荷田 蒼生子
分野分類 CB | 宗教学・神道学 |
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文化財分類 CB | 学術データベース |
資料形式 CB | テキストデータベース |
大分類 | 国学関連人物データベース |
タイトル | 荷田 蒼生子 |
+ヨミガナ / NAME / 性別 | カダ タミコ / KADA TAMIKO / 女 |
+小見出し | 荷田春満姪・荷田在満妹、紀伊候女公子に仕 |
+別称 | 〔姓〕荷田 【国1】蚊田 【和】 〔名〕楓里・民子 【和】逸・ふり・於民 【書】 [法号]蒼生院芳林貞逸大姉 【書】 |
+生年月日 | 享保7年<1722> 【国1】 |
+没年月日 | 天明6年<1785>2月2日 【国1】 |
+享年 | 65歳 【国1】 |
+生国・住国(現在地名) | 京都 |
+生国 | 京都稲荷 【国1】 |
+住国 | 江戸浅草 【国1】 |
+墓地名 | 浅草高原町七番地金龍寺内 【国1】 |
+学統 | 荷田春満 |
+典拠 | 国伝1,国書人名辞典,和学者総覧.2790 |
+解説 | ■履歴 荷田春満の姪。春満の弟・羽倉高惟の子として生まれ、のちに春満の養女となる。在満の妹。在満に従い東下し、江戸に趣く※1。享保20年(1735)、14歳のとき、在満の門人西湖学に嫁いだが、夫と早く死別してからは再び嫁ぐことはなかった※2。のちに紀州藩主の娘・公子に仕えたものの、49歳の頃に致仕して江戸浅草に閑居した※3。 ■学問動向 幼時より春満・在満のもとで研鑽し、和歌・文章を学ぶ。特に和歌に卓越し、「女先生」として知られ、その歌の名声から、紀州藩のほかに土佐・姫路・岡山の各藩などからも招かれ、藩主夫人や子女に歌文を教授した※4。とりわけ土佐藩主の山内豊雍は歌友であり、門人には菱田縫子などがいる※5。<⇒特記1>その他、『古今和歌集』の校訂等もおこなった。 〔注〕 ※1「杉のしづ枝」(増田芳江「蒼生子と御風と」『学菀』第9巻第3号、昭和17年3月)、※2「荷田信名筆在江戸府中要門之日記」(増田芳江「蒼生子と御風と」『学菀』第9巻第3号、昭和17年3月)、※3「女先生蚊田氏之墓碑」(清水浜臣「泊洦筆話」『日本随筆大成』第1期第7巻、吉川弘文館、昭和50年、224~225頁)、※4「女先生蚊田氏之墓碑」(清水浜臣「泊洦筆話」『日本随筆大成』第1期第7巻、吉川弘文館、昭和50年、224~225頁)、※5河喜多真彦『近世三十六名家略伝』(『国学者伝記集成』485頁) |
+特記事項 | <特記1>門人 門人として著名な人物に、蒼生子のあとを継ぎ、歌文をもって諸侯邸に出入りした菱田縫子がいる。自著を燃やすように遺言していたため、残った著書は多くないが、菱田が編集した蒼生子の私家集『杉のしづ枝』(加藤千蔭の序文あり。寛政7年【1795】刊)が、蒼生子の歿後刊行された。 【参考文献】 ・「荷田蒼生子」森敬三『近世女流歌人の研究』(昭和10年) ・「女先生蚊田氏之墓碑」(清水浜臣「泊洦筆話」『日本随筆大成』第1期第7巻、昭和50年、224~225頁) |
+史資料 | 〔三十六家上〕 蒼生子は荷田氏にして、春満翁の女、在満の妹なり。幼より、家兄在満に従ひて江戸に往き、某氏に嫁せしに夫、ほどなく歿するにより、兄の家に帰りて、再び夫を向へず。父兄の志を嗣ぎて、歌文章を練修し、終に其妙に至る。故を以て紀公の女、公子に仕ふ。年四十九にして到仕し、しかして浅草に住す。時に諸侯の夫人、女公子これを招きて、業を受くるもの甚多し。土佐侯、姫路侯、岡侯、など特に厚く礼す。就中、土佐侯は、刀自が浅草の庵へしばゝゞ駕を向け給ふとあり盛事とす。 |
+辞書類 | 国書, 和歌, 国史, 大事典, 名家 |
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資料ID | 40348 |