畔上楳仙

大分類明治期国学・神道・宗教関係人物データベース
分野分類 CB宗教学・神道学
人名畔上楳仙
+読み仮名 / NAME / 性別あぜがみ ばいせん / AZEGAMI Baisen / 男
+別称〔諱〕楳仙[信濃名僧略伝集]
〔幼〕要蔵[信濃名僧略伝集]
〔道〕大岡[信濃名僧略伝集]
〔号〕随時道人[信濃名僧略伝集]
〔諡〕法雲普蓋禅師[信濃名僧略伝集]
+生年月日文政8年(1825)7月15日[年譜]
+没年月日明治34年(1901)12月27日[年譜]
学統・宗派曹洞宗
+研究書・伝記☆飯田利行『畔上楳仙禅師遺稿』国書刊行会、1984年
+研究論文山本秀麿「名僧 畔上楳仙の生涯」『上田女子短期大学紀要』17、1994年
☆田川幸生「明治前期・教導職最下級から最高位へ、僧侶畔上楳仙」『信濃』〔第3次〕612、2009年
川口高風「明治期以降曹洞宗人物誌(三)」『愛知学院大学教養部紀要』583、2010年
+事典・略伝等日本仏教人名辞典編纂委員会編『日本仏教人名辞典』法蔵館、1992年
阿部芳春編『信濃名僧略伝集』信濃毎日新聞、1934年
+略年譜文政8年(1825) 7月15日、信濃国下高井郡夜間瀬村字宇木にて生まれる。母畔上の姓を継ぐ[年譜]。
天保2年(1831) 出家。同郡穂波村字佐野興隆寺15世微山活英のもとで得度[年譜]。
天保14年(1843) 12月8日、興隆寺活英から嗣法[年譜]。
弘化4年(1847) 江戸に出て旃檀林に学ぶ[年譜]。
嘉永4年(1851) 旃檀林越後寮寮長となる[年譜]。
嘉永5年(1852) 8月17日、永平寺にて瑞世。9月、上洛して綸旨を受ける[年譜]。
嘉永6年(1853) 7月、越後寮寮長を滝谷琢宗へ譲り、松代長国寺覚厳実明に随侍する[年譜]。
安政3年(1856) 相模国早川海蔵寺40世月潭全竜に随侍する[年譜]。
安政5年(1858) 7月18日、信濃国穂波村興隆寺16世首先住職となる[年譜]。
慶応3年(1867) 4月1日、信濃国松代大林寺21世に転住する[年譜]。
明治2年(1869) 10月3日、上野国前橋竜海院30世に転住する[年譜]。
明治5年(1872) 5月2日、権訓導に補任[僧侶]。10月12日、松代長国寺28世に転住[年譜]。
明治6年(1873) 3月28日、中講義に補任[僧侶]。泉竜寺の渡辺俊竜とともに長野県下六郡を巡回説教する[年譜]。
明治7年(1875) 11月7日、相模国最乗寺独住1世に転住[年譜]。12月7日、大講義に補任[年譜][僧侶]。
明治8年(1875) 1月17日、最乗寺塔頭大慈院・報恩院の住職を兼務[年譜]。12月20日、権少教正に補任[年譜][僧侶]。
明治11年(1878) 5月20日、少教正に補任[僧侶]。
明治12年(1879) 12月27日、権中教正に補任[年譜][僧侶]。
明治13年(1880) 2月6日、総持寺独住2世となる[年譜]。5月27日、大教正に補任[年譜][僧侶]。
明治14年(1881) 1月1日、曹洞宗管長就任[年譜]。9月、愛知県を巡回説教する[年譜]。
明治25年(1892) 3月19日、本山貫首管長の権限により、総持寺・永平寺両山盟約解消。曹洞宗議会消滅を宣言し、内務大臣に対して宗制の取り消し・両山分離の請願を行う[年譜]。
明治26年(1893) 3月18日、内務大臣井上馨宅へ両山出頭。分離主張に関する意見を述べる[年譜]4月2日、芝青松寺において両山委員と北野元峰との協議をするも衝突、内務大臣の裁断を仰ぐことに[年譜]。11月8日、内務省から総持寺貫首退隠を命じられる[年譜]。12月、信州山ノ内薬師庵に遁世[年譜]。
明治27年(1894) 12月30日、内務省より召喚状が来る[年譜]12月31日、内務省へ出頭。内務大臣の仲裁により、両山和解[年譜]。
明治28年(1895) 5月12日、総持寺に帰山[年譜]。
明治33年(1900) 12月25日、総持寺退院を発表[年譜]。
明治34年(1901) 3月23日、東京小石川林泉寺に隠棲[年譜]。12月27日、死去[年譜]。
+主要著作紹瑾著・法雲普蓋(畔上楳仙)撰『総持開祖御教義抄』畔上楳仙、1900年。
畔上楳仙述・織田雪巌編『坐禅用心記落草談』総持寺出張所、1907年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822987〕。
畔上楳仙著・織田雪巌編『信心銘拈提落草談』総持寺出張所、1909年。
滝谷琢宗・畔上楳仙編『曹洞教会修証義』川端清五郎、1912年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/921024〕。
滝谷琢宗・畔上楳仙編、陸鉞巌訳『漢訳曹洞教会修証義』円通寺認可僧堂、1916年。
法雲普蓋(畔上楳仙)垂示・大圓玄致修訂・總持寺御遠忌事務局編輯『十種勅問落草談』総持寺、1935年。
曹洞宗選書刊行会編『坐禅儀・信心銘講話』同朋舎出版、1981年。
飯田利行編『畔上楳仙禅師遺稿』国書刊行会、1984年。
+キーワード(1)曹洞宗
+キーワード(2)仏教家教導職
データベースの典拠「信濃名僧略伝集」=阿部芳春編『信濃名僧略伝集』信濃毎日新聞、1934年。
「年譜]=飯田利行「畔上楳仙禅師年譜」飯田利行編『畔上楳仙禅師遺稿』国書刊行会、1984年。
「僧侶」=田川幸生「明治前期・教導職最下級から最高位へ、僧侶畔上楳仙」『信濃』〔第3次〕612、2009年。
-106875 50 2018/02/27 kota.saito 本登録 0 JMK000057 畔上楳仙 AZEGAMI Baisen 畔上楳仙 AZEGAMI Baisen 文政8年(1825)〜明治34年(1901) あぜがみ ばいせん / AZEGAMI Baisen / 男 あぜがみ ばいせん 〔諱〕楳仙[信濃名僧略伝集]
〔幼〕要蔵[信濃名僧略伝集]
〔道〕大岡[信濃名僧略伝集]
〔号〕随時道人[信濃名僧略伝集]
〔諡〕法雲普蓋禅師[信濃名僧略伝集] 文政8年(1825)7月15日[年譜] 明治34年(1901)12月27日[年譜] 曹洞宗 ☆飯田利行『畔上楳仙禅師遺稿』国書刊行会、1984年 山本秀麿「名僧 畔上楳仙の生涯」『上田女子短期大学紀要』17、1994年
☆田川幸生「明治前期・教導職最下級から最高位へ、僧侶畔上楳仙」『信濃』〔第3次〕61-2、2009年
川口高風「明治期以降曹洞宗人物誌(三)」『愛知学院大学教養部紀要』58-3、2010年 日本仏教人名辞典編纂委員会編『日本仏教人名辞典』法蔵館、1992年
阿部芳春編『信濃名僧略伝集』信濃毎日新聞、1934年 文政8年(1825) 7月15日、信濃国下高井郡夜間瀬村字宇木にて生まれる。母畔上の姓を継ぐ[年譜]。
天保2年(1831) 出家。同郡穂波村字佐野興隆寺15世微山活英のもとで得度[年譜]。
天保14年(1843) 12月8日、興隆寺活英から嗣法[年譜]。
弘化4年(1847) 江戸に出て旃檀林に学ぶ[年譜]。
嘉永4年(1851) 旃檀林越後寮寮長となる[年譜]。
嘉永5年(1852) 8月17日、永平寺にて瑞世。9月、上洛して綸旨を受ける[年譜]。
嘉永6年(1853) 7月、越後寮寮長を滝谷琢宗へ譲り、松代長国寺覚厳実明に随侍する[年譜]。
安政3年(1856) 相模国早川海蔵寺40世月潭全竜に随侍する[年譜]。
安政5年(1858) 7月18日、信濃国穂波村興隆寺16世首先住職となる[年譜]。
慶応3年(1867) 4月1日、信濃国松代大林寺21世に転住する[年譜]。
明治2年(1869) 10月3日、上野国前橋竜海院30世に転住する[年譜]。
明治5年(1872) 5月2日、権訓導に補任[僧侶]。10月12日、松代長国寺28世に転住[年譜]。
明治6年(1873) 3月28日、中講義に補任[僧侶]。泉竜寺の渡辺俊竜とともに長野県下六郡を巡回説教する[年譜]。
明治7年(1875) 11月7日、相模国最乗寺独住1世に転住[年譜]。12月7日、大講義に補任[年譜][僧侶]。
明治8年(1875) 1月17日、最乗寺塔頭大慈院・報恩院の住職を兼務[年譜]。12月20日、権少教正に補任[年譜][僧侶]。
明治11年(1878) 5月20日、少教正に補任[僧侶]。
明治12年(1879) 12月27日、権中教正に補任[年譜][僧侶]。
明治13年(1880) 2月6日、総持寺独住2世となる[年譜]。5月27日、大教正に補任[年譜][僧侶]。
明治14年(1881) 1月1日、曹洞宗管長就任[年譜]。9月、愛知県を巡回説教する[年譜]。
明治25年(1892) 3月19日、本山貫首管長の権限により、総持寺・永平寺両山盟約解消。曹洞宗議会消滅を宣言し、内務大臣に対して宗制の取り消し・両山分離の請願を行う[年譜]。
明治26年(1893) 3月18日、内務大臣井上馨宅へ両山出頭。分離主張に関する意見を述べる[年譜]4月2日、芝青松寺において両山委員と北野元峰との協議をするも衝突、内務大臣の裁断を仰ぐことに[年譜]。11月8日、内務省から総持寺貫首退隠を命じられる[年譜]。12月、信州山ノ内薬師庵に遁世[年譜]。
明治27年(1894) 12月30日、内務省より召喚状が来る[年譜]12月31日、内務省へ出頭。内務大臣の仲裁により、両山和解[年譜]。
明治28年(1895) 5月12日、総持寺に帰山[年譜]。
明治33年(1900) 12月25日、総持寺退院を発表[年譜]。
明治34年(1901) 3月23日、東京小石川林泉寺に隠棲[年譜]。12月27日、死去[年譜]。 - 紹瑾著・法雲普蓋(畔上楳仙)撰『総持開祖御教義抄』畔上楳仙、1900年。
畔上楳仙述・織田雪巌編『坐禅用心記落草談』総持寺出張所、1907年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822987〕。
畔上楳仙著・織田雪巌編『信心銘拈提落草談』総持寺出張所、1909年。
滝谷琢宗・畔上楳仙編『曹洞教会修証義』川端清五郎、1912年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/921024〕。
滝谷琢宗・畔上楳仙編、陸鉞巌訳『漢訳曹洞教会修証義』円通寺認可僧堂、1916年。
法雲普蓋(畔上楳仙)垂示・大圓玄致修訂・總持寺御遠忌事務局編輯『十種勅問落草談』総持寺、1935年。
曹洞宗選書刊行会編『坐禅儀・信心銘講話』同朋舎出版、1981年。
飯田利行編『畔上楳仙禅師遺稿』国書刊行会、1984年。 曹洞宗 仏教家教導職 - - - - - - 文化~慶応 明治0年代 明治10年代 明治20年代 明治30年代 - - - - - 「信濃名僧略伝集」=阿部芳春編『信濃名僧略伝集』信濃毎日新聞、1934年。
「年譜]=飯田利行「畔上楳仙禅師年譜」飯田利行編『畔上楳仙禅師遺稿』国書刊行会、1984年。
「僧侶」=田川幸生「明治前期・教導職最下級から最高位へ、僧侶畔上楳仙」『信濃』〔第3次〕61-2、2009年。 - 1
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