楫取魚彦

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル楫取魚彦
+ヨミガナ / NAME / 性別カトリ ナヒコ / KATORI NAHIKO / 男
+小見出し
+別名
+別称〔姓〕伊能・稲生 【和】
〔称〕茂左衛門 【和】一作茂右衛門 【国続】
〔名〕豊彦・景豊・景良 【和】
〔字〕子温 【和】
〔号〕青藍・茅生庵 【和】
[法号]光雲院揖浦魚彦居士 【国1】
+生年月日享保8年<1723>3月2日 【国1】
+没年月日天明2年<1782>3月23日 【国1】
+享年60歳 【国1】
+生国・住国
+生国・住国(現在地名)
+生国下総国香取郡 【国1】
+生国(現在地名)千葉県
+住国江戸濱町茅生庵 【国1】
+住国(現在地名)東京都
+墓地名下総香取郡観福寺 【書】
+墓地現在地
+学統林笠翁・賀茂真淵
+典拠国伝1,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.2826
+解説目次
+解説
+特記事項
+参考文献
+史資料〔三十六 下〕
明和二年、家を子息、景序に譲りて、自らは江戸に出てゝ、浜町山伏井戸といふに移り住す。此地賀茂翁の居に近きが故なればなり。こゝにして其号を茅生(ちふ)庵といふ。かくて其次の年、天明二年三月二十三日、年六十にして病んで、浜町の茅生庵に没す。遺骸は故郷下総楫取郡牧野村、観満寺の山内、先墓の側に葬る。紱の名を、光雲院楫浦魚彦居士と称す。

〔三十六 下〕
ここに賀茂県居翁、大江戸にありて、昌んに古学を起し、普く有志の士を誘ふ。翁、やがて其門に入りしより、皇国風の直く正しき道をしり、大に日本魂を振起して、日夜古道を修学す。ことに万葉集を尊び、頻に古言の奥旨を究む。其平生、詠み出づる歌にも、少しも後世の言を交へず。好んで上古の調をのみ貴み、頗る自在に遣ひ、しかしてまた新意を出せり。翁また催馬楽調作るに、妙所に至りて、実に千載の古調の如し。
〔楫取魚彦歌集〕伊能魚彦は、下総国楫取あがたの人なり、常の名をば、茂左衛門といひき。明和といふ年の末つかた、此大江門にまゐ来て、県居翁に名簿をたてまつり、翁の住み給へる、浜町といふ所に軒を並べ、朝夕にしたがひむつびて、まなびの道に心いれつゝ、よく古言の葉のおくがをきはめられしかば、常につみいでらるる言ぐさ、いさゝかも、後の世のをまじへず、心のまゝに古言もて、新しきことども、いひとられにけり。かくて天明三年やよひばかりに、齢六十にて浜まちのやどりに身まかれぬ。今も其うから、伊能を氏にて、楫取にあるが其家に伝へもたる家集一巻あり。みづからの筆にて、安永五年と六年と、二年のとをかゝれたるのみなりけり。猶こゝに写しつ。かしこにちり残れる、あるべきを、何かはかくてのみと、此ぬしのみやびに、思ひあがれる心の程は、しらるゝを、あながちに多きを求めむは、えうなき事とて、とかくよみかうがへて、板にゑらせたるなりけり。 
  文政四年秋                                     清水浜臣

〔一話一言 一六〕
又画を建孟喬綾足に学びて、よく鯛を画しとぞ。

〔三十六家 下〕
かくて翁の門人、千賀真恒、同友と相議して、翁の書きのこされたる詠草の反故どもを、とり輯めて、橋場の宗禅寺の境内に埋み、碑を建てゝ、これを茅生塚と称す。其碑今は廃したり。故に好士のために、前文を挙げてしらしむ。鼠声蜂音乃壟波吾大人茅生乃翁賀庵乃号爾乃弖、翁波楫取中臣魚彦奈利。翁下総国楫取県従東乃遠乃朝廷。大江門乃大城乃下爾出弖、賀茂県主真淵大人爾属伎、吾皇御国能古書乎読考反、古調乎序歌反里介留代爾志弖、高伎代廼文藻乎悟佐万久、故作礼留古言乃梯昇布手便登母成奴。又広久種々乃書乎論呂比労成世留業乎、掛巻母恐伎、二荒乃宮乃法親王聞食皇霊乃布由乎蒙弖従、其勲功乎不称波不有介里、如何奈留也年名乎天明登云留二年三月二十三日齢六十登云爾、黄泉爾去奴。茲爾翁耳従朋友等、議弖此武蔵国豊島奈留県爾朝茅我原登名乎負世志地乎、由縁登志弖、書捨爾多留文等歌等乎埋美、即弖是乎茅生乃壟登曰牟。阿怜此石登世爾千秋五百秋毛、朝茅生乃翁賀名乃不朽弖、往昔好米留人乃偲爾奈毛、為牟登智謌真恒識奴。源伊呂古書利。【チブノツカハヤ、チブハワガウシチブノヲヂガイホノナニシテ、ヲジハカトリナカトミノナヒコナリ。ヲヂシモウサノクニカトリガタユアヅマノヲチノミカド。オオエドノオオキノモトニイデテ、カモアガタヌシマブチウシニツキ、ワガスメミクニノイニシヘブミヲヨミカウガヘ、ゐニシヘノシラベヲゾウタヘリケル。イマヤクダレルヨニシテ、タカキヨノミヤビヲサトサマク、カレツクレルフルコトノカケハシトイフフミゾ、ソノタカキヨノタカキニノボラフタヅキトモナシヌ。マタヒロククサグサノフミヲアゲツロヒイタヅキナセルワザヲ、カケマクモカシコイキ、フタラノミヤノノリノミコ、キコシメシミタマノフユヲカフミリテヨリ、ソノイサヲヲタタヘズバアラザリケリ。イカナルヤトシノナヲ、テンメイトイヘルフタトセヤヨヒハツカアマリミカ、ヨハヒムソヂトイフニ、ヨミヂニサリヌ。ココニヲヂニシタガヘルトモダチ、ハカリテコノムサシノクニトシマナルアガタニアサヂガハラトナヲヲハサエシトコロヲ、ユカリトシテ、カキステニタルフミラウタラヲ、ウヅミ、ヤガテココヲチブノツカトイハム。アハレコノイシト、ヨニチアキイホアキモ、アサヂフノチフノヲヂカナノクチズテ、イニシヘコノメルヒトノシヌビニナモ、セムトチカノマツネシルシヌ。ミナモトノイロコカケリ。】
+史資料〈著作〉
+史資料〈碑文〉
+史資料〈その他〉
+辞書類古学,国書,和歌,国史,神人,本居,大事典,名家
+和学者カード
-40358 国学関連人物データベース 36 1 CKP000018 楫取魚彦 KATORI NAHIKO 楫取魚彦 KATORI NAHIKO , 2826 小伝 国伝 全 35949 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 男 カトリ ナヒコ / KATORI NAHIKO / 男 かとり なひこ,伊能,稲生,茂左衛門,茂右衛門,景盛 ,景良,景豊,子温,青藍,茅生庵 ,光雲院揖浦魚彦居士 カトリ ナヒコ 〔姓〕伊能 【国1】・稲生 【国1】 〔称〕茂左衛門 【国1】〈一説に茂右衛門 【国1】〉 〔名〕景盛 ・景良 【国1】・景豊 【国1】・豊彦 〔字〕子温 【和】 〔号〕青藍・茅生庵 【国1】 [法号]光雲院揖浦魚彦居士 【国1】 〔姓〕伊能・稲生 【和】
〔称〕茂左衛門 【和】一作茂右衛門 【国続】
〔名〕豊彦・景豊・景良 【和】
〔字〕子温 【和】
〔号〕青藍・茅生庵 【和】
[法号]光雲院揖浦魚彦居士 【国1】 43892 享保8年<1723>3月2日 【国1】 3月23日 天明2年<1782>3月23日 【国1】 60歳 【国1】 1723 - 1782 下総国 武蔵国 下総国香取郡 千葉県 東京都 下総国香取郡 【国1】 千葉県 江戸濱町茅生庵 【国1】 東京都 下総香取郡観福寺 【書】 林笠翁・賀茂真淵 林笠翁・賀茂真淵 【和】 国伝1,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.2826 〔三十六 下〕
明和二年、家を子息、景序に譲りて、自らは江戸に出てゝ、浜町山伏井戸といふに移り住す。此地賀茂翁の居に近きが故なればなり。こゝにして其号を茅生(ちふ)庵といふ。かくて其次の年、天明二年三月二十三日、年六十にして病んで、浜町の茅生庵に没す。遺骸は故郷下総楫取郡牧野村、観満寺の山内、先墓の側に葬る。紱の名を、光雲院楫浦魚彦居士と称す。

〔三十六 下〕
ここに賀茂県居翁、大江戸にありて、昌んに古学を起し、普く有志の士を誘ふ。翁、やがて其門に入りしより、皇国風の直く正しき道をしり、大に日本魂を振起して、日夜古道を修学す。ことに万葉集を尊び、頻に古言の奥旨を究む。其平生、詠み出づる歌にも、少しも後世の言を交へず。好んで上古の調をのみ貴み、頗る自在に遣ひ、しかしてまた新意を出せり。翁また催馬楽調作るに、妙所に至りて、実に千載の古調の如し。
〔楫取魚彦歌集〕伊能魚彦は、下総国楫取あがたの人なり、常の名をば、茂左衛門といひき。明和といふ年の末つかた、此大江門にまゐ来て、県居翁に名簿をたてまつり、翁の住み給へる、浜町といふ所に軒を並べ、朝夕にしたがひむつびて、まなびの道に心いれつゝ、よく古言の葉のおくがをきはめられしかば、常につみいでらるる言ぐさ、いさゝかも、後の世のをまじへず、心のまゝに古言もて、新しきことども、いひとられにけり。かくて天明三年やよひばかりに、齢六十にて浜まちのやどりに身まかれぬ。今も其うから、伊能を氏にて、楫取にあるが其家に伝へもたる家集一巻あり。みづからの筆にて、安永五年と六年と、二年のとをかゝれたるのみなりけり。猶こゝに写しつ。かしこにちり残れる、あるべきを、何かはかくてのみと、此ぬしのみやびに、思ひあがれる心の程は、しらるゝを、あながちに多きを求めむは、えうなき事とて、とかくよみかうがへて、板にゑらせたるなりけり。 
  文政四年秋                                     清水浜臣

〔一話一言 一六〕
又画を建孟喬綾足に学びて、よく鯛を画しとぞ。

〔三十六家 下〕
かくて翁の門人、千賀真恒、同友と相議して、翁の書きのこされたる詠草の反故どもを、とり輯めて、橋場の宗禅寺の境内に埋み、碑を建てゝ、これを茅生塚と称す。其碑今は廃したり。故に好士のために、前文を挙げてしらしむ。鼠声蜂音乃壟波吾大人茅生乃翁賀庵乃号爾乃弖、翁波楫取中臣魚彦奈利。翁下総国楫取県従東乃遠乃朝廷。大江門乃大城乃下爾出弖、賀茂県主真淵大人爾属伎、吾皇御国能古書乎読考反、古調乎序歌反里介留代爾志弖、高伎代廼文藻乎悟佐万久、故作礼留古言乃梯昇布手便登母成奴。又広久種々乃書乎論呂比労成世留業乎、掛巻母恐伎、二荒乃宮乃法親王聞食皇霊乃布由乎蒙弖従、其勲功乎不称波不有介里、如何奈留也年名乎天明登云留二年三月二十三日齢六十登云爾、黄泉爾去奴。茲爾翁耳従朋友等、議弖此武蔵国豊島奈留県爾朝茅我原登名乎負世志地乎、由縁登志弖、書捨爾多留文等歌等乎埋美、即弖是乎茅生乃壟登曰牟。阿怜此石登世爾千秋五百秋毛、朝茅生乃翁賀名乃不朽弖、往昔好米留人乃偲爾奈毛、為牟登智謌真恒識奴。源伊呂古書利。【チブノツカハヤ、チブハワガウシチブノヲヂガイホノナニシテ、ヲジハカトリナカトミノナヒコナリ。ヲヂシモウサノクニカトリガタユアヅマノヲチノミカド。オオエドノオオキノモトニイデテ、カモアガタヌシマブチウシニツキ、ワガスメミクニノイニシヘブミヲヨミカウガヘ、ゐニシヘノシラベヲゾウタヘリケル。イマヤクダレルヨニシテ、タカキヨノミヤビヲサトサマク、カレツクレルフルコトノカケハシトイフフミゾ、ソノタカキヨノタカキニノボラフタヅキトモナシヌ。マタヒロククサグサノフミヲアゲツロヒイタヅキナセルワザヲ、カケマクモカシコイキ、フタラノミヤノノリノミコ、キコシメシミタマノフユヲカフミリテヨリ、ソノイサヲヲタタヘズバアラザリケリ。イカナルヤトシノナヲ、テンメイトイヘルフタトセヤヨヒハツカアマリミカ、ヨハヒムソヂトイフニ、ヨミヂニサリヌ。ココニヲヂニシタガヘルトモダチ、ハカリテコノムサシノクニトシマナルアガタニアサヂガハラトナヲヲハサエシトコロヲ、ユカリトシテ、カキステニタルフミラウタラヲ、ウヅミ、ヤガテココヲチブノツカトイハム。アハレコノイシト、ヨニチアキイホアキモ、アサヂフノチフノヲヂカナノクチズテ、イニシヘコノメルヒトノシヌビニナモ、セムトチカノマツネシルシヌ。ミナモトノイロコカケリ。】 古学,国書,和歌,国史,神人,本居,大事典,名家 史資料 享保(1716-1736) 元文(1736-1741) 寛保(1741-1744) 延享(1744-1748) 寛延(1748-1751) 宝暦(1751-1764) 明和(1764-1772) 安永(1772-1781) 天明(1781-1789)

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