賀茂真淵

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル賀茂真淵
+ヨミガナ / NAME / 性別カモノ マブチ / KAMONO MABUCHI / 男
+小見出し田安家和学御用
+別名
+別称〔姓〕岡部・梅谷・賀茂県主 【和】
〔称〕庄助・参四・三四・驂四・三枝・三之・与一・衛士 【和】
〔名〕政躬・政藤・政成・春栖・淵満 【和】
〔号〕県居・淞城・茂陵・維陽 【和】県満(県丸) 【書】
[法号]玄珠院真淵義竜居士 【国1】梵行院浄阿光順居士 【書】
+生年月日元禄10年<1697>3月4日 【国続】
+没年月日明和6年<1769>10月30日 【国1】
+享年73歳 【国1】
+生国・住国
+生国・住国(現在地名)
+生国遠江国敷智郡岡部 【国1】
+生国(現在地名)静岡県
+住国江戸 【国1】
+住国(現在地名)東京都
+墓地名武蔵国荏原郡品川東海寺 【国1】浜松教興寺 【書】
+墓地現在地
+学統荷田春満・杉浦国頭・森暉昌・柳瀬方塾 【和】
+典拠国伝1,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.2819
+解説目次
+解説■履歴
 元禄10年(1697)3月4日、遠江国敷智郡伊場村(現、浜松市中区東伊場)に岡部政信の三男として生れる。享保8年(1723)岡部政長の養子となり、その娘と結婚するも翌年に死別する。享保10年(1725)に浜松で本陣を営む梅谷方良の娘と結婚して養子となり、長男の真滋をもうけた。享保18年(1733)に上京し、荷田春満から直接教えを受けた(一説には享保12年(1728)以降、時折上京して春満に学んだとされる)。元文元年(1736)に春満が歿すると翌年には江戸へ出、荷田信名や荷田在満の許に身を寄せながら学問に励んだ。寛保2年(1742)、加藤枝直(千蔭の父、町奉行与力)に敷地を借りて家を構え、延享3年(1746)、田安宗武に和学を以て仕えることとなる。宝暦元年(1751)7月、宗武より十人扶持を賜い、翌年7月、十五人扶持を賜う。同10年(1760)隠居。宝暦13年(1762)5月、大和を旅した途上、伊勢を訪れ、松坂にて本居宣長に面会した(いわゆる「松坂の一夜」)。明和元年(1764)、7月、浜町に家作を田舎風にしつらえた「県居」を構える。明和6年(1769)10月晦日に歿し、品川東海寺少林院の後山に葬られた。同地には友人の漢学者、服部南郭も葬られている。

■学問動向
 幼時には荷田春満の姪である真崎に手習いを受け、長じては真崎の夫で春満門人の杉浦国頭や森暉昌に教えを受ける。享保7(1722)年、江戸下向の途中、浜松に逗留した春満に会い、歌会に参加。享保18年に上京して春満に入門。春満の死去に伴って江戸へ出て活動する。真淵の顕著な学問的活動が見られるのは、江戸出府以降である。
 真淵の学問・思想の概要は『語意考』、『文意考』、『歌意考』、『国意考』、『書意考』のいわゆる「五意考」によって知ることができる。このうち、『国意考』は「五意考」の中心的著述であり、真淵の理想とした「おのづからの道」としての古道について説かれている。特に儒教についての批判は痛烈であり、近世思想史における画期とも位置づけられる。
真淵の学問の中心は『万葉集』や祝詞、記紀であり、とりわけ『万葉集』を重視した。『万葉集』については、田安家出仕直後に執筆した『万葉解』や、晩年の注釈である『万葉考』があり、本居宣長との質疑の記録である『万葉集問目』も知られている。また、『万葉集』や記紀から320余の枕詞を抜き出して解説を加えた『冠辞考』は、宣長をはじめ後世の研究に大きな影響を与えた。祝詞については田安宗武の命によって著され、真淵の古典注釈のうちでは最も早い『延喜式祝詞解』や、最晩年の著作である『祝詞考』がある。このほか、『伊勢物語古意』『源氏物語新釈』など中古文学に関わる注釈もある。また、和歌及び和文の実作も巧みであり、近世中期以降の擬古文の隆盛に貢献するところは大きい。
 これらの著書のほか、真淵の学問に就いて考える際にふれておかねばならないのは、「国歌八論」論争である。これは寛保2年(1742)年8月、荷田在満は田安宗武の求めに応じて『国歌八論』を献進し、対して宗武は『国歌八論余言』を著して真淵に意見を求めた。真淵は『国歌八論余言拾遺』を著し、後に『国歌八論臆説』を著している。この論争を機縁として真淵は宗武に仕えることとなるのである。
 真淵の門流は「県門」と呼ばれ、一派を成した。真淵には教育者としても優れており、多くの門人を育成している。そのうち、加藤千蔭、村田春海、楫取魚彦、加藤宇万伎の県門四天王、油谷倭文子、鵜殿余野子、土岐筑波子の県門三才女、本居宣長、荒木田久老、千蔭、春海、宇万伎、魚彦、村田春郷、栗田土満、小野古道、橘常樹、日下部高豊、三島自寛の県門の十二大家などが知られている。このほか、内山真竜、斎藤信幸、建部綾足、平賀源内、塙保己一などもその門下として知られる。
+特記事項
+参考文献
+史資料〔賀茂翁家伝〕
享保十八年、京にのぼりて、荷田東麻呂宿禰の門にいり、中国の古事の学に秀で、かうばしき名、古今におほひ、天の下のものまなぶ輩、その風をしたはざるはなし。歌をばことに心高くもてつけて、ものせられたれば、ひとうたよみ出でたまへるにも、ふかくかうがへ、あまたたびあぢはへて、作り出でられしなり。

〔初山ぶみ〕
古学とは、すべて後世の説にかゝはらず、何事も、古書によりて、その本を考へ、上代の事を、つまびらかに明らむる学問なり。此学問、ちかき世に始まれり。契沖ほうし、歌書に限りてはあれど、此道すぢを開きそめたり。此人をぞ、此まなびのはじめの祖ともいひつべき。次にいささかおくれて羽倉ノ大人、荷田ノ東麻呂ノ宿禰と申しゝは、歌書のみならず、すべての古書にわたりて、此こゝろばへを立て給へりき。かくてわが師あがたゐの大人、この羽倉ノ大人の教をつぎ給ひ、東国に下り江戸に在て、さかりに此学を唱へ給へるによりぞ、世にはあまねくひろまりにける。大かた奈良朝よりして、あなたの古への、もろもろの事のさまを、こまかに精しく考へしりて、手にもとるばかりになりぬるは、もはら此大人の、此古学のをしへの功にぞ有ける。

〔真淵翁家伝〕
そもそも古学は、難波の契沖法師、荷田東麻呂宿禰などが、魁せしにおこれりといへども、大人出でたまひてより、もはら天の下には、みさかりになんふるひたる大人の業を受けし徒、三百人にあまれるが中に、藤原宇万枝、村田春郷、楫取魚彦、橘千蔭、錦織翁、本居宣長、荒木田久老など、その名世にとゞろけり。村田春道、橘枝直などは、心へだてなき友になんありける。

〔玉だすき 九〕
篤胤按ずるに、万葉集は、万葉の歌を釈れし物には論無けれど、深く思ふに、大人の学問は、万葉をむねと読み味へて、古意を得られたるに依て、右のごと太き心の、動くまじく成り給へるなるが、其大考はもし、しか学び得て、既にわが物となれば、大倭心の思ふまにまに、言ひ連ねられし物なれば、本文なる歌の解は、却りては、此大考の条々の、引証に釈れし如くなも有ける。達人の学は、多く然る物にし有るを、今の古学者など、然る謂をば、つゆも得知らでぞ有ける。

〔同上〕
さて、享保十八年に京に上りて、荷田の翁の教子となり給ふ。こは三十七歳になり給へる時なり。然るに元文元年七月に、荷田の翁、身退られたり。(享保十八年より、元文元年まで、其間四とせなり。)

〔消息文変遷〕故橘千蔭蔵賀茂真淵筆
先月の芳示、且続紀の宣命一冊到来、禰多福被成御勤欽喜仕候。小子無事消日月候。
一、右宣命の御考、巨細の事共多くて、大悦の御事也。傍訓誤字の御考も宜候間、所念の事は、本文に傍書いたし申候。不日に皆調候て後返上可致候。あなゝひ、うむかし、などの類は、己も定説無之候。強たる考をなすのみ、又別の御疑問如何、傍書いたし候。但比来別て繁多、初夜の中、燈下に書し所も多く、老眼文字不明も有之候。御推察被御候。且僻意多可有之候。御考も候はゞ、重て再論可被成候。改候て是非を可申入候。
一、古事記下巻、神楽歌御落手、御悦候由珍重也。神楽歌の類は、最前も申入候ごとく、伶人の家には有之べけれど、必他へ不出て難得もの也。御秘にて御他見被成まじく候。
右御返の上、次をも可遺申候。去々度、神楽の注を出候所、思ひの外むつかしく、退屈いたし候へば、箱に納、他日見改候はんと存候を、いづこに置候ひしや、見えかね候。紛失候はゞ残念也。
一、古言梯に漏候かな多候。此人多年の撰にて先出来候。余りに繁多故、思ひ落せしもの也。仍て追稿を出し可申心得に候へ共、容易には出来候まじく候。猶又、御見当候非事等有之候はゞ御糺し頼入候。小子述作には無之候へども、門下の非説は、同じく小子が愧に候へば也。川等のかな、拙子もいまだ心得ざるに、いかに思ひしにか、わゐ云々の音として、今まで書候を、此度の御考により候はん也。後世といへど、一条三条の代までは、間、古意も残候事も有之故已ことを得ぬ時は、暫従て後を待べき事也。をりはへをぐいとほしは、先年より論定おきしを、いかでもらせしにや、さる事多かるべし。
一、アイウエヲ或一伝のまゝに、ゑのかなを書しを、万葉に得をウのかなにせし所、三所ばかり見出しつ。得の音をばトのかなにせれば、ムはエの言の転と見ゆれば、アイウエヲか、ワヰウエオの二つの内、一はエなるべし。悉曇家に用るにアイウエヲなれば、今是に仍て改むべし。己若時あしき人に習候事心に残り、三四十年、漸々に改候へども、猶かゝる事有之候也。古言梯にも、その事改よといひしを、魚彦、先月上旬、京都へ上それより摂津へ下、大和一覧、伊勢参宮の主意也。依之よくも改あふせざるべし。伊勢へ参候はゞ、貴所を御尋所申と申候。左候はゞ御心安御物語可被成候。才は乏候へども、多年故、少は心得し事も有之、仮字をば労候へばよく覚候も多也。御当地、拙の門人弟子ども、近年多死去いたし、漸古言梯の序を書たる宇万伎、尾張黒生といふのみ、今御当地にては有之候。惣て門弟に不仕合にて、去年才学宜人、二人まで死別いたし、老後力落し申候。随分と入御情、此学落成候様に可被成候。儒学いたすもの多かれど、皆先人の蹤を追候て、成功の人無之候。いまは皇朝の学のみ、漸ひらけかゝり候へば、此上天下に唱べきは是也。
一、 小子皇朝の本意を、長歌か、文に書て可進事、致承知、しかしながら、甚さし当候事ども多かれば、急事にはかなひがたし。されど心かけ候はん。
一、 我朝の言、古歌に残り、古事記その書ながら、歌は句調の限り有りて、助辞の略あり。紀も漢字に書しかば全からず。たゞ祝詞宣命に、助辞は見ゆてふ事、己いまだいはざる事にて、甚感服いたし候。此宣命考出来候はゞ、序に書れ候へ。且宣命等を先訖候て、後、古事記の考を可被問との事、是則既にいひし、万葉より入、歌文を得て後に、記の考をなすべき拙が本意也。天下の人、大を好て大を得たる人なし。故に己は、小を尽て大に入べく、人代を尽て神代をうかがうべく思ひて、今迄勤たり。其の小を尽し、人代を尽さんとするに、先師、はやく物故、同門に無人、羽倉在満は才子ながら、令律官位等から半分の事のみ好候へば、相談に不合、只孤独にして、かくまでも成しかば、今老極慥事、皆失、遠方に成候て遺恨也。併かの宇万伎黒生などは、御同齢ほどに候へば、向来被仰合て、此事落成可被成候。但令義解、職原抄、古装束器物等の事も、一往心得ざれば不足に候。此事も末には何とぞ書入候本にても伝へ可申也。是はむづかしかれど、物の方なれば得やすし。只皇朝の有様の意こそ得がたけれ。猶可申述候へども、余繁文多事故遺候也。
    五月九日                          まぶち
        宣長兄
是も臥学燈下の状、御推察可被下候。万葉集一清書判料を書かゝり候て、さてさて労候也。

〔玉襷 九〕
是につきて、己れまたかの清風に聞きたる事あり。然るは此のをとこ或とき、大人の云ひつけ給ふことありて、其御前にありけるに、御教子なりし、河津長夫と云ひし人、大人に何くれと物問ひてありしついでに、大人は、上ツ代の道の学問こそ、専とある学びなれど、諭し給ふに、其方の学問する人とては有ることなく、歌のみ詠みならひ待るを、大人の制し給はぬは、いかなる故にか。と申せるに、大人の答へて、歌よむことは、我本意にはあらねど、教子どものみな歌よみとなることは、譬へば父母のいと愛く思ふ女に、何くれと手わざども、恥かしからず習はせて、年比になりなば、高く宜はしき夫をえらびて、嫁はせむと思ひ設けて在るに、其女、とし頃になりて、父母の思ふとは異に、さる高き人は物むづかしとて、拙く卑しき男にちぎりて、親の心に違ふを、然すがに捨もやられず、許し嫁はせたらむが如く、上ツ代の道の尊きを嫌ひて、卑き歌作りとなる人、多きを何とせむ。若き徒の中には、歌よみつゝ、遂にまことの学問に至る人の、出来もやせむと、さてある也と。苦笑ひして宣ふに、長夫ぬしも、歎息せられ侍りきと語れり。是また然も有べう思ふ由あり。其は家集に、河津長夫は、すめら御国の書のまなびを、我が道びきつるに、元より、からの書をもよく読みつれば、いと才、異にして、古にかへる心ざし深かりつるを、煩ひて十月十七日に、身まかりぬ。と言遺したるを聞くに、いと口をし。其後とむらひ言ひつかはす序に、美樹が許へ「我が道も、さそはむ人を、ぬば玉の、よみに送りて、惑ふころかな。となむ。また長夫が今はの時に、「ますらをは、空しくなりて、父母の、なげきをのみや、世に残さまし。と云ひて、未だ我は志、遂げざるを継ぎて、名をも著はしてよなど、美樹にいひ置きしとぞ。此歌は憶良の大夫の「ますらをや、空しかるべき、万世に、かたり継ぐべき、名はたゝずして。と云ふを思ふなるべし。いとあはれにこそ。また菊を贈るとて「白菊は、冬だにかくて、有る物を、まだききえにし、露のかなしさ。「外ながら、外ならずしも、悲しきに、うらのうちこそ、思ひやらるれ。とあるも思ひ合さるればなむ。
+史資料〈著作〉
+史資料〈碑文〉
+史資料〈その他〉
+辞書類古学,国書,神大,和歌,国史,神人,神事,神史,本居,大事典,名家
+和学者カード
-40350 国学関連人物データベース 36 1 CKP000010 賀茂真淵 KAMONO MABUCHI  元禄10年(1697)3月4日、遠江国敷智郡伊場村(現、浜松市中区東伊場)に岡部政信の三男として生れる。享保8年(1723)岡部政長の養子となり、その娘と結婚するも翌年に死別する。享保10年(1725)に浜松で本陣を営む梅谷方良の娘と結婚して養子となり、長男の真滋をもうけた。享保18年(1733)に上京し、荷田春満から直接教えを受けた(一説には享保12年(1728)以降、時折上京して春満に学んだとされる)。元文元年(1736)に春満が歿すると翌年には江戸へ出、荷田信名や荷田在満の許に身を寄せながら学問に励んだ。寛保2年(1742)、加藤枝直(千蔭の父、町奉行与力)に敷地を借りて家を構え、延享3年(1746)、田安宗武に和学を以て仕えることとなる。宝暦元年(1751)7月、宗武より十人扶持を賜い、翌年7月、十五人扶持を賜う。同10年(1760)隠居。宝暦13年(1762)5月、大和を旅した途上、伊勢を訪れ、松坂にて本居宣長に面会した(いわゆる「松坂の一夜」)。明和元年(1764)、7月、浜町に家作を田舎風にしつらえた「県居」を構える。明和6年(1769)10月晦日に歿し、品川東海寺少林院の後山に葬られた。同地には友人の漢学者、服部南郭も葬られている。

■学問動向
 幼時には荷田春満の姪である真崎に手習いを受け、長じては真崎の夫で春満門人の杉浦国頭や森暉昌に教えを受ける。享保7(1722)年、江戸下向の途中、浜松に逗留した春満に会い、歌会に参加。享保18年に上京して春満に入門。春満の死去に伴って江戸へ出て活動する。真淵の顕著な学問的活動が見られるのは、江戸出府以降である。
 真淵の学問・思想の概要は『語意考』、『文意考』、『歌意考』、『国意考』、『書意考』のいわゆる「五意考」によって知ることができる。このうち、『国意考』は「五意考」の中心的著述であり、真淵の理想とした「おのづからの道」としての古道について説かれている。特に儒教についての批判は痛烈であり、近世思想史における画期とも位置づけられる。
真淵の学問の中心は『万葉集』や祝詞、記紀であり、とりわけ『万葉集』を重視した。『万葉集』については、田安家出仕直後に執筆した『万葉解』や、晩年の注釈である『万葉考』があり、本居宣長との質疑の記録である『万葉集問目』も知られている。また、『万葉集』や記紀から320余の枕詞を抜き出して解説を加えた『冠辞考』は、宣長をはじめ後世の研究に大きな影響を与えた。祝詞については田安宗武の命によって著され、真淵の古典注釈のうちでは最も早い『延喜式祝詞解』や、最晩年の著作である『祝詞考』がある。このほか、『伊勢物語古意』『源氏物語新釈』など中古文学に関わる注釈もある。また、和歌及び和文の実作も巧みであり、近世中期以降の擬古文の隆盛に貢献するところは大きい。
 これらの著書のほか、真淵の学問に就いて考える際にふれておかねばならないのは、「国歌八論」論争である。これは寛保2年(1742)年8月、荷田在満は田安宗武の求めに応じて『国歌八論』を献進し、対して宗武は『国歌八論余言』を著して真淵に意見を求めた。真淵は『国歌八論余言拾遺』を著し、後に『国歌八論臆説』を著している。この論争を機縁として真淵は宗武に仕えることとなるのである。

■門人
 真淵の門流は「県門」と呼ばれ、一派を成した。真淵には教育者としても優れており、多くの門人を育成している。そのうち、加藤千蔭、村田春海、楫取魚彦、加藤宇万伎の県門四天王、油谷倭文子、鵜殿余野子、土岐筑波子の県門三才女、本居宣長、荒木田久老、千蔭、春海、宇万伎、魚彦、村田春郷、栗田土満、小野古道、橘常樹、日下部高豊、三島自寛の県門の十二大家などが知られている。このほか、内山真竜、斎藤信幸、建部綾足、平賀源内、塙保己一などもその門下として知られる。 賀茂真淵 KAMONO MABUCHI , 2819 小伝 国伝 全 35941 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 田安家和学御用 男 カモノ マブチ / KAMONO MABUCHI / 男 ■履歴
 元禄10年(1697)3月4日、遠江国敷智郡伊場村(現、浜松市中区東伊場)に岡部政信の三男として生れる。享保8年(1723)岡部政長の養子となり、その娘と結婚するも翌年に死別する。享保10年(1725)に浜松で本陣を営む梅谷方良の娘と結婚して養子となり、長男の真滋をもうけた。享保18年(1733)に上京し、荷田春満から直接教えを受けた(一説には享保12年(1728)以降、時折上京して春満に学んだとされる)。元文元年(1736)に春満が歿すると翌年には江戸へ出、荷田信名や荷田在満の許に身を寄せながら学問に励んだ。寛保2年(1742)、加藤枝直(千蔭の父、町奉行与力)に敷地を借りて家を構え、延享3年(1746)、田安宗武に和学を以て仕えることとなる。宝暦元年(1751)7月、宗武より十人扶持を賜い、翌年7月、十五人扶持を賜う。同10年(1760)隠居。宝暦13年(1762)5月、大和を旅した途上、伊勢を訪れ、松坂にて本居宣長に面会した(いわゆる「松坂の一夜」)。明和元年(1764)、7月、浜町に家作を田舎風にしつらえた「県居」を構える。明和6年(1769)10月晦日に歿し、品川東海寺少林院の後山に葬られた。同地には友人の漢学者、服部南郭も葬られている。

■学問動向
 幼時には荷田春満の姪である真崎に手習いを受け、長じては真崎の夫で春満門人の杉浦国頭や森暉昌に教えを受ける。享保7(1722)年、江戸下向の途中、浜松に逗留した春満に会い、歌会に参加。享保18年に上京して春満に入門。春満の死去に伴って江戸へ出て活動する。真淵の顕著な学問的活動が見られるのは、江戸出府以降である。
 真淵の学問・思想の概要は『語意考』、『文意考』、『歌意考』、『国意考』、『書意考』のいわゆる「五意考」によって知ることができる。このうち、『国意考』は「五意考」の中心的著述であり、真淵の理想とした「おのづからの道」としての古道について説かれている。特に儒教についての批判は痛烈であり、近世思想史における画期とも位置づけられる。
真淵の学問の中心は『万葉集』や祝詞、記紀であり、とりわけ『万葉集』を重視した。『万葉集』については、田安家出仕直後に執筆した『万葉解』や、晩年の注釈である『万葉考』があり、本居宣長との質疑の記録である『万葉集問目』も知られている。また、『万葉集』や記紀から320余の枕詞を抜き出して解説を加えた『冠辞考』は、宣長をはじめ後世の研究に大きな影響を与えた。祝詞については田安宗武の命によって著され、真淵の古典注釈のうちでは最も早い『延喜式祝詞解』や、最晩年の著作である『祝詞考』がある。このほか、『伊勢物語古意』『源氏物語新釈』など中古文学に関わる注釈もある。また、和歌及び和文の実作も巧みであり、近世中期以降の擬古文の隆盛に貢献するところは大きい。
 これらの著書のほか、真淵の学問に就いて考える際にふれておかねばならないのは、「国歌八論」論争である。これは寛保2年(1742)年8月、荷田在満は田安宗武の求めに応じて『国歌八論』を献進し、対して宗武は『国歌八論余言』を著して真淵に意見を求めた。真淵は『国歌八論余言拾遺』を著し、後に『国歌八論臆説』を著している。この論争を機縁として真淵は宗武に仕えることとなるのである。
 真淵の門流は「県門」と呼ばれ、一派を成した。真淵には教育者としても優れており、多くの門人を育成している。そのうち、加藤千蔭、村田春海、楫取魚彦、加藤宇万伎の県門四天王、油谷倭文子、鵜殿余野子、土岐筑波子の県門三才女、本居宣長、荒木田久老、千蔭、春海、宇万伎、魚彦、村田春郷、栗田土満、小野古道、橘常樹、日下部高豊、三島自寛の県門の十二大家などが知られている。このほか、内山真竜、斎藤信幸、建部綾足、平賀源内、塙保己一などもその門下として知られる。 かもの まぶち,岡部,梅谷,賀茂県主,参四,サウシ,衛士,庄助,驂四,三枝,三之,与一,政藤,政躬,政成,春栖,淵満,県居,玄珠院真淵義竜居士,淞城,茂陵,維陽,県丸,梵行院浄阿光順居士 カモノ マブチ 〔姓〕賀茂 【国1】・岡部・梅谷・賀茂県主 【和】 〔称〕庄助・参四(サウシ)・衛士 【国1】三四・驂四・三枝・三之・与一 【和】 〔名〕政藤 【国1】・政躬・政成・春栖・淵満 【和】 〔号〕県居 【国1】・[法]玄珠院真淵義竜居士○・淞城・茂陵・維陽 【和】・県丸 [法]玄珠院真淵義龍居士 【国1】・梵行院浄阿光順居士 〔姓〕岡部・梅谷・賀茂県主 【和】
〔称〕庄助・参四・三四・驂四・三枝・三之・与一・衛士 【和】
〔名〕政躬・政藤・政成・春栖・淵満 【和】
〔号〕県居・淞城・茂陵・維陽 【和】県満(県丸) 【書】
[法号]玄珠院真淵義竜居士 【国1】梵行院浄阿光順居士 【書】 43894 元禄10年<1697>3月4日 【国続】 10月30日 【国2】 明和6年<1769>10月30日 【国1】 73歳 【国1】 1697 - 1769 遠江国 武蔵国 遠江国敷智郡岡部 【国1】 静岡県 東京都 遠江国敷智郡岡部 【国1】 静岡県 江戸 【国1】 東京都 武蔵国荏原郡品川東海寺 【国1】浜松教興寺 【書】 荷田春満・杉浦国頭・森暉昌・柳瀬方塾 【和】 荷田春満・杉浦国頭・森暉昌・柳瀬方塾 【和】 国伝1,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.2819 〔賀茂翁家伝〕
享保十八年、京にのぼりて、荷田東麻呂宿禰の門にいり、中国の古事の学に秀で、かうばしき名、古今におほひ、天の下のものまなぶ輩、その風をしたはざるはなし。歌をばことに心高くもてつけて、ものせられたれば、ひとうたよみ出でたまへるにも、ふかくかうがへ、あまたたびあぢはへて、作り出でられしなり。

〔初山ぶみ〕
古学とは、すべて後世の説にかゝはらず、何事も、古書によりて、その本を考へ、上代の事を、つまびらかに明らむる学問なり。此学問、ちかき世に始まれり。契沖ほうし、歌書に限りてはあれど、此道すぢを開きそめたり。此人をぞ、此まなびのはじめの祖ともいひつべき。次にいささかおくれて羽倉ノ大人、荷田ノ東麻呂ノ宿禰と申しゝは、歌書のみならず、すべての古書にわたりて、此こゝろばへを立て給へりき。かくてわが師あがたゐの大人、この羽倉ノ大人の教をつぎ給ひ、東国に下り江戸に在て、さかりに此学を唱へ給へるによりぞ、世にはあまねくひろまりにける。大かた奈良朝よりして、あなたの古への、もろもろの事のさまを、こまかに精しく考へしりて、手にもとるばかりになりぬるは、もはら此大人の、此古学のをしへの功にぞ有ける。

〔真淵翁家伝〕
そもそも古学は、難波の契沖法師、荷田東麻呂宿禰などが、魁せしにおこれりといへども、大人出でたまひてより、もはら天の下には、みさかりになんふるひたる大人の業を受けし徒、三百人にあまれるが中に、藤原宇万枝、村田春郷、楫取魚彦、橘千蔭、錦織翁、本居宣長、荒木田久老など、その名世にとゞろけり。村田春道、橘枝直などは、心へだてなき友になんありける。

〔玉だすき 九〕
篤胤按ずるに、万葉集は、万葉の歌を釈れし物には論無けれど、深く思ふに、大人の学問は、万葉をむねと読み味へて、古意を得られたるに依て、右のごと太き心の、動くまじく成り給へるなるが、其大考はもし、しか学び得て、既にわが物となれば、大倭心の思ふまにまに、言ひ連ねられし物なれば、本文なる歌の解は、却りては、此大考の条々の、引証に釈れし如くなも有ける。達人の学は、多く然る物にし有るを、今の古学者など、然る謂をば、つゆも得知らでぞ有ける。

〔同上〕
さて、享保十八年に京に上りて、荷田の翁の教子となり給ふ。こは三十七歳になり給へる時なり。然るに元文元年七月に、荷田の翁、身退られたり。(享保十八年より、元文元年まで、其間四とせなり。)

〔消息文変遷〕故橘千蔭蔵賀茂真淵筆
先月の芳示、且続紀の宣命一冊到来、禰多福被成御勤欽喜仕候。小子無事消日月候。
一、右宣命の御考、巨細の事共多くて、大悦の御事也。傍訓誤字の御考も宜候間、所念の事は、本文に傍書いたし申候。不日に皆調候て後返上可致候。あなゝひ、うむかし、などの類は、己も定説無之候。強たる考をなすのみ、又別の御疑問如何、傍書いたし候。但比来別て繁多、初夜の中、燈下に書し所も多く、老眼文字不明も有之候。御推察被御候。且僻意多可有之候。御考も候はゞ、重て再論可被成候。改候て是非を可申入候。
一、古事記下巻、神楽歌御落手、御悦候由珍重也。神楽歌の類は、最前も申入候ごとく、伶人の家には有之べけれど、必他へ不出て難得もの也。御秘にて御他見被成まじく候。
右御返の上、次をも可遺申候。去々度、神楽の注を出候所、思ひの外むつかしく、退屈いたし候へば、箱に納、他日見改候はんと存候を、いづこに置候ひしや、見えかね候。紛失候はゞ残念也。
一、古言梯に漏候かな多候。此人多年の撰にて先出来候。余りに繁多故、思ひ落せしもの也。仍て追稿を出し可申心得に候へ共、容易には出来候まじく候。猶又、御見当候非事等有之候はゞ御糺し頼入候。小子述作には無之候へども、門下の非説は、同じく小子が愧に候へば也。川等のかな、拙子もいまだ心得ざるに、いかに思ひしにか、わゐ云々の音として、今まで書候を、此度の御考により候はん也。後世といへど、一条三条の代までは、間、古意も残候事も有之故已ことを得ぬ時は、暫従て後を待べき事也。をりはへをぐいとほしは、先年より論定おきしを、いかでもらせしにや、さる事多かるべし。
一、アイウエヲ或一伝のまゝに、ゑのかなを書しを、万葉に得をウのかなにせし所、三所ばかり見出しつ。得の音をばトのかなにせれば、ムはエの言の転と見ゆれば、アイウエヲか、ワヰウエオの二つの内、一はエなるべし。悉曇家に用るにアイウエヲなれば、今是に仍て改むべし。己若時あしき人に習候事心に残り、三四十年、漸々に改候へども、猶かゝる事有之候也。古言梯にも、その事改よといひしを、魚彦、先月上旬、京都へ上それより摂津へ下、大和一覧、伊勢参宮の主意也。依之よくも改あふせざるべし。伊勢へ参候はゞ、貴所を御尋所申と申候。左候はゞ御心安御物語可被成候。才は乏候へども、多年故、少は心得し事も有之、仮字をば労候へばよく覚候も多也。御当地、拙の門人弟子ども、近年多死去いたし、漸古言梯の序を書たる宇万伎、尾張黒生といふのみ、今御当地にては有之候。惣て門弟に不仕合にて、去年才学宜人、二人まで死別いたし、老後力落し申候。随分と入御情、此学落成候様に可被成候。儒学いたすもの多かれど、皆先人の蹤を追候て、成功の人無之候。いまは皇朝の学のみ、漸ひらけかゝり候へば、此上天下に唱べきは是也。
一、 小子皇朝の本意を、長歌か、文に書て可進事、致承知、しかしながら、甚さし当候事ども多かれば、急事にはかなひがたし。されど心かけ候はん。
一、 我朝の言、古歌に残り、古事記その書ながら、歌は句調の限り有りて、助辞の略あり。紀も漢字に書しかば全からず。たゞ祝詞宣命に、助辞は見ゆてふ事、己いまだいはざる事にて、甚感服いたし候。此宣命考出来候はゞ、序に書れ候へ。且宣命等を先訖候て、後、古事記の考を可被問との事、是則既にいひし、万葉より入、歌文を得て後に、記の考をなすべき拙が本意也。天下の人、大を好て大を得たる人なし。故に己は、小を尽て大に入べく、人代を尽て神代をうかがうべく思ひて、今迄勤たり。其の小を尽し、人代を尽さんとするに、先師、はやく物故、同門に無人、羽倉在満は才子ながら、令律官位等から半分の事のみ好候へば、相談に不合、只孤独にして、かくまでも成しかば、今老極慥事、皆失、遠方に成候て遺恨也。併かの宇万伎黒生などは、御同齢ほどに候へば、向来被仰合て、此事落成可被成候。但令義解、職原抄、古装束器物等の事も、一往心得ざれば不足に候。此事も末には何とぞ書入候本にても伝へ可申也。是はむづかしかれど、物の方なれば得やすし。只皇朝の有様の意こそ得がたけれ。猶可申述候へども、余繁文多事故遺候也。
    五月九日                          まぶち
        宣長兄
是も臥学燈下の状、御推察可被下候。万葉集一清書判料を書かゝり候て、さてさて労候也。

〔玉襷 九〕
是につきて、己れまたかの清風に聞きたる事あり。然るは此のをとこ或とき、大人の云ひつけ給ふことありて、其御前にありけるに、御教子なりし、河津長夫と云ひし人、大人に何くれと物問ひてありしついでに、大人は、上ツ代の道の学問こそ、専とある学びなれど、諭し給ふに、其方の学問する人とては有ることなく、歌のみ詠みならひ待るを、大人の制し給はぬは、いかなる故にか。と申せるに、大人の答へて、歌よむことは、我本意にはあらねど、教子どものみな歌よみとなることは、譬へば父母のいと愛く思ふ女に、何くれと手わざども、恥かしからず習はせて、年比になりなば、高く宜はしき夫をえらびて、嫁はせむと思ひ設けて在るに、其女、とし頃になりて、父母の思ふとは異に、さる高き人は物むづかしとて、拙く卑しき男にちぎりて、親の心に違ふを、然すがに捨もやられず、許し嫁はせたらむが如く、上ツ代の道の尊きを嫌ひて、卑き歌作りとなる人、多きを何とせむ。若き徒の中には、歌よみつゝ、遂にまことの学問に至る人の、出来もやせむと、さてある也と。苦笑ひして宣ふに、長夫ぬしも、歎息せられ侍りきと語れり。是また然も有べう思ふ由あり。其は家集に、河津長夫は、すめら御国の書のまなびを、我が道びきつるに、元より、からの書をもよく読みつれば、いと才、異にして、古にかへる心ざし深かりつるを、煩ひて十月十七日に、身まかりぬ。と言遺したるを聞くに、いと口をし。其後とむらひ言ひつかはす序に、美樹が許へ「我が道も、さそはむ人を、ぬば玉の、よみに送りて、惑ふころかな。となむ。また長夫が今はの時に、「ますらをは、空しくなりて、父母の、なげきをのみや、世に残さまし。と云ひて、未だ我は志、遂げざるを継ぎて、名をも著はしてよなど、美樹にいひ置きしとぞ。此歌は憶良の大夫の「ますらをや、空しかるべき、万世に、かたり継ぐべき、名はたゝずして。と云ふを思ふなるべし。いとあはれにこそ。また菊を贈るとて「白菊は、冬だにかくて、有る物を、まだききえにし、露のかなしさ。「外ながら、外ならずしも、悲しきに、うらのうちこそ、思ひやらるれ。とあるも思ひ合さるればなむ。 古学,国書,神大,和歌,国史,神人,神事,神史,本居,大事典,名家 史資料・解説 元禄(1688-1704) 宝永(1704-1711) 正徳(1711-1716) 享保(1716-1736) 元文(1736-1741) 寛保(1741-1744) 延享(1744-1748) 寛延(1748-1751) 宝暦(1751-1764) 明和(1764-1772)

PageTop