ふ。あはれ、この道雄はも、安永五年といひける年の生れにて、己れと同じ齢なりけるにや、殊にむつ魂あひて、四十ぢばかりの年より、われにも語りて、駿河の国誌をえらび立てたるを、一巻の稿成るごとに、江戸へもて来て、おのれが、思ふむねをも問ひ、かつ、こなたにしるせる考説などもよみて、こよなく悦びほとばしり、おのれがわざを助けしことも、こゝらあり。此人の道に雄々しく、いそしかることは、其国誌にしるせる考説共の、まめなるを見て知るべし。さるを、去歳のあきの比より、やゝ労はることのありしが、つひに重(おも)りもてゆきて、しはすの十日まり、九日と云ふ日に、かの百(モヽ)たらず、八十の隅道(クマヂ)にかくりさりぬと、子等がもとより、告げおこせるに、およづれ言にやとさへ、思ひ惑はれ、悲など云ふも更なり。道雄は世にありし程、里のことゞもよくおきてて、先に、世の中なべて、たなつ物に虫つきて、いやましに殖えゆくを、防ぎ惑ひし時に、そを退くる道を考へ、広く世に教へて、其の害をやめ、又常に、いはゆる鰥寡孤独のよるべなき人らを救ひ、人のむつびの中だちなど、よく、とり行ひつれば、遠き近き、相知る人等、またなき人にしたひたのみてありけるを、今年おもはず、あたら此の世を、まかれるに、悲みをしまぬ人もなしとぞ。しかるに、こたび、子等、をしへ子など相謀りて、その碑建て、世にその名しろを伝へむとす。いかで、おのれに、そのよしをかきて、と請ふに、こは世の大よそ人の、成し得たることもなきが、事々しき石ぶみ建て、年を求むるるゐならねば、心のそこゆあひうべなひ、且つ、その子等の心のをるも思ひやりて、又更に涙おしぬぐひつゝかくなむ。
  はふ虫も、なげかはしぞね、わが道に、雄々しき翁が、石ぶみぞこれ。
天保七年といふ年のかみなづき、平田篤胤。
+史資料〈著作〉
+史資料〈碑文〉
+史資料〈その他〉
+辞書類古学, 国書,和歌,国史,神人,大事典,名家
+和学者カード
-40382 国学関連人物データベース 36 1 CKP000042 新庄道雄 SHINJOU MICHIO 新庄道雄 SHINJOU MICHIO , 5276 小伝 国伝 全 35973 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 八条隆輔男、石山寺大僧正 男 シンジョウ ミチオ / SHINJOU MICHIO / 男 しんじょう みちお,藤原,新左衛門,甚右衛門,三階屋仁右衛門,幸次郎,平蔵,三階松屋,栢園,松華主人4,清藁科河,屋]三階屋,敬恭,道雄,神号]玉鉾雷神 シンジョウ ミチオ 〔姓〕藤原 【和】 〔称〕幸次郎・平蔵・三階屋仁右衛門・新左衛門・甚右衛門 【和】 〔名〕敬恭 【和】 〔号〕栢園・松華主人・清藁科河 【和】 [神号]玉鉾雷神 【書】 〔姓〕藤原 【和】
〔称〕幸次郎・平蔵・三階屋仁右衛門・新左衛門・甚右衛門 【和】
〔名〕敬恭 【和】
〔号〕栢園・松華主人・清藁科河 【和】
[神号]玉鉾雷神 【書】 43862 安永5年<1776>2月1日 【国続】 12月19日 天保6年<1835>12月 19日 【国2】 60歳 【国続】 1776 - 1835 駿河国 駿河府中 【和】 野澤昌樹・松村春枝・平田篤胤,北川真潮・本居春庭,栗田土満・本居大平 野澤昌樹・松村春枝・平田篤胤 【国2】北川真潮・本居春庭 【国続】栗田土満・本居大平 【書】 国伝2,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.5276 〔古学 下〕
 遠祖は伊豆国人にて、江川家の世臣なりしが、天正の際、江川英長、故ありて北条家を去り、神君に仕へしをり、駿府にて宅地を給はり居られしが、徳川氏の北条氏直へ嫁せし時、御附として、小田原へ遣はさる。是より江川氏、復北条家に仕ふ。此より其旧宅を、道雄の遠祖某に給ひけり。是より府中にうつり住む。 今府中の江川町、則道雄の居所也、 道雄幼にして、父身まかりてより、母に事へ、いとけなきより、書をよむことを好み、野澤昌樹と云人を師とし、手習ひ物読ことをされ、韮山の字沢七蔵と云人につき、詩を学ぶ。年十歳の折、服部某の父の七十の賀を祝して「七十の、後のよはひを、八十かへり、花咲松に、ちぎり置らん」天明六年、野澤翁、此里のほとりなる、木枯(コガラシ)の森に碑を建んことをはかる。道雄、是を本居宣長にあつらへて、其識をたのみける。此をり宣長、玉くしげの板本と、直毘の魂とを、其書を道雄に寄らる。此時、年三十 皇国の道と云ものあることを知りき。されど師に乏しく、思ふに任せず、月日を送りける。後僧某を師として、漢学をも学ばれ、同里の村松春枝 本居門也 を師として、古学を学び、歌をもよまれけるが年四十ばかりのをり、平田篤胤が、此地に游ばれ、古道を講釈せるをきゝ、又是に従ひ学ばる。後二十年来、年毎に江戸に行き、講をきかれけるが、天保六年十二月十九日、風と病に侵されて身まかりぬ。平田篤胤、碑陰を認らる。平生、本居大平、穂井田忠友などゝ、書を通はし、親しく交られぬ。

〔気吹舎文集 中〕
新庄道雄、そのよび名を甚右衛門といふ。国府の江川町のさと長(おさ)にて、いと古き家なりとぞ。道雄、をさなくて、父におくれたれど、家の業をつぎ勤めつゝ、母に事ふる道を尽し、其教によく順ひ、殊に、よろづよりも書読(フミヨ)むことを好みて、大倭のからの、何巻のきらひなく、傍へにつみおきて、しばし家を出るにも、ふところを放たず、読みつゝなむ行きける。中にも皇国の書を尊び、実のみやびの歌にすきて、北川真顔がよみ口をも学び、其道にいたり深く、またの字(ナ)を柏苑とも云ふ。あはれ、この道雄はも、安永五年といひける年の生れにて、己れと同じ齢なりけるにや、殊にむつ魂あひて、四十ぢばかりの年より、われにも語りて、駿河の国誌をえらび立てたるを、一巻の稿成るごとに、江戸へもて来て、おのれが、思ふむねをも問ひ、かつ、こなたにしるせる考説などもよみて、こよなく悦びほとばしり、おのれがわざを助けしことも、こゝらあり。此人の道に雄々しく、いそしかることは、其国誌にしるせる考説共の、まめなるを見て知るべし。さるを、去歳のあきの比より、やゝ労はることのありしが、つひに重(おも)りもてゆきて、しはすの十日まり、九日と云ふ日に、かの百(モヽ)たらず、八十の隅道(クマヂ)にかくりさりぬと、子等がもとより、告げおこせるに、およづれ言にやとさへ、思ひ惑はれ、悲など云ふも更なり。道雄は世にありし程、里のことゞもよくおきてて、先に、世の中なべて、たなつ物に虫つきて、いやましに殖えゆくを、防ぎ惑ひし時に、そを退くる道を考へ、広く世に教へて、其の害をやめ、又常に、いはゆる鰥寡孤独のよるべなき人らを救ひ、人のむつびの中だちなど、よく、とり行ひつれば、遠き近き、相知る人等、またなき人にしたひたのみてありけるを、今年おもはず、あたら此の世を、まかれるに、悲みをしまぬ人もなしとぞ。しかるに、こたび、子等、をしへ子など相謀りて、その碑建て、世にその名しろを伝へむとす。いかで、おのれに、そのよしをかきて、と請ふに、こは世の大よそ人の、成し得たることもなきが、事々しき石ぶみ建て、年を求むるるゐならねば、心のそこゆあひうべなひ、且つ、その子等の心のをるも思ひやりて、又更に涙おしぬぐひつゝかくなむ。
  はふ虫も、なげかはしぞね、わが道に、雄々しき翁が、石ぶみぞこれ。
天保七年といふ年のかみなづき、平田篤胤。 古学, 国書,和歌,国史,神人,大事典,名家 史資料 安永(1772-1781) 天明(1781-1789) 寛政(1789-1801) 享和(1801-1804) 文化(1804-1818) 文政(1818-1830) 天保(1830-1844)

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