鈴木朖
分野分類 CB | 宗教学・神道学 |
---|---|
文化財分類 CB | 学術データベース |
資料形式 CB | テキストデータベース |
大分類 | 国学関連人物データベース |
タイトル | 鈴木朖 |
+ヨミガナ / NAME / 性別 | スズキ アキラ / SUZUKI AKIRA / 男 |
+小見出し | 尾張藩明倫堂教授並 |
+別称 | 〔姓〕山田 【和】 〔称〕恒吉・常介 【和】常助 【国2】 〔名〕朗 【書】 〔字〕叔清 【和】 〔号〕離屋 【和】 [法号]通靖院離山浄達居士 【書】 |
+生年月日 | 宝暦14年<1764>3月3日 【書】 |
+没年月日 | 天保8年<1837>6月6日 【国2】 |
+享年 | 74歳 【国2】 |
+生国・住国 | 尾張国東春日井郡琵琶島 【国2】尾張西枇杷島 【書】尾張春日井郡 【和】 |
+生国・住国(現在地名) | 愛知県 |
+墓地名 | 名古屋城南誓願寺 【国2】 |
+学統 | 本居宣長・本居春庭 【和】丹羽謝庵・市川鶴鳴 【書】 |
+典拠 | 国伝2,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.5440 |
+史資料 | 翁は初め、純粋なる儒者なりき。其学統に就いては、知るべからざれども、単純なる程朱子学者にはあらざりしが如し。また其宣長の門に入りしは、何歳の時にありしかをも知らざれども、寛政四年、二十九歳なりし時、宣長の馭戒慨言に序したれば、当時既に其門にありしや疑ひなし。兎に角、宣長の学、未だ行はれざりし時に於て、逸早く其説に感じて、門に入りしといへり(墓誌)。 翁の著述に就いていはんに、語学を始として、国文の上には、雅語音聲考、希雅各一巻合冊、(文化十三年刻)あり。就中、雅語音聲考は、享和の初め、翁の三十八九歳なりし時に、著はされしものの如し。平田篤胤曰く、「五十音の義解は、如此もやと思ひ設けたりしは、いまの天保十年己亥歳より、指おりて数えれば、早く四十年余の昔、享和といいける年頃にて、尾張人鈴木朖が、江戸にありしほど、互ひに語り相たるが始なりき。後に朖が雅語音聲考とて、少か書たる物も有けり」と(古史本辞経)。本居大平も、文化十三年、この書を板行せんとし際に、これに序して『この音聲考は、早く大平が見しは、十三年あまり、五年ばかり、をちつかたになもありけるを、したがきながら、久しくただ同じ心の三人四人に、見せられけれど、さてありけるを』とあれば、板行の当時の著述にあらざることは明けし。翁もまた、弁ずらく『或人曰く、近頃江戸人の作れる稗書に、此説既に見えたり。予云、それは予、江戸にありし時、石川雅望、此稿本を見て、写し置きたるを、転伝して見たる物のしわざなり。彼が我より先なるにはあらず』と、此稗史とは、何の書なるか、今思ひでず。希雅は、其何歳の時の著述なるかを知らざれど、板行以前、数年にありしことは、疑ふべからず。余はまた思へらく、希雅は、雅語音聲考に先きだちて、成りしものにあらざるか。翁が漢学に精通したる智識は、劉熈の釈詁に飽かずして、この著あり。延いて、我国語の上に移して、音聲考のなりしにあらずやと。文政三年、五十七歳の時雅語釈解(一冊、同年刊行)、玉小櫛補遺(二冊、同年刊行)成り、同七年、六十一歳の時、言語四種論(一冊同年刊行)、少女巻抄註(一冊同年刊行)成りぬ。天保六年、七十二歳の時、改正読書点例(一冊、天保七年{?}刊行)成る。是れ翁が国語学の上より、漢籍に就いて、字訓、語の読み、句切、手邇遠波の誤り等を訂したるものにして、素読といふことに、重きを措かれたる当時に於いては、甚だ有益なりし著述と信ぜらるるなり。其他、猶ほ、活語断続譜(未刊)あり。言語四種論に、其名を見るなれば、少くとも、六十一歳前の著述なることを知るべし。翁の漏らす所によれば、活語のキレツヅキの譜なりと、未だ其書を見ず。翁の語学に就きては、上田萬年君の後にいふことあれば、これに譲らん。 |
+辞書類 | 古学,国書,和歌,国史,本居,大事典,名家 |
- | |
資料ID | 40366 |