荷田 春満
分野分類 CB | 宗教学・神道学 |
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文化財分類 CB | 学術データベース |
資料形式 CB | テキストデータベース |
大分類 | 国学関連人物データベース |
タイトル | 荷田 春満 |
+ヨミガナ / NAME / 性別 | カダ アズママロ / KADA AZUMAMARO / 男 |
+小見出し | 稲荷社祠官 |
+別称 | 〔姓〕羽倉 【国1】 〔称〕斎宮 【国1】齋 【和】 〔名〕信盛・東麿 【国1】東丸・東万侶・鶴丸 【和】 〔号〕雨亭 【和】 [神号]厳興霊 【書】 |
+生年月日 | 寛文9年<1669>1月3日 【国続】 |
+没年月日 | 元文元年<1736>7月2日 【国1】 |
+享年 | 68歳 【国1】 |
+生国・住国 | 京都稲荷山 【国1】山城紀伊郡 【和】 |
+生国・住国(現在地名) | 京都 |
+墓地名 | 稲荷神社の南阿里山惣墓 【国1】京都深草蟻山 【書】 |
+学統 | 大山為起 |
+典拠 | 国伝1,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.2787 |
+解説 | ■履歴 山城国伏見稲荷社(現伏見稲荷大社)御殿預職・羽倉信詮の次男として生まれる。元禄9年(1696)、別居独立し、翌年、妙法院宮門跡に仕えるも2年後に致仕。以後はしばしば江戸へ下り、門人たちに神道・歌学を講義した。没後、伏見稲荷社に東丸神社が創建され、学問の神として崇敬されている。 ■学問動向・門人 少年時より作歌・家学の継承に励み、青年期には京都幸神社の神主で吉川惟足門下と考えられる奥村仲之の影響を受けた。妙法院宮を致仕してのちはしばしば江戸に下り、主に神職・商人らに稲荷社の神道と歌学を講義し、門人組織を形成した。享保7年(1722)、5度目の江戸下向の際には、将軍徳川吉宗の信任を得、御側衆有馬兵庫頭・御小納戸の大島雲平、御書物奉行の下田幸太夫らを介して、有職・古書の探索・校合や律令の検索などの学務に携わった。翌年6月に帰京してのちも、この交渉は継続した。門人には、甥で養子となった在満、その妹の蒼生子のほか、芝崎好尚・杉浦国頭・森暉昌・斎藤右近など神職が多い。在満は主に春満の律令・有職研究を、蒼生子は歌学を受け継いだ。また最晩年の門人に賀茂真淵がいる。のちに平田篤胤・大国隆正によって「国学の四大人」の一人として称揚されたことは有名である。 |
+特記事項 | ■文献考証 春満の学問は文献考証を旨とし、その範囲は神道・律令・国史・有職故実・歌学などに及んでいる。このうち神道は、家学の「稲荷社伝の神道」を受けたとされ、江戸に下向した際に門人たちに教授したのも、この「稲荷社伝の神道」であったと考えられる。その具体的な内容は、稲荷社と荷田氏の由緒を記した『稲荷社由緒注進状』に見られる。それは稲荷上・下・下社、および田中社・四大神社の祭神に関するものであった。春満によればそれぞれの祭神は、級長津彦命(稲荷上社)・倉稲魂命(稲荷中社)・級長戸辺命(稲荷下社)・猿田彦命(田中社)・国常立尊(四大神社)であり、これらの比定は春満の『日本書紀』神代巻解釈に大きな影響を与え、それぞれの祭神が、春満の『日本書紀』神代巻解釈のなかで重要な役割を与えられていることが知られる。 ■『日本書紀』神代巻解釈 春満の『日本書紀』神代巻解釈は、彼の学的営為を見る上で重要である。春満は『日本書紀』神代巻を特別視し、これを舎人親王によって、後世の人々に教えを伝えるために編纂された「教誡の書」という認識をもっていた。この方面の業績としては、『神代聞書』(元禄4年【1691】)、『日本書紀問答抄』(享保初期)、『神代巻荷田氏抄』(享保5年【1720】)、『日本書紀神代巻箚記』(享保16年【1730】)、『日本書紀訓釈』、『日本書紀童子問』、『神代巻疑問条々』、『東丸神代答記』などが知られているが、これらを総合してみると、次のような方法論上の特色が窺える。第1に『日本書紀』正文と一書との関係について、春満は一書を正文の補説で、信仰的な解説伝承と見なし(これには奥村仲之の神代巻解釈の影響が指摘されている)、またその配列について特別な意味を見出そうとしたことが窺われる。つまり、一書が複数ある場合、あとの一書が先の一書に勝る深意が示された伝承であるとの理解である。この考え方からすれば、最終の一書が最も重要な「決断の書」として扱われることになる。第2に神話伝承を「比喩」として見たことが挙げられる。これは春満の神道説のもつ性格を決定する上で重大な意味をもつ。春満にとって神話伝承は教えの原典であった。それが神話という形をとったのは、神道が「身に近き常行の上」(『日本書紀神代巻箚記』)に実現されるべき道であると考えていたからである。そして神話は、われわれ人間世界の経験を通じて見出すことのできる可能な原理・法則によって理解すべきである(「神人一理」)と主張した。第3に、それ以前の神道説において「神典」として扱われてきた『先代旧事本紀』を「偽書」と見なしていることが挙げられる。聖徳太子の撰との伝承をもつ『先代旧事本紀』10巻は、『古事記』『日本書紀』とともに、吉田神道において「三部の本書」と喧伝され、「神典」として尊重されていたが、江戸中期以降、多田義俊・伊勢貞文らによって「偽書」と認定された。春満は彼らよりも早く「偽書」説を提唱していることが注目される。つまり、「三部の本書」という神典観は、春満によって打破されたのであり、真淵以降の国学者に少なからぬ影響を与えたと見ることができる(もっとも春満も、その最初期の講釈では『先代旧事本紀』を「真書」として扱っていた)。また春満の『日本書紀』神代巻解釈において、もう一つ注目すべき業績は、「仮名遣い」の研究である。その一つである『日本書紀神代巻訓釈伝類語』2巻は、『日本書紀』神代巻に記された語に訓読を施し、その語義を50音順に配列して編纂したものであるが、本書に見られる仮名遣いは、現在のいわゆる歴史的仮名遣いに近い。春満は特に宝永期以降、契沖の『和字正濫鈔』の仮名遣い説を受容する。これによって仮名遣いに大いに注意し、『日本書紀』寛文板本をはじめとする旧来の神代巻の仮名遣いを改めたことは、当時としては画期的な研究であったといえよう。これは古語・古義・古意を明らかにするという、のちの国学的研究方法の基盤になったことが注目されており、契沖から春満、そしてそれ以降と、学問の継承が確実になされていることが指摘されている。 ■神道説 春満の神道説として著名なものとして「神祇道徳説」が挙げられる。もともと「神祇道徳」の語は、彼の門人誓詞に見える語で、元禄末期から宝永期頃まで、『日本書紀』神代巻を通じての学を「神祇道徳」として認識していたことが窺える。この「神祇道徳説」とは、人間は「霊」「気」「形」の3要素から構成されていると理解した上で、「霊(善)の優劣」「形(悪)の劣位」という図式を、君臣・親子・兄弟・夫婦等などの関係に及ぼしていくというもの。春満は、このような善悪の二項対立的な構造から神代巻を解釈し、それらが神々の具体的な行ないによって開示された「教え」に随って、人びとが善を勧め、悪を矯めることを説いたのである。また「神祇道徳説」は、稲荷社家伝来のものでもなく、両部神道・吉田神道・垂加神道など、当時行なわれていた神道説とも異なる、前後の系統を引くものもない、全く孤立した独特のものと評価される一方で、すこぶる現実主義的な思想であるため、一部の研究者から儒家神道的との評価もなされている。 ■『創国学校啓』 国学史上において春満の名を不滅のものとした『創国学校啓』(『創学校啓』『創倭学校啓』等とも)は、春満が国学の学校(国学校・倭学校)の創設を幕府に願い出た建白書であるとされている。この流布本は、寛政10年(1798)、春満の歌集である『春葉集』の附録として出板され、幕末に平田銕胤・福羽美静らが再板・普及した。『創国学校啓』の幕府啓上説は羽倉家から出て、のちに平田篤胤によって一般化された説であるが、確証がなく、偽作説がある。今なお真作説と偽作説とで決着が着いていない。 ■春満と『元禄忠臣蔵』 また春満は、真山青果作『元禄忠臣蔵』(昭和9年【1934】東京歌舞伎座にて初演)において、赤穂義士・大石良雄に吉良邸の間取りを教える羽倉斎のモデルとなったことで知られている。その場面はまこと感動的であるが、しかし実際、大石良雄と関係があったかについては、確証がなく、不明と言わざるを得ない(ただし、大石良雄の親戚にあたる大石三平とは親交があったことは知られている)。 |
+史資料 | 〔玉襷 九〕 諸家人物志といふ物に、契沖の病褥に至りて、国学を受たり。と記せるは非なり。江戸に萩原宗固、山岡妙阿など云ふ、歌道の国学者あまた出て、其の人々の門流より、塙尾保己一、奈佐勝皐、屋代弘堅など云ふ人々の出たるは、もはら東麻呂大人の、久しく江戸に居て、古学を称へられしに因る事なるを、今の人は、然る事としても得知らず在るは慨き事なり。 〔同上〕 敬公の神祇宝典、類聚日本紀を御撰びまし、義公の神道集成、大日本史を撰び給へる、古道の大義を明さん事をば、心及ばて在りけるを、身は下ながら、然る大義に、深く心を入れたるは、荷田東麻呂大人ぞ始には有ける。 〔同上〕 偖その学業の詳なる趣は、春葉集に、同族荷田信郷が後叙せるに、幼より、学を好み、篤く皇道復古の学に志して、国史、律令、古文、古歌、及び諸家の記伝に至るまで、該博く通ぜざる所なし。然れども、師尚する所なく、而して其自得発明する所、極めて多し。 〔同上〕 此は世の学者などの、机により、子弟に対して、誇言慢語する類には非ず。畏くも官に白せる文なるに、先儒の国学校を興さず、漢学校を興せるを、無識と称し、其儒学を異教と称して、古道学を興すに、経国の大業と称せるなど、実に舌の巻るゝ語等なるが、岡部ノ大人の学は、此大義の筋骨を受け得られてぞありける。 〔三十六家 上〕 翁ひとゝなり、敦厚にして、其学のみにあらず、人事においてもまた義にかたき、鉄心なることは、中年諸国を漫遊し、竟に江戸に出で、あまねく学士を問て研究苦学す。時に赤穂の遺臣大高子葉と、常に文事風流をもつてまじはる。しかるに子葉子、翁の志気の常人にすぐれて、ことなるを知り、まじはりもつとも厚く、ゆゑに終にその密事の実を語る。爰に於て、翁其讎の邸中の図を委かにして付するに、義統大いに益を得たりとぞ。其厚義また見るべし。翁の国学を興すにおけるや、契沖師と相対して、千古の二人とするか。当今天下古学を唱ふの士、翁を以て祖とし、其下風にあらざる稀なり。故に神のごとく敬重す。 〔玉襷 九〕 偖その学業の詳なる趣は、幼より学を好み、篤く皇道復古の学に志して国史、律令、古文、古歌、及び諸家の記伝に至るまて、該博く通ぜざる所なし。然れども、師尚する所なく、而して其自得発明する所極めて多し。享保中に江戸に遊びて、声明あり。特に内命ありて、侍臣某をして従遊せしめて、古書を校せしめ給ふ。居ること数年にして、疾を得て京に帰らる。已にして伏見奉行、北条遠江守をして、内命を伝へて、銀若干を賜ふ。大人嘗て、国学校を創立する志ありて、上書して執事に啓するに、未だ報あらずして没せり。其志は遂げざれども、其言は伝ふべし。大人簀を易ふる日に侍兒に命じて、平生に著はせる所の草稿、数品を採りて、竊にこれを焚きて、諸子弟をして識しめず。蓋、後世に伝ふる事を欲せざるなり。是を以て、其著述、存する者、いくばくも無し。大人に子なし。姪在満をもて嗣と為す。在満江戸に在て、田安金吾君に仕ふ。学義遇せず。疾をもて辞して、加茂真淵を薦めて代らしむ。大人、元文元丙辰年七月二日に没せられたり。と言へり。 〔荷田大人創学校啓〕 謹請蒙鴻慈。創造国学校啓。 荷田東麿。誠惶誠恐頓首々々。謹聞。伏惟。神君勃興山東。覇功一成。平章天下。草上之風。孰越君子之志。維新之化。始建弘文之館。庶矣且富。又何之加。明君代作。文物愈昭。光烈相継。武事益備。済済焉。蔚蔚焉。鎌倉氏之好倹。庸何及于斯乎。郁郁乎。斌斌乎。室町氏之尚文。豈同日之談哉。応此昇平之化。天生寛仁之君。以其天縦之資。国見不厳之教。野無遺賢。倣陶唐之諫鼓。朝多直臣。擬有周之官箴。上尊 天皇。専不譎之政。下懐諸侯。而来包茅之貢。道斎有暇。則傾心於古学。教化不周。則深治於先王。購奇書於千金。天下聞達之士。嚮風。深遺篇於石室。四海異能之客。結軾。臣嘗遊都下之日。幸蒙射策之棲。忝不顧謭劣之義。偶有校書之命。浴于忘布衣之恩。誰令為之。誰令聴之。子遷氏之言。深有取焉。雖有智慧。不如待時。鄙孟子之意。良有以也。当時。既有意於頼幕府之威霊。起此大義。借大樹之庇蔭。達臣素顔。而不敢者。私心竊以。(走に圭)歩不已。跛鼈千里。犬馬之年。未満六十。今日之美。安知不為異日之醜。後進之知。豈識不如先輩之能。愚而自用。難免蟷螂(以下略) |
+辞書類 | 古学, 国書, 神大, 和歌, 国史, 神人, 神事, 神史, 本居, 大事典, 名家 |
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資料ID | 40346 |