本居豊穎

大分類明治期国学・神道・宗教関係人物データベース
分野分類 CB宗教学・神道学
人名本居豊穎
+読み仮名 / NAME / 性別もとおり とよかい / MOTOORI Toyokai / 男
+別称〔幼名〕稲楠[草創期]
〔名〕八千穂、豊穎[草創期]
〔号〕秋斎、秋廼舎[草創期]
〔称〕平造、中衛[草創期]
+生年月日天保5年(1834)4月28日[草創期]
+没年月日大正2年(1913)2月15日[草創期]
学統・宗派本居内遠[豊穎伝]
+研究書・伝記佐佐木信綱『明治文学の片影』中央公論社、1934年。
多田道夫『本居大平の生涯と業績―文芸活動を中心として』1982年。
+研究論文「本居博士と木村博士(2)」『大八洲』29、1913年。
武鳥又次郎「歌人としての本居豊穎先生」『國學院雜誌』196・8、1913年。
武鳥羽衣「歌人としての本居豊穎先生」『東亜之光』101、1915年。
「日本人物大年表」『國學院雜誌』361、1929年。
鈴木淳「本居豊穎」『皇典講究所草創期の人びと』国学院大学、1982年〔國學院大學日本文化研究所編刊『國學院黎明期の群像』〈1998年〉に再録〕。
☆鈴木淳「本居豊穎伝」創立百周年記念論文集編集委員会編『維新前後に於ける国学の諸問題』國學院大學日本文化研究所、1983年。
岩本次郎「平城京研究の先駆者 北浦定政伝(2)―本居内遠・豊穎父子と定政」『帝塚山大学人文科学部紀要』7、2001年。
中澤伸弘「宣長五十年祭と出板」『神道宗教』183、2001年。
中澤伸弘「紀州の本居家と出雲の富永芳久―本居内遠豊穎の芳久宛書簡の一考察」『國學院大學日本文化研究所紀要』99、2007年〔同『徳川時代後期出雲歌壇と国学』所収、錦正社、2007年〕。
中澤伸弘「若き日の本居豊穎―村上忠順との交遊から」『神道宗教』212、2008年。
三ツ松誠「本居内遠「古学本教大意」の再検討―本居文庫本の翻刻から」『國學院大學研究開発推進機構紀要』1、2009年。
+事典・略伝等☆「本居豊穎翁の逝去」『國學院雑誌』391、1913年
山崎伝之助編『和歌山県人材録』和歌山日日新聞社印刷部、1920年。
近藤佶『国学文献集解 書翰篇』中央公論社、1944年。
小泉苳三『近代短歌史 明治篇』白楊社、1955年。
『和歌山市要』、1965年(増補版)。
笠井助治『近世藩校に於ける学統学派の研究』下、吉川弘文館、1970年。
浅野松洞『続三重先賢伝』東洋書院、1981年(復刻版)。
☆國學院大學日本文化研究所編『皇典講究所草創期の人びと』國學院大學、1982年。
『国学者伝記集成』
『明治維新人名辞典』
『和歌大辞典』

*国史大辞典、国書人名辞典、神道人名辞典、神道史大辞典
+略年譜天保5年(1834) 4月28日、本居内遠の長子として生まれる[草創期]。
安政2年(1855) 10月4日、父・内遠が亡くなる。12月、藩命に従い江戸藩邸の古学館頭取に就任。家学の古学を教授することになる[豊穎伝]。
慶応4年(1865) 3月29日、藩から京の貢士対策所(のち公議所)に差し出され、公用人となる[草創期]。
明治2年(1869) 12月、権中宣教師に任ぜられる[豊穎伝]。
明治3年(1870) 3月、従七位に叙せられる。4月、宣教使として長崎に赴任する。[豊穎伝]。
明治4年(1871) 8月、大祀御用掛を拝命。9月、長崎での在勤を免ぜられる。11月、神祇大録を兼補。その後、宮内省七等出仕[豊穎伝]。
明治6年(1873) 4月17日、京都平野神社大宮司に任ぜられると同時に権少教正に兼補される。8月5日、東京神田神社祠官。9月9日、権中教正となる。[豊穎伝]。
明治7年(1874) 3月28日、東京府の神道教導取締となる[豊穎伝]。 
明治8年(1875) 8月13日、初代の東京府神道事務部局長に就任。10月20日、中教正となる[豊穎伝]。
明治10年(1877) 神道事務局の神殿造営にあたり、神殿営築祭典掛・神殿建築寄付金取締掛を兼務。7月9日、神道事務局の講師講習監督の任に就く。[豊穎伝]。
明治11年(1878) 5月20日、権大教正となる。9月9日、東京府皇典講究分所の前身である事務分局の講師を兼任。[豊穎伝]。
明治14年(1881) 11月23日、出雲大社教会教長。10月23日、皇典講究所委員に名を連ねる。[豊穎伝]。
明治15年(1882) 4月18日、出雲大社教院東京出張所長となる。同月26日、神道事務局長を辞任する。8月30日、東京大学文学部古典講習科の講師を嘱託される[豊穎伝]。
明治17年(1884) 9月29日、大社教の大教正となる[豊穎伝]。
明治18年(1885) 1月29日、大社教東京出張所総監。5月19日、大社教副管長に就任[豊穎伝]。
明治19年(1886) 大八洲学会を創立し、あわせて大八洲学会雑誌を発刊[草創期]。
明治20年(1887) 4月15日、皇典講究所副総裁の久我建通より一等学正の学階を賜わる[豊穎]。
明治21年(1888) 3月31日、皇典講究分所の教授となる。神官同盟を結成(いつ?)[豊穎伝]。
明治22年(1889) 皇典講究所の講師を兼務[豊穎伝]。
明治23年(1890) 國學院が創立され、豊穎はその講師を嘱託される[豊穎伝]。
明治24年(1891) 東京府神官取締所を設置[豊穎伝]。
明治25年(1892) 東京府神官取締所の二代目所長に就任。東京高等女子師範学校、東京音楽学校の講師を嘱託される[豊穎伝]。
明治27年(1894) 神田神社社司、大社教の大教正および副管長を辞する。高等師範学校・女子高等師範学校の教授となる[草創期]。
明治28年(1895) 東宮職御用掛となる[豊穎伝]。
明治29年(1896) 東宮侍講に任ずる。正五位に叙せられる[豊穎伝]。
明治30年(1897) 勅任待遇として御歌所寄人となる[豊穎伝]。
明治39年(1906) 9月、帝国学士院会員となる[翁の逝去]。
明治42年(1909) 7月、文学博士の学位を授与される[翁の死去]。
明治44年(1911) 従三位に叙せられる[豊穎伝]。
大正2年(1913) 2月15日、死去。死に際し、特旨をもって正三位および勲二等に叙せられる[豊穎伝]。
+主要著作『古今和歌集講義』全5冊、大八洲学会、1887年〔2編中まで刊行。未完か。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873283〕。
本居豊穎編『大八洲歌集』大八洲学会、1888年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/872953〕
本居豊穎撰、梁川保嘉・朝賀喜一纂『諄辞集』全2巻、会通社、1895年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815970〕。
『秋屋集』全4巻、私家版、1904年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/872770〕。
『本居雑考』全2巻、好古社、1904年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754817〕。
+キーワード(1)神祇官(神祇事務局、神祇省)
+キーワード(2)宣教使
+キーワード(3)宮内省
+キーワード(4)神道家教導職
+キーワード(5)神道事務局
+キーワード(6)皇典講究所(國學院)
+キーワード(7)教派神道(神道教派)
+国学関連人物データベースhttp://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=50954
データベースの典拠「翁の逝去」=「本居豊穎翁の逝去」『國學院雑誌』391、1913年。
「草創期」=國學院大學日本文化研究所編『皇典講究所草創期の人びと』國學院大學、1982年。
「豊穎伝」=鈴木淳「本居豊穎伝」創立百周年記念論文集編集委員会編『維新前後に於ける国学の諸問題』國學院大學日本文化研究所、1983年。
-106909 50 2018/02/27 kota.saito 本登録 0 JMK000091 本居豊穎 MOTOORI Toyokai 本居豊穎 MOTOORI Toyokai 天保5年(1834)〜大正2年(1913) もとおり とよかい / MOTOORI Toyokai / 男 もとおり とよかい 〔幼名〕稲楠[草創期]
〔名〕八千穂、豊穎[草創期]
〔号〕秋斎、秋廼舎[草創期]
〔称〕平造、中衛[草創期] 天保5年(1834)4月28日[草創期] 大正2年(1913)2月15日[草創期] 本居内遠[豊穎伝] 佐佐木信綱『明治文学の片影』中央公論社、1934年。
多田道夫『本居大平の生涯と業績―文芸活動を中心として』1982年。 「本居博士と木村博士(2)」『大八洲』2-9、1913年。
武鳥又次郎「歌人としての本居豊穎先生」『國學院雜誌』19-6・8、1913年。
武鳥羽衣「歌人としての本居豊穎先生」『東亜之光』10-1、1915年。
「日本人物大年表」『國學院雜誌』36-1、1929年。
鈴木淳「本居豊穎」『皇典講究所草創期の人びと』国学院大学、1982年〔國學院大學日本文化研究所編刊『國學院黎明期の群像』〈1998年〉に再録〕。
☆鈴木淳「本居豊穎伝」創立百周年記念論文集編集委員会編『維新前後に於ける国学の諸問題』國學院大學日本文化研究所、1983年。
岩本次郎「平城京研究の先駆者 北浦定政伝(2)―本居内遠・豊穎父子と定政」『帝塚山大学人文科学部紀要』7、2001年。
中澤伸弘「宣長五十年祭と出板」『神道宗教』183、2001年。
中澤伸弘「紀州の本居家と出雲の富永芳久―本居内遠豊穎の芳久宛書簡の一考察」『國學院大學日本文化研究所紀要』99、2007年〔同『徳川時代後期出雲歌壇と国学』所収、錦正社、2007年〕。
中澤伸弘「若き日の本居豊穎―村上忠順との交遊から」『神道宗教』212、2008年。
三ツ松誠「本居内遠「古学本教大意」の再検討―本居文庫本の翻刻から」『國學院大學研究開発推進機構紀要』1、2009年。 ☆「本居豊穎翁の逝去」『國學院雑誌』39-1、1913年
山崎伝之助編『和歌山県人材録』和歌山日日新聞社印刷部、1920年。
近藤佶『国学文献集解 書翰篇』中央公論社、1944年。
小泉苳三『近代短歌史 明治篇』白楊社、1955年。
『和歌山市要』、1965年(増補版)。
笠井助治『近世藩校に於ける学統学派の研究』下、吉川弘文館、1970年。
浅野松洞『続三重先賢伝』東洋書院、1981年(復刻版)。
☆國學院大學日本文化研究所編『皇典講究所草創期の人びと』國學院大學、1982年。
『国学者伝記集成』
『明治維新人名辞典』
『和歌大辞典』

*国史大辞典、国書人名辞典、神道人名辞典、神道史大辞典 天保5年(1834) 4月28日、本居内遠の長子として生まれる[草創期]。
安政2年(1855) 10月4日、父・内遠が亡くなる。12月、藩命に従い江戸藩邸の古学館頭取に就任。家学の古学を教授することになる[豊穎伝]。
慶応4年(1865) 3月29日、藩から京の貢士対策所(のち公議所)に差し出され、公用人となる[草創期]。
明治2年(1869) 12月、権中宣教師に任ぜられる[豊穎伝]。
明治3年(1870) 3月、従七位に叙せられる。4月、宣教使として長崎に赴任する。[豊穎伝]。
明治4年(1871) 8月、大祀御用掛を拝命。9月、長崎での在勤を免ぜられる。11月、神祇大録を兼補。その後、宮内省七等出仕[豊穎伝]。
明治6年(1873) 4月17日、京都平野神社大宮司に任ぜられると同時に権少教正に兼補される。8月5日、東京神田神社祠官。9月9日、権中教正となる。[豊穎伝]。
明治7年(1874) 3月28日、東京府の神道教導取締となる[豊穎伝]。 
明治8年(1875) 8月13日、初代の東京府神道事務部局長に就任。10月20日、中教正となる[豊穎伝]。
明治10年(1877) 神道事務局の神殿造営にあたり、神殿営築祭典掛・神殿建築寄付金取締掛を兼務。7月9日、神道事務局の講師講習監督の任に就く。[豊穎伝]。
明治11年(1878) 5月20日、権大教正となる。9月9日、東京府皇典講究分所の前身である事務分局の講師を兼任。[豊穎伝]。
明治14年(1881) 11月23日、出雲大社教会教長。10月23日、皇典講究所委員に名を連ねる。[豊穎伝]。
明治15年(1882) 4月18日、出雲大社教院東京出張所長となる。同月26日、神道事務局長を辞任する。8月30日、東京大学文学部古典講習科の講師を嘱託される[豊穎伝]。
明治17年(1884) 9月29日、大社教の大教正となる[豊穎伝]。
明治18年(1885) 1月29日、大社教東京出張所総監。5月19日、大社教副管長に就任[豊穎伝]。
明治19年(1886) 大八洲学会を創立し、あわせて大八洲学会雑誌を発刊[草創期]。
明治20年(1887) 4月15日、皇典講究所副総裁の久我建通より一等学正の学階を賜わる[豊穎]。
明治21年(1888) 3月31日、皇典講究分所の教授となる。神官同盟を結成(いつ?)[豊穎伝]。
明治22年(1889) 皇典講究所の講師を兼務[豊穎伝]。
明治23年(1890) 國學院が創立され、豊穎はその講師を嘱託される[豊穎伝]。
明治24年(1891) 東京府神官取締所を設置[豊穎伝]。
明治25年(1892) 東京府神官取締所の二代目所長に就任。東京高等女子師範学校、東京音楽学校の講師を嘱託される[豊穎伝]。
明治27年(1894) 神田神社社司、大社教の大教正および副管長を辞する。高等師範学校・女子高等師範学校の教授となる[草創期]。
明治28年(1895) 東宮職御用掛となる[豊穎伝]。
明治29年(1896) 東宮侍講に任ずる。正五位に叙せられる[豊穎伝]。
明治30年(1897) 勅任待遇として御歌所寄人となる[豊穎伝]。
明治39年(1906) 9月、帝国学士院会員となる[翁の逝去]。
明治42年(1909) 7月、文学博士の学位を授与される[翁の死去]。
明治44年(1911) 従三位に叙せられる[豊穎伝]。
大正2年(1913) 2月15日、死去。死に際し、特旨をもって正三位および勲二等に叙せられる[豊穎伝]。 - 『古今和歌集講義』全5冊、大八洲学会、1887年〔2編中まで刊行。未完か。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873283〕。
本居豊穎編『大八洲歌集』大八洲学会、1888年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/872953〕
本居豊穎撰、梁川保嘉・朝賀喜一纂『諄辞集』全2巻、会通社、1895年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815970〕。
『秋屋集』全4巻、私家版、1904年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/872770〕。
『本居雑考』全2巻、好古社、1904年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754817〕。 神祇官(神祇事務局、神祇省) 宣教使 宮内省 神道家教導職 神道事務局 皇典講究所(國學院) 教派神道(神道教派) - 文化~慶応 明治0年代 明治10年代 明治20年代 明治30年代 明治40年代 大正 - http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_ckp&data_id=46552 - 「翁の逝去」=「本居豊穎翁の逝去」『國學院雑誌』39-1、1913年。
「草創期」=國學院大學日本文化研究所編『皇典講究所草創期の人びと』國學院大學、1982年。
「豊穎伝」=鈴木淳「本居豊穎伝」創立百周年記念論文集編集委員会編『維新前後に於ける国学の諸問題』國學院大學日本文化研究所、1983年。 - 1
資料ID40252

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