足代弘訓

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル足代弘訓
+ヨミガナ / NAME / 性別アジロ ヒロノリ / AJIRO HIRONORI / 男
+小見出し外宮権禰宜
+別名
+別称〔姓〕度会 【和】
〔称〕権大夫 【国2】慶二郎・式部 【和】
〔号〕寛居(ヒロイ) 【国2】寛居(ゆたい) 【書】
+生年月日天明4年<1784>11月26日 【国2】
+没年月日安政3年<1856>11月5日 【国2】
+享年73歳 【国2】
+生国・住国伊勢度会郡 【和】
+生国・住国(現在地名)三重県
+生国
+生国(現在地名)
+住国
+住国(現在地名)
+墓地名伊勢国鷲山 【国2】
+墓地現在地
+学統荒木田久老,亀田末雅,本居春庭,本居大平,柴山持豊,竹屋光棣 【国2】
+典拠国伝2,国書人名辞典,和学者総覧.49 
+解説目次
+解説■履歴
外宮権禰宜、国学者。足代弘早の子として生まれる。天明8年(1788)、豊受大神宮の権禰宜に補任される。 慶安年間、豊宮崎文庫の設備不完全を遺憾に思い、文庫の取立てに尽力し、とりわけ群書類従を奉納した。かくて文化4年(1807)従四位下に叙せられ、その後位階昇り、最終的には正四位上に叙せられた。弘化元年(1844)、三条実万の内命により『続日本後記人名部類』3冊『三大実録人名部類』10冊『文徳実録人名部類』2冊『文徳実録故事成語考』10冊、総計25冊を国史御会に献上。その功績を讃えられ仁孝天皇より恩賜の硯を受ける。

■学問動向
 祠職として神明に奉仕する傍ら、諸家と親交を結び見識を広げた。初め、荒木田久老の門に入って万葉集を学び、久老の没後、上京して芝山持豊に就いて和歌を学び、竹屋光棣からは有職故実の知識を得る。本居宣長を慕い、直弟子になれなかったことを無念としたものの、本居大平の門に入って国学を学び、文化六(1809)年には本居春庭に入門した。同年には亀田末雅に神事及び律令を学んだ。また大塩平八郎、吉田松陰の他、江戸においては、朝川善庵、狩谷棭斎、北静盧、屋代弘賢、塙保己一、林衡、新見正路、成島司直等の諸名家とも往来し、神典・国史・律令を考究し考証に努めた。従学するものは数百を数え、中でも近藤芳介、山中秀之、松浦武四郎、橋村正克、橋村淳風、生川正香、中西弘縄、中島信太郎、世古延世、柴田守典、御巫清直、井坂徳辰、児玉尚高、佐々木弘綱、北川弘武などが門弟の主なる人々である。編著に『度会系図考証』(57冊)、『やちまた補翼』(50冊)、『万葉集類語』(119冊)、『令義解部類』(50冊)『寛居雑纂』(86冊)、『歌集類語』(86)冊などがあり、総じて千巻を超える。
+特記事項■学問態度
 弘訓は、神典を神国に生まれた者が神を敬する事を醸成する源泉として捉え、それ故に、弘訓の敬慕した本居宣長が主張する如く、神典を解釈するにあたり、小賢しい人智を以って穿鑿するのではなく、古伝承をあるがままに受け止める態度が重要であることを力説した。更にそれを補う知識として、神宮及び神社の祭祀・祝詞・触穢等に関する事を弁え知るべき必要性を主張している。その学風は、敬神尊王の精神に満ちあふれていることが知られるが、反面、平田篤胤の唱える幽冥思想等の神秘主義については、「蘭説・仏説をも、天狗小僧の妄言をもましへて、愚人を欺く魔説の神道あり、おそるべき邪説なり、かならす信用すへからす」(『学の道々』)と主張して、厳しく峻拒した。弘訓が儒学を重視し、門人に対してはまず律令などを学ばせ、その後実学を重視するように指導した背景には、神典を学ぶにあたり、篤胤のように、神秘・奇怪の事柄に関心を寄せては、神典の本質を見失う結果に陥ると判断したからに他ならない。従って弘訓が儒学を重視したのは、その学習によって仁・義に代表される人倫の道を修得し、人としての道義を逸脱しないことにあった。つまり、儒学の優れた点は、大いに吸収すべきであるが、その前提として、国典を修め、日本人としての主体性を確立することが何より重要であるとの指摘であって、倭魂漢学の精神に準ずるものであったといえよう。即ち、その点に於いて、宣長が極力漢学を排斥したのに対して、弘訓の場合は、国学と儒学とを調和的に捉えていたといえよう。即ち、「おのれは本居ばかりにも傾せさず、<中略>漢籍をも見申し候て、風儀正しく学問いたしたく候こと、もとよりの念願に御座候」(『勧学瑣言』)と述べている。こうした現実主義的な学風は、実学の強調とその実学を努める為に正しい学問の道理を修得すること、即ち律令の学習が重要なものとなるのである。弘訓の説く実学とは、社会実用の学であり、その上朝廷・幕府からも用いられる、国家有用の学である。而して、その実学を修得する為の律令の学習は、律令を通じて国史の正確な修得が可能になること、また律令の学習を通じて、学問の邪正を判断出来ること、あるいは「令をしらされは、何を学びても根本を捨て、枝葉にとゝまる」との指摘等、世に有用な学問をする為には、律令の修得が不可欠であると強調した。かくして、かかる学風は、文化・文政年間、奢侈に流れた山田の御師に破産する者が多かったので、その弊風粛清運動を起こし幕府に請願したことや、天保の飢饉にあたり、窮民救済に奔走したりする等、弘訓の実際家・経世家としての基盤となったのであろう。ちなみにすでに指摘したように、弘訓の究めた学問は広範に亘るものであって、その著述に於いても六国史に関する類聚を始めとして、神祇・律令・姓氏・物語・語学・歌学・随筆・雑纂類等、広範囲に及ぶものである。とりわけ類聚的なものと考証的なものとに最も力を注いだと思われる。要するに弘訓の学問を端的に評するならば、考証学に終始し、徒に新説を主張して人の意表に出るが如き学説を避け、多くの文献的資料を渉猟し、そして後進者の研究に資する態度であった。

■語学・歌学
弘訓は諸学に通じていたが、とりわけ語学と歌学とに精通していたから、自ずと、歌学に関しても多くの諸説を示している。弘訓が主張する歌学とは、詞(ことば)の学を基本とするものである。その上で、詞の使い様に精通すべきことを、主張した。即ち、語学修行を奨励した上で、「仮名遣を知らざれば如何様学問ありても歌文を巧みに作り得ても猶初心と云ふべし」(『学の道々』)と述べている。

■作歌
また弘訓は、香川景樹に「学者にも斯る歌人ありや」と云わしめたほど、詠歌に類稀な才能を発揮した。弘訓は賀茂真淵を尊敬していたため、純万葉調のものもあるが、本居大平の教えを受けた為、新古今調に近いものが多い。
+参考文献
+史資料〔足代弘訓翁家集 附録 ある人に贈られたる書状 其一〕私儀十四より始めて学問仕り、歌をよみ申候。十八より五十槻園宇治久老に入門致し、猶又芝山大納言持豊卿にも、点削を相願ひ申候。二十三より、本居春庭、大平、両翁に入門致し申し候。二十三十の頃は。大天狗にて、大先生になるべき心持に御座候所、逐々諸名家に交り候に付、先非を悔み、四十に至り、江戸に出、柳営の御学風をも、少々相伺ひ、五十に至り、京都に参り、禁廷の御学風の片端をも相伺ひ、それより大に見識下り、今年六十八に相成候へども、唯今にては、白髪の書生にて、是まで不覚悟の義を、黄泉の土産に覚え置申度、少年の衆を学友に致し、かつ学び、かつ教へ申候。御一笑可被下候。
〔足代弘訓翁家集 附録 ある人に贈られたる書状 其二〕拙者義十歳頃より、近代の軍記をこのみ、十四より学問に志し、歌をよみ申候。二十頃、三十頃は、いはゆる偏固の田舎天狗に御座候所、追々有名の人々に交り候後、段々志下り、唯今にては、白髪の老書生に御座候。十七歳より、宇治久老翁に学び、二十三歳にて、久老卒去、夫より本居春庭翁、大平翁に入門し、又、芝山持豊卿に学ぶ。京都にて御懇命を蒙り候御方々は、三条大納言実万卿、東坊城大納言聴長卿、竹屋三位光棣卿、錦小路中務少輔頼易朝臣、芝山中納言持豊卿、江戸にては林大学頭、新見伊賀守、成島図書頭。交を結び候高名家、江戸にては塙保己一検校、清水浜臣、狩谷棭斎、北静蘆、屋代弘賢、朝川善庵、京都にては、伴蒿蹊、猪飼敬所、小川萍流、山田以文、加茂季鷹、冨士谷御杖、浪花にては、上田秋成、萩原広道、尾崎雅嘉。
〔古学 中〕四十歳ノトキ、江戸ニ出デ、朝川善庵ヲ主トシ、狩谷棭斎、北静蘆、屋代弘賢、塙保己一ナドヽ交レリ。翁古学者ノ奇説ヲ唱ヘ、歌学者ノ浮薄ナルヲ悪メリ。大塩後素猪飼敬所、斎藤拙堂ナド殊ニ入魂ナリ。又経済ノ学ヲ好ミ、天保度ノ飢饉ニハ、人々ト議シ、窮民ヲ救ハル。翁長短歌文学ニ長ゼリ。香川景樹モ古学者ノ詠歌ハ足代ヲ最トスト賞セラレシトゾ。門人イト多ク、教授ニ暇ナケレドモ、朝夕怠ラズ著述ニ従事ス。其書千巻ニ余レリ。ウチ国史人名部類ハ、三条実万卿ヨリ天覧ニ備ヘ奉リシニ、仁孝天皇叡感ノ余、御硯ヲ賜ハル。著書ハ大半、明治維新ノ後、宮内省ニテ謄写セラレシトゾ。其有用ナル証スベシ。
〔権禰宜正四位上度会神主足代君墓碑銘〕人神一致。事《レ》人者。不《レ》可《レ》不《レ》忠《二》於人。事《レ》神者。亦豈可《レ》不《レ》忠《二》神《一》耶。如《二》足代氏《一》。可《レ》謂シタ世忠《二》於神《一》者ウエ成。我邦尊《二》崇神祇《一》。有《二》大社二十一《一》。而伊勢為《二》之最《一》。在昔天武朝。特詔《二》伊勢神宮《一》。修造遷替。以《二》二十年《一》為《レ》期。永以為《レ》例。爾来至《二》永享六年《一》。七百五十余年。毎期挙行不《レ》懈。其後喪乱相踵。朝典悉廃。神宮弗《レ》修者。百三十年。愆期之久。殿閣傾圯。足立氏之先。弘与神主。見而悲《レ》之。慨然力《二》請庁宜《一》。下《二》於諸国《一》。募《二》其用費《一》。以謀《二》営繕《一》。遂以《二》永禄六年九月《一》成。遷替如《二》故事《一》。事聞蒙《二》叡賞《一》。賜《二》姓度会神主《一》。櫂《二》任権禰宜《一》。叙《二》従五位下《一》。其家本微。系譜不《レ》詳。至《レ》是始顕。子孫相続蒙《レ》蔭。至《二》於寛居君《一》。益振《二》祖業《一》。大顕《二》於世《一》云。君諱弘訓。通称権大夫。足代某氏族。寛居其別号成。為《二》弘与神主十一世之孫《一》。高祖諱弘調。従四位下。曽祖諱弘隆。従五位上。祖諱弘寄。従四位上。考諱弘早。正四位下。至《二》於君《一》累進至《二》正四位上《一》。前代所《レ》未《二》曾有《一》也。君少好《レ》学。以為祠官不《レ》可《レ》不《レ》明《二》神典《一》。首研《二》究之《一》。遂及《二》国史律令歌集等書《一》。少従《二》宇治久老《一》。長従《二》本居大平。及春庭《一》而游焉。猶不《二》以自足《一》。屢往《二》京師《一》。従《二》芝山竹屋諸纉紳《一》。有《レ》所《二》質正《一》。又游《二》江門《一》。与《二》新見岡本成島諸士。及塙朝川狩谷諸人《一》相往来。以広《二》聞見《一》。為《レ》人狷介有《レ》守。而其学不《レ》立《二》門戸《一》。常謂。今之学者。皆誇《二》識見《一》。吾独以《レ》無《二》識見。為《二》識見《一》。是以務《二》考証《一》。述而不《レ》作。其所《二》編輯《一》。国史類聚。歌集類語。寛居雑纂。度会系図考証巳下。凡千有余巻。噫亦夥矣。天保中。 禁中講《二》国史《一》。以《二》君之宿学《一》。有《レ》所《二》啓詢《一》。君乃撰《二》六国史人名部類若干巻《一》。上シタ於平生所《レ》蒙《二》親眷《一》三条公ウエ。公又獻《二》 之内《一》。下《レ》書褒賞賜《二》宝硯《一》。本為《二》 御物《一》云。少来作《二》和歌数万首《一》。亦成《二》一家《一》。然不《レ》欲《レ》為《二》歌人《一》。自抄《二》其稿《一》為《二》一巻《一》。曰《二》海士囀《一》。素抱《二》経世之志《一》。屢救《二》人之急《一》。貧学生自《二》四方《一》来者。留而宿《レ》之。或至《二》数月《一》。曽無《二》厭倦之色《一》。家為《レ》之貧而弗《レ》恤。山田之都。豪奢成《レ》風。祠官多破《レ》家絶《レ》嗣者。其佗弊習甚多。
+史資料〈著作〉
+史資料〈碑文〉
+史資料〈その他〉
+辞書類古学,神大,和歌,国史,明治,神人,神事,神史,本居,大事典,名家
+和学者カード
-40374 国学関連人物データベース 36 1 CKP000034 足代弘訓 AJIRO HIRONORI 外宮権禰宜、国学者。足代弘早の子として生まれる。天明8年(1788)、豊受大神宮の権禰宜に補任される。 慶安年間、豊宮崎文庫の設備不完全を遺憾に思い、文庫の取立てに尽力し、とりわけ群書類従を奉納した。かくて文化4年(1807)従四位下に叙せられ、その後位階昇り、最終的には正四位上に叙せられた。弘化元年(1844)、三条実万の内命により『続日本後記人名部類』3冊『三大実録人名部類』10冊『文徳実録人名部類』2冊『文徳実録故事成語考』10冊、総計25冊を国史御会に献上。その功績を讃えられ仁孝天皇より恩賜の硯を受ける。

■学問動向・交流・著作
 祠職として神明に奉仕する傍ら、諸家と親交を結び見識を広げた。初め、荒木田久老の門に入って万葉集を学び、久老の没後、上京して芝山持豊に就いて和歌を学び、竹屋光棣からは有職故実の知識を得る。本居宣長を慕い、直弟子になれなかったことを無念としたものの、本居大平の門に入って国学を学び、文化六(1809)年には本居春庭に入門した。同年には亀田末雅に神事及び律令を学んだ。また大塩平八郎、吉田松陰の他、江戸においては、朝川善庵、狩谷棭斎、北静盧、屋代弘賢、塙保己一、林衡、新見正路、成島司直等の諸名家とも往来し、神典・国史・律令を考究し考証に努めた。従学するものは数百を数え、中でも近藤芳介、山中秀之、松浦武四郎、橋村正克、橋村淳風、生川正香、中西弘縄、中島信太郎、世古延世、柴田守典、御巫清直、井坂徳辰、児玉尚高、佐々木弘綱、北川弘武などが門弟の主なる人々である。編著に『度会系図考証』(57冊)、『やちまた補翼』(50冊)、『万葉集類語』(119冊)、『令義解部類』(50冊)『寛居雑纂』(86冊)、『歌集類語』(86)冊などがあり、総じて千巻を超える。

■学問態度
 弘訓は、神典を神国に生まれた者が神を敬する事を醸成する源泉として捉え、それ故に、弘訓の敬慕した本居宣長が主張する如く、神典を解釈するにあたり、小賢しい人智を以って穿鑿するのではなく、古伝承をあるがままに受け止める態度が重要であることを力説した。更にそれを補う知識として、神宮及び神社の祭祀・祝詞・触穢等に関する事を弁え知るべき必要性を主張している。その学風は、敬神尊王の精神に満ちあふれていることが知られるが、反面、平田篤胤の唱える幽冥思想等の神秘主義については、「蘭説・仏説をも、天狗小僧の妄言をもましへて、愚人を欺く魔説の神道あり、おそるべき邪説なり、かならす信用すへからす」(『学の道々』)と主張して、厳しく峻拒した。弘訓が儒学を重視し、門人に対してはまず律令などを学ばせ、その後実学を重視するように指導した背景には、神典を学ぶにあたり、篤胤のように、神秘・奇怪の事柄に関心を寄せては、神典の本質を見失う結果に陥ると判断したからに他ならない。従って弘訓が儒学を重視したのは、その学習によって仁・義に代表される人倫の道を修得し、人としての道義を逸脱しないことにあった。つまり、儒学の優れた点は、大いに吸収すべきであるが、その前提として、国典を修め、日本人としての主体性を確立することが何より重要であるとの指摘であって、倭魂漢学の精神に準ずるものであったといえよう。即ち、その点に於いて、宣長が極力漢学を排斥したのに対して、弘訓の場合は、国学と儒学とを調和的に捉えていたといえよう。即ち、「おのれは本居ばかりにも傾せさず、<中略>漢籍をも見申し候て、風儀正しく学問いたしたく候こと、もとよりの念願に御座候」(『勧学瑣言』)と述べている。こうした現実主義的な学風は、実学の強調とその実学を努める為に正しい学問の道理を修得すること、即ち律令の学習が重要なものとなるのである。弘訓の説く実学とは、社会実用の学であり、その上朝廷・幕府からも用いられる、国家有用の学である。而して、その実学を修得する為の律令の学習は、律令を通じて国史の正確な修得が可能になること、また律令の学習を通じて、学問の邪正を判断出来ること、あるいは「令をしらされは、何を学びても根本を捨て、枝葉にとゝまる」との指摘等、世に有用な学問をする為には、律令の修得が不可欠であると強調した。かくして、かかる学風は、文化・文政年間、奢侈に流れた山田の御師に破産する者が多かったので、その弊風粛清運動を起こし幕府に請願したことや、天保の飢饉にあたり、窮民救済に奔走したりする等、弘訓の実際家・経世家としての基盤となったのであろう。ちなみにすでに指摘したように、弘訓の究めた学問は広範に亘るものであって、その著述に於いても六国史に関する類聚を始めとして、神祇・律令・姓氏・物語・語学・歌学・随筆・雑纂類等、広範囲に及ぶものである。とりわけ類聚的なものと考証的なものとに最も力を注いだと思われる。要するに弘訓の学問を端的に評するならば、考証学に終始し、徒に新説を主張して人の意表に出るが如き学説を避け、多くの文献的資料を渉猟し、そして後進者の研究に資する態度であった。

■語学・歌学
弘訓は諸学に通じていたが、とりわけ語学と歌学とに精通していたから、自ずと、歌学に関しても多くの諸説を示している。弘訓が主張する歌学とは、詞(ことば)の学を基本とするものである。その上で、詞の使い様に精通すべきことを、主張した。即ち、語学修行を奨励した上で、「仮名遣を知らざれば如何様学問ありても歌文を巧みに作り得ても猶初心と云ふべし」(『学の道々』)と述べている。

■作歌
また弘訓は、香川景樹に「学者にも斯る歌人ありや」と云わしめたほど、詠歌に類稀な才能を発揮した。弘訓は賀茂真淵を尊敬していたため、純万葉調のものもあるが、本居大平の教えを受けた為、新古今調に近いものが多い。 足代弘訓 AJIRO HIRONORI , 49 小伝 国伝 全 35965 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 外宮権禰宜 男 アジロ ヒロノリ / AJIRO HIRONORI / 男 ■履歴
外宮権禰宜、国学者。足代弘早の子として生まれる。天明8年(1788)、豊受大神宮の権禰宜に補任される。 慶安年間、豊宮崎文庫の設備不完全を遺憾に思い、文庫の取立てに尽力し、とりわけ群書類従を奉納した。かくて文化4年(1807)従四位下に叙せられ、その後位階昇り、最終的には正四位上に叙せられた。弘化元年(1844)、三条実万の内命により『続日本後記人名部類』3冊『三大実録人名部類』10冊『文徳実録人名部類』2冊『文徳実録故事成語考』10冊、総計25冊を国史御会に献上。その功績を讃えられ仁孝天皇より恩賜の硯を受ける。

■学問動向
 祠職として神明に奉仕する傍ら、諸家と親交を結び見識を広げた。初め、荒木田久老の門に入って万葉集を学び、久老の没後、上京して芝山持豊に就いて和歌を学び、竹屋光棣からは有職故実の知識を得る。本居宣長を慕い、直弟子になれなかったことを無念としたものの、本居大平の門に入って国学を学び、文化六(1809)年には本居春庭に入門した。同年には亀田末雅に神事及び律令を学んだ。また大塩平八郎、吉田松陰の他、江戸においては、朝川善庵、狩谷棭斎、北静盧、屋代弘賢、塙保己一、林衡、新見正路、成島司直等の諸名家とも往来し、神典・国史・律令を考究し考証に努めた。従学するものは数百を数え、中でも近藤芳介、山中秀之、松浦武四郎、橋村正克、橋村淳風、生川正香、中西弘縄、中島信太郎、世古延世、柴田守典、御巫清直、井坂徳辰、児玉尚高、佐々木弘綱、北川弘武などが門弟の主なる人々である。編著に『度会系図考証』(57冊)、『やちまた補翼』(50冊)、『万葉集類語』(119冊)、『令義解部類』(50冊)『寛居雑纂』(86冊)、『歌集類語』(86)冊などがあり、総じて千巻を超える。 ■学問態度
 弘訓は、神典を神国に生まれた者が神を敬する事を醸成する源泉として捉え、それ故に、弘訓の敬慕した本居宣長が主張する如く、神典を解釈するにあたり、小賢しい人智を以って穿鑿するのではなく、古伝承をあるがままに受け止める態度が重要であることを力説した。更にそれを補う知識として、神宮及び神社の祭祀・祝詞・触穢等に関する事を弁え知るべき必要性を主張している。その学風は、敬神尊王の精神に満ちあふれていることが知られるが、反面、平田篤胤の唱える幽冥思想等の神秘主義については、「蘭説・仏説をも、天狗小僧の妄言をもましへて、愚人を欺く魔説の神道あり、おそるべき邪説なり、かならす信用すへからす」(『学の道々』)と主張して、厳しく峻拒した。弘訓が儒学を重視し、門人に対してはまず律令などを学ばせ、その後実学を重視するように指導した背景には、神典を学ぶにあたり、篤胤のように、神秘・奇怪の事柄に関心を寄せては、神典の本質を見失う結果に陥ると判断したからに他ならない。従って弘訓が儒学を重視したのは、その学習によって仁・義に代表される人倫の道を修得し、人としての道義を逸脱しないことにあった。つまり、儒学の優れた点は、大いに吸収すべきであるが、その前提として、国典を修め、日本人としての主体性を確立することが何より重要であるとの指摘であって、倭魂漢学の精神に準ずるものであったといえよう。即ち、その点に於いて、宣長が極力漢学を排斥したのに対して、弘訓の場合は、国学と儒学とを調和的に捉えていたといえよう。即ち、「おのれは本居ばかりにも傾せさず、<中略>漢籍をも見申し候て、風儀正しく学問いたしたく候こと、もとよりの念願に御座候」(『勧学瑣言』)と述べている。こうした現実主義的な学風は、実学の強調とその実学を努める為に正しい学問の道理を修得すること、即ち律令の学習が重要なものとなるのである。弘訓の説く実学とは、社会実用の学であり、その上朝廷・幕府からも用いられる、国家有用の学である。而して、その実学を修得する為の律令の学習は、律令を通じて国史の正確な修得が可能になること、また律令の学習を通じて、学問の邪正を判断出来ること、あるいは「令をしらされは、何を学びても根本を捨て、枝葉にとゝまる」との指摘等、世に有用な学問をする為には、律令の修得が不可欠であると強調した。かくして、かかる学風は、文化・文政年間、奢侈に流れた山田の御師に破産する者が多かったので、その弊風粛清運動を起こし幕府に請願したことや、天保の飢饉にあたり、窮民救済に奔走したりする等、弘訓の実際家・経世家としての基盤となったのであろう。ちなみにすでに指摘したように、弘訓の究めた学問は広範に亘るものであって、その著述に於いても六国史に関する類聚を始めとして、神祇・律令・姓氏・物語・語学・歌学・随筆・雑纂類等、広範囲に及ぶものである。とりわけ類聚的なものと考証的なものとに最も力を注いだと思われる。要するに弘訓の学問を端的に評するならば、考証学に終始し、徒に新説を主張して人の意表に出るが如き学説を避け、多くの文献的資料を渉猟し、そして後進者の研究に資する態度であった。

■語学・歌学
弘訓は諸学に通じていたが、とりわけ語学と歌学とに精通していたから、自ずと、歌学に関しても多くの諸説を示している。弘訓が主張する歌学とは、詞(ことば)の学を基本とするものである。その上で、詞の使い様に精通すべきことを、主張した。即ち、語学修行を奨励した上で、「仮名遣を知らざれば如何様学問ありても歌文を巧みに作り得ても猶初心と云ふべし」(『学の道々』)と述べている。

■作歌
また弘訓は、香川景樹に「学者にも斯る歌人ありや」と云わしめたほど、詠歌に類稀な才能を発揮した。弘訓は賀茂真淵を尊敬していたため、純万葉調のものもあるが、本居大平の教えを受けた為、新古今調に近いものが多い。 あじろ ひろのり,度会,権大夫,慶二郎,式部,寛居,ヒロイ,ユタイ アジロ ヒロノリ 〔姓〕度会 【和】 〔称〕権太夫 【国2】慶二郎・式部 【和】 〔号〕寛居(ヒロイ) 【国2】寛居(ゆたい) 【書】 〔姓〕度会 【和】
〔称〕権大夫 【国2】慶二郎・式部 【和】
〔号〕寛居(ヒロイ) 【国2】寛居(ゆたい) 【書】 44161 天明4年<1784>11月26日 【国2】 11月5日 安政3年<1856>11月5日 【国2】 73歳 【国2】 1784 - 1856 伊勢国 伊勢度会郡 三重県 三重県 伊勢度会郡 【和】 三重県 伊勢度会郡 【和】 伊勢国鷲山 【国2】 荒木田久老,亀田末雅,本居春庭,本居大平,柴山持豊,竹屋光棣 【国2】 荒木田久老,亀田末雅,本居春庭,本居大平,柴山持豊,竹屋光棣 【国2】 国伝2,国書人名辞典,和学者総覧.49  〔足代弘訓翁家集 附録 ある人に贈られたる書状 其一〕私儀十四より始めて学問仕り、歌をよみ申候。十八より五十槻園宇治久老に入門致し、猶又芝山大納言持豊卿にも、点削を相願ひ申候。二十三より、本居春庭、大平、両翁に入門致し申し候。二十三十の頃は。大天狗にて、大先生になるべき心持に御座候所、逐々諸名家に交り候に付、先非を悔み、四十に至り、江戸に出、柳営の御学風をも、少々相伺ひ、五十に至り、京都に参り、禁廷の御学風の片端をも相伺ひ、それより大に見識下り、今年六十八に相成候へども、唯今にては、白髪の書生にて、是まで不覚悟の義を、黄泉の土産に覚え置申度、少年の衆を学友に致し、かつ学び、かつ教へ申候。御一笑可被下候。
〔足代弘訓翁家集 附録 ある人に贈られたる書状 其二〕拙者義十歳頃より、近代の軍記をこのみ、十四より学問に志し、歌をよみ申候。二十頃、三十頃は、いはゆる偏固の田舎天狗に御座候所、追々有名の人々に交り候後、段々志下り、唯今にては、白髪の老書生に御座候。十七歳より、宇治久老翁に学び、二十三歳にて、久老卒去、夫より本居春庭翁、大平翁に入門し、又、芝山持豊卿に学ぶ。京都にて御懇命を蒙り候御方々は、三条大納言実万卿、東坊城大納言聴長卿、竹屋三位光棣卿、錦小路中務少輔頼易朝臣、芝山中納言持豊卿、江戸にては林大学頭、新見伊賀守、成島図書頭。交を結び候高名家、江戸にては塙保己一検校、清水浜臣、狩谷棭斎、北静蘆、屋代弘賢、朝川善庵、京都にては、伴蒿蹊、猪飼敬所、小川萍流、山田以文、加茂季鷹、冨士谷御杖、浪花にては、上田秋成、萩原広道、尾崎雅嘉。
〔古学 中〕四十歳ノトキ、江戸ニ出デ、朝川善庵ヲ主トシ、狩谷棭斎、北静蘆、屋代弘賢、塙保己一ナドヽ交レリ。翁古学者ノ奇説ヲ唱ヘ、歌学者ノ浮薄ナルヲ悪メリ。大塩後素猪飼敬所、斎藤拙堂ナド殊ニ入魂ナリ。又経済ノ学ヲ好ミ、天保度ノ飢饉ニハ、人々ト議シ、窮民ヲ救ハル。翁長短歌文学ニ長ゼリ。香川景樹モ古学者ノ詠歌ハ足代ヲ最トスト賞セラレシトゾ。門人イト多ク、教授ニ暇ナケレドモ、朝夕怠ラズ著述ニ従事ス。其書千巻ニ余レリ。ウチ国史人名部類ハ、三条実万卿ヨリ天覧ニ備ヘ奉リシニ、仁孝天皇叡感ノ余、御硯ヲ賜ハル。著書ハ大半、明治維新ノ後、宮内省ニテ謄写セラレシトゾ。其有用ナル証スベシ。
〔権禰宜正四位上度会神主足代君墓碑銘〕人神一致。事《レ》人者。不《レ》可《レ》不《レ》忠《二》於人。事《レ》神者。亦豈可《レ》不《レ》忠《二》神《一》耶。如《二》足代氏《一》。可《レ》謂シタ世忠《二》於神《一》者ウエ成。我邦尊《二》崇神祇《一》。有《二》大社二十一《一》。而伊勢為《二》之最《一》。在昔天武朝。特詔《二》伊勢神宮《一》。修造遷替。以《二》二十年《一》為《レ》期。永以為《レ》例。爾来至《二》永享六年《一》。七百五十余年。毎期挙行不《レ》懈。其後喪乱相踵。朝典悉廃。神宮弗《レ》修者。百三十年。愆期之久。殿閣傾圯。足立氏之先。弘与神主。見而悲《レ》之。慨然力《二》請庁宜《一》。下《二》於諸国《一》。募《二》其用費《一》。以謀《二》営繕《一》。遂以《二》永禄六年九月《一》成。遷替如《二》故事《一》。事聞蒙《二》叡賞《一》。賜《二》姓度会神主《一》。櫂《二》任権禰宜《一》。叙《二》従五位下《一》。其家本微。系譜不《レ》詳。至《レ》是始顕。子孫相続蒙《レ》蔭。至《二》於寛居君《一》。益振《二》祖業《一》。大顕《二》於世《一》云。君諱弘訓。通称権大夫。足代某氏族。寛居其別号成。為《二》弘与神主十一世之孫《一》。高祖諱弘調。従四位下。曽祖諱弘隆。従五位上。祖諱弘寄。従四位上。考諱弘早。正四位下。至《二》於君《一》累進至《二》正四位上《一》。前代所《レ》未《二》曾有《一》也。君少好《レ》学。以為祠官不《レ》可《レ》不《レ》明《二》神典《一》。首研《二》究之《一》。遂及《二》国史律令歌集等書《一》。少従《二》宇治久老《一》。長従《二》本居大平。及春庭《一》而游焉。猶不《二》以自足《一》。屢往《二》京師《一》。従《二》芝山竹屋諸纉紳《一》。有《レ》所《二》質正《一》。又游《二》江門《一》。与《二》新見岡本成島諸士。及塙朝川狩谷諸人《一》相往来。以広《二》聞見《一》。為《レ》人狷介有《レ》守。而其学不《レ》立《二》門戸《一》。常謂。今之学者。皆誇《二》識見《一》。吾独以《レ》無《二》識見。為《二》識見《一》。是以務《二》考証《一》。述而不《レ》作。其所《二》編輯《一》。国史類聚。歌集類語。寛居雑纂。度会系図考証巳下。凡千有余巻。噫亦夥矣。天保中。 禁中講《二》国史《一》。以《二》君之宿学《一》。有《レ》所《二》啓詢《一》。君乃撰《二》六国史人名部類若干巻《一》。上シタ於平生所《レ》蒙《二》親眷《一》三条公ウエ。公又獻《二》 之内《一》。下《レ》書褒賞賜《二》宝硯《一》。本為《二》 御物《一》云。少来作《二》和歌数万首《一》。亦成《二》一家《一》。然不《レ》欲《レ》為《二》歌人《一》。自抄《二》其稿《一》為《二》一巻《一》。曰《二》海士囀《一》。素抱《二》経世之志《一》。屢救《二》人之急《一》。貧学生自《二》四方《一》来者。留而宿《レ》之。或至《二》数月《一》。曽無《二》厭倦之色《一》。家為《レ》之貧而弗《レ》恤。山田之都。豪奢成《レ》風。祠官多破《レ》家絶《レ》嗣者。其佗弊習甚多。 ・松木疎紘 「足代弘訓翁と御巫清直翁との比較私見」(『わか竹』11-7・9・10, 大正7)
・鈴木敏子 「渡会神主足代弘訓」(『学苑』7-5, 昭和15)
・松木素彦 「足代弘訓の国学」(『國學院雑誌』585, 昭和18) 
・伴五十嗣郎 「足代弘訓の学風と門人教育 -河本忠光への教導を中心として-」(『神道学論文集 谷省吾先生退職記念』, 1995.7)
・伴五十嗣郎 「出口延佳と足代弘訓―儒学受容の姿勢をめぐって―」(『瑞垣』177, 1997) 古学,神大,和歌,国史,明治,神人,神事,神史,本居,大事典,名家 古事記神名類聚,古事記人名類聚,日本紀部類,日本紀人名部類,続日本紀部類,続日本紀人名部類,日本後紀人名部類,日本逸史人名部類,続日本後紀部類,続日本後紀人名部類,続日本後紀故事成語考,文徳実録部類,文徳実録人名部類,三代実録人名部類,度会系図考証,三証一覧,神領考証,令義解部類,万葉集類語,万葉集名所部類,万葉集類句,古今六帖頭字部類,物語歌頭字部類,物語歌下句頭字部類,消息部類,宇津保物語頭字部類(宇津保物語歌/頭字部類),源氏物語類語(源氏類語),歌集類語,詞の志き浪(詞の重浪),八代集部類,八衢補翼,寛居雑纂,おろかおひ,かしこき跡(かしこきあと),地震雑纂,服仮触穢便蒙① 史資料・解説 天明(1781-1789) 寛政(1789-1801) 享和(1801-1804) 文化(1804-1818) 文政(1818-1830) 天保(1830-1844) 弘化(1844-1848) 嘉永(1848-1854) 安政(1854-1860)

PageTop