亀井茲監

大分類明治期国学・神道・宗教関係人物データベース
分野分類 CB宗教学・神道学
人名亀井茲監
+読み仮名 / NAME / 性別かめい これみ / KAMEI Koremi / 男
+別称〔姓〕有馬[於杼呂]
〔幼名〕格助[於杼呂]
〔名〕頼功[於杼呂]
〔号〕勤斎[於杼呂]
+生年月日文政8年(1825)11月1日[於杼呂]
+没年月日明治18年(1885)3月23日[於杼呂]
+研究書・伝記西周『故従二位勲三等亀井茲監君履歴』1885年。
阪本健一『明治維新と神道』同朋舎出版、1981年。
松島弘『津和野藩主 亀井茲監—幕末から明治へ 日本の指針を示した藩主』津和野歴史シリーズ刊行会、2000年。
+研究論文「亀井茲監公五十年祭記念号」『島根評論』1943年。
+事典・略伝等☆加部厳夫編『於杼呂我中—亀井茲監伝』マツノ書店、1982年(復刻)。

*国史大辞典、国書人名辞典、神道事典、神道人名辞典
+略年譜文政8年(1825)11月1日 筑後国久留米藩主の有馬玄蕃頼徳の次男として、江戸の三田の久留米藩邸で生まれる。幼名は格助[於杼呂]。
天保10年(1839)4月27日 石見国津和野藩主の亀井能登守茲方の養子となる。6月21日、襲封する。8月5日、初めて国に就き、政事を視る[於杼呂]。
天保11年(1840)12月16日 従五位下に叙し、隠岐守に任ぜられる[於杼呂]。
天保13年(1842)11月7日 高松藩主松平頼恕の次女・貢子と結婚[於杼呂]。
弘化元年(1844)4月23日 実父、玄蕃頭有馬頼徳、逝去。7月1日、実兄の有馬頼永が襲封する[於杼呂]。
弘化3年(1846)2月20日、馬匹飼養令を発布する[於杼呂]。
弘化4年(1847)9月1日、中老の布施左仲に命じて藩士に文学を奨励させる。この年、養老館を修正する。文武教場が完成する[於杼呂]。
嘉永元年(1848)養老館に総教、准総教を置く[於杼呂]。
嘉永2年(1849)4月、養老館を増築を始め、都教、準都教の他に文学総司、武芸総司を置く。11月23日、岡内蔵之臣(熊臣)を国学教師とする。12月1日、養老館の増築が完成する。開館の式を行う。国学・医学・礼学・数学・兵学および武術教場の掟を定める。12月15日、文武総督を置き、文武教員の手当金を定める。この年、藩士を江戸に遣わし、幕士、下曽根金三郎に就いて西洋式火技を伝習させる。この他、藩士十数名に命じて他国に出て文武を研精させる。また、士卒の済貧法を設ける[於杼呂]。
嘉永3年(1850)11月、野之口仲(後の大国隆正)が養老館の創設の事について、意見書を上呈する[於杼呂]。
嘉永4年(1851)2月15日、藩兵の練習の事を兵学教師、豊田勝助に命ずる。9月、野之口仲(大国隆正)の藩籍を復し、また、俸を給し、京都に居を構えさせる[於杼呂]。
嘉永6年(1853)4月16日、城下に火災が起き、庁舎・邸宅・藩士の家屋等、悉く焼失。この時、亀井茲監は江戸の藩邸におり、この一報により急いで使いを馳せ、応急の策を指示する。5月16日、江戸を出発。6月13日、津和野に戻り、高崎邸を仮館とする。6月20日、米艦が浦賀に入るという警報があり、寺西寛右衛門をはじめ藩士、数十人を江戸に派遣して、沿海の警備に充てる[於杼呂]。
安政元年(1854)正月14日、下田に米艦が来ると聞き、更に藩士10人を江戸に遣わす。4月1日、嘉永6年の火災により焼失した養老館の再築を起工する。9月21日、兵制革新調査掛を置く[於杼呂]。
安政2年(1855)閏7月13日、先年の火災による養老館焼失から再築が出来、開館の式を行う。11月26日、文武ともに優秀な藩士を選抜して朝日組と称し、有事の際に親衛にさせる[於杼呂]。
安政4年(1857) 6月、桑本才次郎を関眞流数学教員とする。10月10日、福羽文三郎(後の福羽美静)を養老館の教師とする[於杼呂]。
万延元年(1860)12月16日、従四位下を叙される[於杼呂]。
文久2年(1862) 12月27日、京都の警衛の勅命を拝す[於杼呂]。
文久3年(1863) 正月18日、初めて参内し、盃を賜う。3月6日、天皇の賀茂社行幸の鹵簿に参加することを請い、聽許される。3月9日、賀茂社行幸の供奉の命を受ける。3月11日、賀茂下上社の行幸に参列する[於杼呂]。
慶応3年(1867) 5月25日、楠公及び元武神霊を養老館内に合祭する[於杼呂]。
明治元年(1868)正月20日、参与職、神祇事務局判事に任命される。天皇の行幸の供奉を命ぜられる。正月27日、議定職、神祇事務局補に拝命される。閏4月21日、神祇副知官事を拝命。5月10日、左近衛権中将に任ぜられる。5月12日、出雲大社、古典査覈の命を拝する。8月12日、即位新式制定の命を受ける。これにより、藩士の佐伯太郎、井上隆蔵等を京都へ出し、神祇判官事に福羽美静が就き、新式草案調査に当らせる。11月、敬・愛国・孝悌・忠信・尚武等の教令を定め、政令を布く。12月、養老館、学寮の制を改めて、学生に本学・儒学を兼修し、また兵学を習わせる[於杼呂]。
明治2年(1869)2月22日、出雲大社古典査覈を終え、調査内容を報告する。2月、養老館の漢学教師の山口弘に命じて釈奠式を改定する。4月14日、武蔵国、氷川神社の奉幣使に奉仕。5月5日、教導局御用掛を拝命。5月29日、菊章の短刀一口を賜う。6月2日、従四位上に叙せられる。6月24日、版籍を奉還し、津和野藩知事に任ぜられる。6月27日、左近衛権中将、隠岐守を辞す[於杼呂]。
明治3年(1870)9月13日、正四位に叙す。11月、肥前国浦上村等のキリスト教徒130人を教導するよう命じられ、教え諭す[於杼呂]。
明治4年(1871)5月22日、津和野藩知事の職を辞す。6月27日、従三位に叙せられる。9月10日、木挽町の私邸に移る。この日、外桜田の藩邸を返上する。10月、皇后より御盃五組を賜う[於杼呂]。
明治5年(1872)2月26日、木挽町邸、災いにあう。南葛飾郡、須崎村の小梅別邸に移る。10月15日、皇后の思し召しで御歌会に仕える[於杼呂]。
明治6年(1873)4月4日、夫人・貢子死去。12月8日、銀盃一個を賜う。是より先、学校資金を寄付する[於杼呂]。
明治8年(1875)6月30日、華族の堤哲長の三男・亀麿を養子とし、名を茲明と改めさせる[於杼呂]。 
明治9年(1876)3月11日、華族会館、幹事となる。5月24日、華族第五部長となる。8月26日、華族第五部長を罷む。11月8日、致仕する。家督を嗣子の茲明に継ぐ。12月28日、宮中祗候取締を拝命[於杼呂]。
明治10年(1877)9月12日、宮中祗候取締を免ぜられる。9月18日、島根県下の学校資金を寄付したため、銀盃一個を賜う。12月21日、先年、木挽町罹災者を救恤したため、銀盃一個を賜う[於杼呂]。
明治11年(1878)4月29日、東京府下に学校資金を寄付したため、木盃一個を賜う。10月、旧藩地の津和野に至り、家祖代々の墳墓を奠り、また、旧藩士を永明寺に会して旧情を温め、金を與え懇諭する[於杼呂]。
明治12年(1879)9月15日、釈奠の器具を博物館に献納したため、銀盃を賜う[於杼呂]。
明治14年(1881)7月16日、勲三等に叙し、旭日中綬章を賜う[於杼呂]。
明治16年(1883)4月6日、西南の騒動の際、負傷者治療費を寄贈したため、木盃を賜う[於杼呂]。
明治17年(1884)3月6日、先年に皇上炎上の際、金圓を献納し、造営の資に充てたため、銀盃3個を賜う。10月、小石川の丸山町邸、新築成る[於杼呂]。
明治18年(1885)3月17日、従二位に叙す。3月23日、逝去。3月29日、遺命に随い、東京府南葛飾郡須崎村の弘福寺域内に神葬式で葬る[於杼呂]。
+キーワード(1)神祇官(神祇事務局、神祇省)
+国学関連人物データベースhttp://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=43895
データベースの典拠「於杼呂」=『於杼呂我中—亀井茲監伝』
-106874 50 2018/02/27 kota.saito 本登録 0 JMK000056 亀井茲監 KAMEI Koremi 亀井茲監 KAMEI Koremi 文政8年(1825)〜明治18年(1885) かめい これみ / KAMEI Koremi / 男 かめい これみ 〔姓〕有馬[於杼呂]
〔幼名〕格助[於杼呂]
〔名〕頼功[於杼呂]
〔号〕勤斎[於杼呂] 文政8年(1825)11月1日[於杼呂] 明治18年(1885)3月23日[於杼呂] - 西周『故従二位勲三等亀井茲監君履歴』1885年。
阪本健一『明治維新と神道』同朋舎出版、1981年。
松島弘『津和野藩主 亀井茲監—幕末から明治へ 日本の指針を示した藩主』津和野歴史シリーズ刊行会、2000年。 「亀井茲監公五十年祭記念号」『島根評論』1943年。 ☆加部厳夫編『於杼呂我中—亀井茲監伝』マツノ書店、1982年(復刻)。

*国史大辞典、国書人名辞典、神道事典、神道人名辞典 文政8年(1825)11月1日 筑後国久留米藩主の有馬玄蕃頼徳の次男として、江戸の三田の久留米藩邸で生まれる。幼名は格助[於杼呂]。
天保10年(1839)4月27日 石見国津和野藩主の亀井能登守茲方の養子となる。6月21日、襲封する。8月5日、初めて国に就き、政事を視る[於杼呂]。
天保11年(1840)12月16日 従五位下に叙し、隠岐守に任ぜられる[於杼呂]。
天保13年(1842)11月7日 高松藩主松平頼恕の次女・貢子と結婚[於杼呂]。
弘化元年(1844)4月23日 実父、玄蕃頭有馬頼徳、逝去。7月1日、実兄の有馬頼永が襲封する[於杼呂]。
弘化3年(1846)2月20日、馬匹飼養令を発布する[於杼呂]。
弘化4年(1847)9月1日、中老の布施左仲に命じて藩士に文学を奨励させる。この年、養老館を修正する。文武教場が完成する[於杼呂]。
嘉永元年(1848)養老館に総教、准総教を置く[於杼呂]。
嘉永2年(1849)4月、養老館を増築を始め、都教、準都教の他に文学総司、武芸総司を置く。11月23日、岡内蔵之臣(熊臣)を国学教師とする。12月1日、養老館の増築が完成する。開館の式を行う。国学・医学・礼学・数学・兵学および武術教場の掟を定める。12月15日、文武総督を置き、文武教員の手当金を定める。この年、藩士を江戸に遣わし、幕士、下曽根金三郎に就いて西洋式火技を伝習させる。この他、藩士十数名に命じて他国に出て文武を研精させる。また、士卒の済貧法を設ける[於杼呂]。
嘉永3年(1850)11月、野之口仲(後の大国隆正)が養老館の創設の事について、意見書を上呈する[於杼呂]。
嘉永4年(1851)2月15日、藩兵の練習の事を兵学教師、豊田勝助に命ずる。9月、野之口仲(大国隆正)の藩籍を復し、また、俸を給し、京都に居を構えさせる[於杼呂]。
嘉永6年(1853)4月16日、城下に火災が起き、庁舎・邸宅・藩士の家屋等、悉く焼失。この時、亀井茲監は江戸の藩邸におり、この一報により急いで使いを馳せ、応急の策を指示する。5月16日、江戸を出発。6月13日、津和野に戻り、高崎邸を仮館とする。6月20日、米艦が浦賀に入るという警報があり、寺西寛右衛門をはじめ藩士、数十人を江戸に派遣して、沿海の警備に充てる[於杼呂]。
安政元年(1854)正月14日、下田に米艦が来ると聞き、更に藩士10人を江戸に遣わす。4月1日、嘉永6年の火災により焼失した養老館の再築を起工する。9月21日、兵制革新調査掛を置く[於杼呂]。
安政2年(1855)閏7月13日、先年の火災による養老館焼失から再築が出来、開館の式を行う。11月26日、文武ともに優秀な藩士を選抜して朝日組と称し、有事の際に親衛にさせる[於杼呂]。
安政4年(1857) 6月、桑本才次郎を関眞流数学教員とする。10月10日、福羽文三郎(後の福羽美静)を養老館の教師とする[於杼呂]。
万延元年(1860)12月16日、従四位下を叙される[於杼呂]。
文久2年(1862) 12月27日、京都の警衛の勅命を拝す[於杼呂]。
文久3年(1863) 正月18日、初めて参内し、盃を賜う。3月6日、天皇の賀茂社行幸の鹵簿に参加することを請い、聽許される。3月9日、賀茂社行幸の供奉の命を受ける。3月11日、賀茂下上社の行幸に参列する[於杼呂]。
慶応3年(1867) 5月25日、楠公及び元武神霊を養老館内に合祭する[於杼呂]。
明治元年(1868)正月20日、参与職、神祇事務局判事に任命される。天皇の行幸の供奉を命ぜられる。正月27日、議定職、神祇事務局補に拝命される。閏4月21日、神祇副知官事を拝命。5月10日、左近衛権中将に任ぜられる。5月12日、出雲大社、古典査覈の命を拝する。8月12日、即位新式制定の命を受ける。これにより、藩士の佐伯太郎、井上隆蔵等を京都へ出し、神祇判官事に福羽美静が就き、新式草案調査に当らせる。11月、敬・愛国・孝悌・忠信・尚武等の教令を定め、政令を布く。12月、養老館、学寮の制を改めて、学生に本学・儒学を兼修し、また兵学を習わせる[於杼呂]。
明治2年(1869)2月22日、出雲大社古典査覈を終え、調査内容を報告する。2月、養老館の漢学教師の山口弘に命じて釈奠式を改定する。4月14日、武蔵国、氷川神社の奉幣使に奉仕。5月5日、教導局御用掛を拝命。5月29日、菊章の短刀一口を賜う。6月2日、従四位上に叙せられる。6月24日、版籍を奉還し、津和野藩知事に任ぜられる。6月27日、左近衛権中将、隠岐守を辞す[於杼呂]。
明治3年(1870)9月13日、正四位に叙す。11月、肥前国浦上村等のキリスト教徒130人を教導するよう命じられ、教え諭す[於杼呂]。
明治4年(1871)5月22日、津和野藩知事の職を辞す。6月27日、従三位に叙せられる。9月10日、木挽町の私邸に移る。この日、外桜田の藩邸を返上する。10月、皇后より御盃五組を賜う[於杼呂]。
明治5年(1872)2月26日、木挽町邸、災いにあう。南葛飾郡、須崎村の小梅別邸に移る。10月15日、皇后の思し召しで御歌会に仕える[於杼呂]。
明治6年(1873)4月4日、夫人・貢子死去。12月8日、銀盃一個を賜う。是より先、学校資金を寄付する[於杼呂]。
明治8年(1875)6月30日、華族の堤哲長の三男・亀麿を養子とし、名を茲明と改めさせる[於杼呂]。 
明治9年(1876)3月11日、華族会館、幹事となる。5月24日、華族第五部長となる。8月26日、華族第五部長を罷む。11月8日、致仕する。家督を嗣子の茲明に継ぐ。12月28日、宮中祗候取締を拝命[於杼呂]。
明治10年(1877)9月12日、宮中祗候取締を免ぜられる。9月18日、島根県下の学校資金を寄付したため、銀盃一個を賜う。12月21日、先年、木挽町罹災者を救恤したため、銀盃一個を賜う[於杼呂]。
明治11年(1878)4月29日、東京府下に学校資金を寄付したため、木盃一個を賜う。10月、旧藩地の津和野に至り、家祖代々の墳墓を奠り、また、旧藩士を永明寺に会して旧情を温め、金を與え懇諭する[於杼呂]。
明治12年(1879)9月15日、釈奠の器具を博物館に献納したため、銀盃を賜う[於杼呂]。
明治14年(1881)7月16日、勲三等に叙し、旭日中綬章を賜う[於杼呂]。
明治16年(1883)4月6日、西南の騒動の際、負傷者治療費を寄贈したため、木盃を賜う[於杼呂]。
明治17年(1884)3月6日、先年に皇上炎上の際、金圓を献納し、造営の資に充てたため、銀盃3個を賜う。10月、小石川の丸山町邸、新築成る[於杼呂]。
明治18年(1885)3月17日、従二位に叙す。3月23日、逝去。3月29日、遺命に随い、東京府南葛飾郡須崎村の弘福寺域内に神葬式で葬る[於杼呂]。 - - 神祇官(神祇事務局、神祇省) - - - - - - - - - - - - - - - http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_ckp&data_id=39491 - 「於杼呂」=『於杼呂我中—亀井茲監伝』 - 研究論文? 1
資料ID40217

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