荷田 在満

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル荷田 在満
+ヨミガナ / NAME / 性別カダ アリマロ / KADA ARIMARO / 男
+小見出し荷田春満甥、同養子、田安家に仕
+別称〔姓〕羽倉 【和】
〔称〕大学・東之進・藤之進 【和】長野大学 【書】
〔字〕東進 【国1】持之 【和】
〔号〕仁良斎・三峯 【和】
+生年月日宝永3年<1706> 【国1】
+没年月日寛延4年<1751>8月4日 【書】
+享年46歳 【国1】
+生国・住国(現在地名)京都
+生国山城伏見 【国1】
+住国江戸 【国1】
+墓地名浅草高原町七番地金龍寺 【国1】
+学統荷田春満
+典拠国伝1,国書人名辞典,和学者総覧.2788
+史資料〔三十六家上〕
大に古学を唱へ、ことに、有職の学に精し。享保中妹女、蒼生子と倶に江戸に出で、頻に家学を唱ふ。時に田安悠然公、大に有職を好みたまひ、頻に寵に遇ひて、服色管見の撰にあづかる。又官より命じて、大嘗会の儀を京師に往きて録せしめ給ふ。また貞観式を校して、黄金若干を賜ふ。

〔泊洦筆話〕
一、おなじ人の国歌八論、ひとわたりいはれざるにあらず。されども、人のおもてゝゝゝの、かはりたらんやうに、心々、はたひとしからぬものなれば、其得失を評論する人多し。そのかみやむごとなき御あたりに、此書を論じ給へる、国歌八論余言出で来りてより、それに次ぎて、在満またおのれのおもへると御論のかはれるとを、論弁せし一帖あり。又県居翁の、国歌八論余言拾遺あり。後に宝暦十一年に、大管中養父といふ人の国歌八論斥非といふあり。在満の新古今を好めるを難じて、われは、古今集に香火し、貫之に尸祝せんといへり。明和五年、本居氏、その八論と、斥非との得矢を評して、くはしくいはれたるあり。又荒木田久老神主の評言もあり。本居氏とすこしたがへる事もまじれり。又後、閑田子蒿蹊の評あり。かく諸俊傑の論やまざるは、畢竟八論の余光といふべく、また八論の面目といふべし。今世かく復古の学、さかりにひらけゆけるより見れば、八論の説ども、さのみ発明の論ともおもはれねども、当時めづらしくいひ出でたる事にて、一時世の歌人の膽に砭せしなれば、其なごりたえずつたへて、かく数輩の評論をば、醸し成せるものなるべし。一、羽倉在満の律令の学にくはしきことは、世こぞりて知れり。歌文また巧なり。海上春望といふ題にて、めもはるに、かすみわたれる、海原は、あはと見るべき、遠山もなし。此歌を真字、借字をまじへて、いはゆる万葉集にして、五言絶句の詩につくられたり。其書けるさま。春日遊小田原。賦得海上眺望。 荷田在満昧曚春日霞 渡流海面波。 阿波登応見。 遠山難追慕。秀才おもひやるべし。

〔声文私言〕
荷田在満が大嘗会便蒙は、よきものなり。まづ是にてひとわたり事すみぬべし。同人の令弁、これまたよくかけり。

〔撰者小伝〕
後大嘗会弁蒙を作り、事禁忌に触るゝを以て、禁錮せらる。
+辞書類国書, 神大, 和歌, 国史, 神人, 神事, 神史, 本居, 大事典, 名家
-40347 国学関連人物データベース 36 1 CKP000007 荷田 在満 KADA ARIMARO 荷田在満 KADA ARIMARO , 2788 小伝 国伝 全 35938 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 荷田春満甥、同養子、田安家に仕 男 カダ アリマロ / KADA ARIMARO / 男 かだ ありまろ,羽倉,大学,東之進,藤之進,長野大学,東進,持之,仁良斎,三峯 カダ アリマロ 〔姓〕羽倉 【和】 〔称〕大学・東之進・藤之進 【和】長野大学 【書】 〔字〕東進 【国1】持之 【和】 〔号〕仁良斎・三峯 【和】 〔姓〕羽倉 【和】
〔称〕大学・東之進・藤之進 【和】長野大学 【書】
〔字〕東進 【国1】持之 【和】
〔号〕仁良斎・三峯 【和】 宝永3年<1706> 【国1】 8月4日 寛延4年<1751>8月4日 【書】 46歳 【国1】 1706 - 1751 山城伏見国 京都 京都 山城伏見 【国1】 江戸 【国1】 浅草高原町七番地金龍寺 【国1】 荷田春満 荷田春満 【書】 国伝1,国書人名辞典,和学者総覧.2788 〔三十六家上〕
大に古学を唱へ、ことに、有職の学に精し。享保中妹女、蒼生子と倶に江戸に出で、頻に家学を唱ふ。時に田安悠然公、大に有職を好みたまひ、頻に寵に遇ひて、服色管見の撰にあづかる。又官より命じて、大嘗会の儀を京師に往きて録せしめ給ふ。また貞観式を校して、黄金若干を賜ふ。

〔泊洦筆話〕
一、おなじ人の国歌八論、ひとわたりいはれざるにあらず。されども、人のおもてゝゝゝの、かはりたらんやうに、心々、はたひとしからぬものなれば、其得失を評論する人多し。そのかみやむごとなき御あたりに、此書を論じ給へる、国歌八論余言出で来りてより、それに次ぎて、在満またおのれのおもへると御論のかはれるとを、論弁せし一帖あり。又県居翁の、国歌八論余言拾遺あり。後に宝暦十一年に、大管中養父といふ人の国歌八論斥非といふあり。在満の新古今を好めるを難じて、われは、古今集に香火し、貫之に尸祝せんといへり。明和五年、本居氏、その八論と、斥非との得矢を評して、くはしくいはれたるあり。又荒木田久老神主の評言もあり。本居氏とすこしたがへる事もまじれり。又後、閑田子蒿蹊の評あり。かく諸俊傑の論やまざるは、畢竟八論の余光といふべく、また八論の面目といふべし。今世かく復古の学、さかりにひらけゆけるより見れば、八論の説ども、さのみ発明の論ともおもはれねども、当時めづらしくいひ出でたる事にて、一時世の歌人の膽に砭せしなれば、其なごりたえずつたへて、かく数輩の評論をば、醸し成せるものなるべし。一、羽倉在満の律令の学にくはしきことは、世こぞりて知れり。歌文また巧なり。海上春望といふ題にて、めもはるに、かすみわたれる、海原は、あはと見るべき、遠山もなし。此歌を真字、借字をまじへて、いはゆる万葉集にして、五言絶句の詩につくられたり。其書けるさま。春日遊小田原。賦得海上眺望。 荷田在満昧曚春日霞 渡流海面波。 阿波登応見。 遠山難追慕。秀才おもひやるべし。

〔声文私言〕
荷田在満が大嘗会便蒙は、よきものなり。まづ是にてひとわたり事すみぬべし。同人の令弁、これまたよくかけり。

〔撰者小伝〕
後大嘗会弁蒙を作り、事禁忌に触るゝを以て、禁錮せらる。 国書, 神大, 和歌, 国史, 神人, 神事, 神史, 本居, 大事典, 名家 大嘗会具釈, 大嘗会便蒙, 貞観儀式校, 延喜式校, 国家八論, 本朝度制略考, 家記所繋考, 装束彙, 白猿物語, 長月物語, 古今集左注論, 律疏校, 令三弁[近著 一] 羽倉考[慶著.和] 衞府雑録[編者 補] 史資料 宝永(1704-1711) 正徳(1711-1716) 享保(1716-1736) 元文(1736-1741) 寛保(1741-1744) 延享(1744-1748) 寛延(1748-1751) 宝暦(1751-1764)
資料ID40347

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