金光大神

大分類明治期国学・神道・宗教関係人物データベース
分野分類 CB宗教学・神道学
人名金光大神
+読み仮名 / NAME / 性別こんこう だいじん / KONKO Daijin / 男
+別称〔幼名〕源七[教祖の生涯]
〔名〕文次郎、国太郎、文治、大陣[教祖の生涯]
〔号〕文治大明神、金子大明神、金光大明神、金光大権現、生神金光大神[大神の生涯]
+生年月日文化11年(1814)8月16日[教祖の生涯]
+没年月日明治16年(1893)10月10日[大神の生涯]
学統・宗派金光教
+研究書・伝記金光大陣『金光教祖神誡正傳』1900年。
金光大陣『金光大教 : 完』1904年。
金光大陣『金光教』1912年。
金光大陣『金光大教』1912年
碧瑠璃園『金光教祖』宗徳書院・興風書院、1912年。
渡辺霞亭『金光教祖』教育勅語実会、1923年。
初代白神先生追慕記念会『金光教祖と白神初代』同、1923年。
早田玄洞『金光教祖とその教義』山陽新報社出版部、1930年。
中山慶一『教派神道の発生過程』森山書店、1932年。
青山茂『教祖さま』金光教徒社、1933年。
大西利夫『金光教祖物語』宝文館、1933年。
佐古信宜『神の人金光さま』言海書房、1936年。
鶴藤幾太『教派神道の研究』大興社、1939年。
青木茂『金光教祖伝』金光教徒社、1948年。
金光教本部教庁『金光大神』(縮小版)金光教本部教庁、1953年。
金光教本部教庁『金光大神総索引註釈人物志年表』金光教本部教庁、1955年金光大明神。
小野敏夫『金光教祖の生活態度 御伝記「金光大神」をいただいて』金光教徒社、1956年。
高橋正雄『「金光大神」を頂いて』上下、金光教本部教庁、1958−1959年。
村上重良『近代民衆宗教史の研究』増訂版、1963年。
村上重良・安丸良夫校注、『民衆宗教の思想』「金光大神覚」「金光大神理解 (抄)」日本思想体系67、岩波書店、1971年。
金光教本部教庁『金光大神覚』金光教本部教庁、1972年。
丸山照雄編『変革期の宗教』伝統と現代叢書、伝統と現代社、現代ジャーナリズム出版会、1972、74年。
☆村上重良『金光大神の生涯』講談社、1972年。
丸山照雄編『金光と大本 : 教典その心と読み方』河出書房新社、1975年。
高橋一邦訳『現代語訳金光大神覚』金光教本部教庁、1977年。
村上重良校注『金光大神覚—民衆宗教の聖典・金光教』平凡社、1977年。
西川澄『助かってくれい : 金光大神の願いにそいて』講談社、1979年。
☆瀬戸美喜雄『金光教祖の生涯』教学叢書2、金光教学研究所、1980年。
山縣二雄文、花田富士雄写真『金光大神』山陽カラーシリーズ 別巻、山陽新聞社、1981年。
金光教本部教庁『金光大神』金光教本部教庁、1982年。
金光教本部教庁編『金光教教典』金光教本部教庁、1983年。
窪田英樹『神と人と : 金光大神の歩み』三交社、1983年。
☆瀬戸美喜雄『新宗教創始者伝・金光教—金光大神の生涯と信仰』講談社、1985年。
丸山照雄編、 大場正範 [ほか]著『金光と大本 : 教典その心と読み方』現代人の宗教3、御茶の水書房、1986年。
金光教本部教庁編『金光教教典用語索引』金光教本部教庁、1987年。
田中義能『神道十三派の研究』第一書房、1987年(『金光教の研究』日本学術研究会、1934年を収録)。
金光教本部教庁 編『天地は語る—金光教教典抄』金光教本部教庁、1989年。
福嶋義次『天地世界をつつむ : 金光大神の大いなる信仰世界』金光教本部教庁、1991年。
『新訳金光大神御覚書』金光教走社、1992年。
金光教笠岡教会『陰徳 : 笠岡金光大神の信心を今に頂く』金光教笠岡教会、1995年。
青木茂『笠岡金光大神』金光教笠岡教会、1995年。
金光大神著、村上重良校注『金光大神覚—民衆宗教の聖典・金光教』平凡社、2003年。
+研究論文渡辺順一「天地の規範と生神の道伝え—『覚帳』の向明神、白神についての記述内容をめぐって」『金光教学』33、1933年。
高橋 博志「教学の根本問題生神金光大神と教祖」『金光教学』10、1−17、金光教徒社、1952年。
高橋 博志「生神金光大神の両面性について」『金光教学』13、1−16、金光教徒社、1953年。
岩本徳雄「金光大神における食の教義」『金光教学』24、1954年。
和泉乙三「金光大神と六根清浄祓」『金光教学』14、1−5、金光教徒社、1954年。
大淵千仞「教祖の信心について」上中、『金光教学』1、1958・59年。
内田守昌「信心の基本構造—安政5年〜6年の教祖を中心として」『金光教学』1、1958年。
金光真整「教祖と神との関係について一考察」1、『金光教学』2、1959年。
松井雄太郎「生神の意味—文治大明神について」『金光教学』3、1960年。
松岡道雄「教祖における人間形成について—42才までを中心として」『金光教学』3、1960年。
矢野信太「『氏子あっての神神あっての氏子』理解の論理的立場について」『金光教学』3、1960年。
岡開造「教祖の信心の基本的性格—42才を中心として」『金光教学』4、1961年。
宮田真喜雄「金光教における死の意味—教祖の生死に対する態度について」『金光教学』5、1962年。
内田守昌「教祖における布教の意義」『金光教学』6、1963年。
三矢田守秋「教祖一家の農業経済についての一考察—近世大谷村農地の実情」『金光教学』7、1964年。
瀬戸美喜雄「教祖の信心の基本的特性—現実生活との関係を中心として」『金光教学』7、1964年。
藤村真佐枝「教祖の信心における道理の自覚について」『金光教学』7、1964年。
福嶋義次「『秋浮塵子』の事蹟について—『御覚書』解釈のための試論」『金光教学』8、1968年。
金光真整「金光大神御覚書の読み方について」『金光教学』9、1969年。
沢田重信「信心・布教・政治—金光大神御覚書、明治6年『神前撤去』の解釈」『金光教学』9、1969年。
高橋行地郎「37才の教祖—その苦しみのとき」『金光教学』9、1969年。
竹部教雄「安政5年12月24日のお知らせの一解釈」『金光教学』9、1969年。
福嶋義次「安政5年7月における精霊回向の事跡解釈—伝承の世界と信仰の世界」『金光教学』9、1969年。
瀬戸美喜雄「教祖42歳の大患の事跡について」1・2、『金光教学』10・12、1970・72年。
福嶋義次「一乃弟子もらいうけをめぐる金神と天照皇大神の問答—伝承の世界と信仰の世界—」『金光教学』10、1970年。
高橋行地郎「教祖における信心展開の意味構造—『月の三日参り』の意味をたずねて」『金光教学』11、1971年。
真鍋司朗「33才の教祖—四国めぐりの意味をたずねて」『金光教学』11、1971年。
小沢浩「幕末における民衆宗教運動の歴史的性格—川手文治郎の思想形成と金光教の成立をめぐって」『歴史学研究』384、1972年。
沢田重信「金光大神における出社の意義—明治6年8月19日のお知らせの一解釈」『金光教学』12、1972年。
福嶋義次「維新期における教祖の視座」『金光教学』12、1972年。
金光和道「大谷村と巡見使—金光教祖と巡見使」『金光教学』13、1973年。
高橋行地郎「文治大明神誕生過程の考察—金神の悪神性との関係を視点にして」『金光教学』13、1973年。
真鍋司朗「民衆宗教の論理—金神信仰の系譜とその深化」『金光教学』13、1973年。
瀬戸美喜雄「近世後期大谷村の社会・経済状況について」『金光教学』14、1974年。
高橋行地郎「生神金光大神社についての一考察—金子大明神の誕生過程を視座に」『金光教学』13、1973年。
真鍋司朗「民衆宗教の論理—金神信仰の系譜とその深化」『金光教学』13、1973年。
三重野 晋一「金光大神覚(こんこうだじんおぼえ)にみる農民の智恵 」『Agriculture and horticulture』養賢堂 49(11)、1974年。
瀬戸美喜雄「近世後期大谷村の社会・経済状況について」『金光教学』14、1974年。
高橋行地郎「生神金光大神社についての一考察—金子大明神の誕生過程を視座に」『金光教学』15、1975年。
高橋一郎「新興宗教論ー金光教について」『試行』44、1975年。
早川公明「修験者との触衝過程に関する一考察—尊滝院許状の取得から返却に至る過程分析」『金光教学』16、1976年。
福嶋義次「『理解』のことばについて—金光大神理解研究ノート」『金光教学』16、1976年。
瀬戸美喜雄「神の怒りと負け手—明治6年10月10日の神伝をめぐって」『金光教学』17、1977年。
福嶋義次「金神、その神性開示について—金光大神理解研究ノート」『金光教学』18、1978年。
岩本徳雄「日天四と金光大神」『金光教学』18、1978年。
石河道明「天地書附の生成過程に関する一考察—生神金光大神研究」『金光教学』19、1979年。
島薗進「金光教学と人間教祖論—金光教の発生序説」『筑波大学哲学思想学系論集』4、1979年。
福嶋義次「時節考—金光大神理解研究ノート」『金光教学』19、1979年。
荒木美智雄「周縁と新しい人間—金光教祖の場合」『思想の科学』5511、1980年。
岩本徳雄「神名について」『金光教学』20、1980年。
島薗進「宗教の近代化—赤沢文治と日柄方位信仰」、五来重編『講座日本の民俗宗教』5、弘文堂、1980年。
島薗進「金神・厄年・精霊—赤沢文治の宗教的孤独の生成」『筑波大学哲学思想学系論集』5、1980。
島薗進「民俗宗教の構造的変動と赤沢文治と石鎚講」『筑波大学哲学思想学系論集』6、1980年。
高橋行地郎「金光大神の救済観—内信心を視点にして」『金光教学』20、1980年。
福嶋義次「『人代』—その神の忘却と隠蔽についての素描」『金光教学』21、1981年。
荒木美智雄「宗教的自叙伝としての『金光大神御覚書』と『お知らせ事覚帳』—その宗教学的意味について」『金光教学』23、1983年。
井上順孝・島薗進「回心論再考」、上田閑照編『宗教学のすすめ』筑摩書房、1985年。
早川公明「『此方』考—『覚書』『覚帳』テキスト分析ノート」『金光教学』25、1985年。
福嶋義次「神としての『天地』—金光大神理解研究ノート」『金光教学』25、1985年。
岩本徳雄「『不浄・汚れ』に関する金光大神理解—その背景と意味について」『金光教学』26、1986年。
松沢光明「明治2年3月15日の神伝に関する一考察」『金光教学』26、1986年。
川村邦光「教祖のドラマトゥルギー—カリスマの制度化と継承」宗教社会学研究会編『教祖とその周辺』雄山閣、1987年。
早川公明「『金光大神御覚書』『お知らせ事覚帳』とレトリック—『覚書』『覚帳』のテクスト分析ノート」『金光教学』27、1987年。
福嶋義次「死を前にした金光大神—『身代わり』考」『金光教学』28、1988年。
早川公明「『覚書』『覚帳』の執筆当初における視点の相違について」『金光教学』29、1989年。
弓山 達也「新宗教における「教え」の成立過程金光大神のばあい」『Journal of religious studies』63(3)、日本宗教学会、1989年。
福嶋義次「赤沢文治—金光教の開祖と民衆教化」、農文協『人づくり風土記』33、1989年。
竹部教雄「神名としての『天地金乃神』考—追体験的思考による『立教神伝』」『金光教学』30、1990年。
竹部弘「『お知らせ事覚帳』に見られる『お知らせ』の考察」『金光教学』30、1990年
竹部弘「明治期の金光大神と神・歴史・時間—『神代』の歴史意識をめぐって『金光教学』31、1991年」。
岡成敏正「『覚帳』に見られる親子関係についての一考察—金光大神とその長男浅吉の生活史を中心として」『金光教学』32、1992年。
竹部弘「金光大神晩年の『世界』像と『天地』観—明治10年7月29日の神伝をめぐって」『金光教学』33、1993年。
福嶋信吉「教団と救い」『東京大学宗教学年報』11、1994年。
桂島宣弘「『病気』と『直し』の言説—赤沢文治・近代への路程」『江戸の思想』1、1995年。
生咲 恭仁彦「ふるさと文化探訪 史話・瀬戸内の文化人(89)金光大神」『岡山経済』26(307)、4851、岡山経済研究所、2003年。
池田 道男「「天地金乃神」について金光大神御理解集を中心にして (〔神道宗教学会〕第57回学術大会紀要号) — (研究発表 第二部会)」『神道宗教』194、155157、神道宗教学会 、2004年。
渡辺 勝義「日本精神文化の根底にあるもの(11) 「神道の生死観」について」『長崎ウエスレヤン大学現代社会学部紀要』10、2012年。
水内 勇太「「不可解さ」へ向けて : 金光大神『お知らせ事覚帳』研究方法序説 (露口卓也先生 退職記念論文集)」『文化学年報』63、242271、2014年。
+事典・略伝等『新宗教教団・人物事典』

*国史大辞典、神道事典、神道辞典、神道人名辞典、神道大辞典
+略年譜文化11年(1814) 8月16日、農民であった父・香取十平、母・志もの次男として備中の国占見村香取に生まれる[教祖の生涯]。
文政8年(1825) 11月26日、遠縁にあたる大谷村の川手粂治郎の養子となり、名を川手文次郎と改める[大神の生涯]。
文政9年(1826)生涯の師と仰ぐことになる大谷村の庄屋・小野光右衛門のもとで手習いを受けはじめる[大神の生涯]。
天保3年(1832) 領主名との関係で、養父・粂治郎は多郎左衛門、文治郎は国太郎と改名する[大神の生涯]。
天保7年(1836) 8月6日、多郎左衛門が死去する。養父の遺言によって、川手姓からもとの赤沢姓へと改姓する。12月14日、古川八百蔵の長女とせと結婚する[大神の生涯]。
天保8年(1838) 3月、居宅にはじめての増築を行い、日柄をみて風呂場と便所を新築する[大神の生涯]。
天保10年(1839) 6月、長男亀太郎が生まれる[大神の生涯]。
天保13年(1842) 8月、亀太郎早世。10月、次男槙右衛門出生[大神の生涯]。
天保14年(1843) 家の南南東に門納屋を建てることを思いつき、日柄方角を調べ上げ、翌年1月26日に完成させる[大神の生涯]。
弘化元年(1844) 国太郎の名を再び改め直し、文治に戻る[教祖の生涯]。
弘化2年(1846) 2月、3男・延治郎(後の浅吉、金吉)出生[教祖の生涯]。
弘化4年(1847) 9月、長女ちせが生まれるが、翌年6月に亡くなる[大神の生涯]。
嘉永2年(1849) 4月、四男茂平(後の石之丞、萩雄)出生[教祖の生涯]。
嘉永3年(1850) 1月4日、前年の暮れに持ち込まれた隣村の青木竹次郎の母屋買取の話について、小野光右衛門から改めて日柄方位の指示を受ける。3月、指示に従い仮移転をする。5月、次男の槙右衛門が急死。残る二児にも湿疹が出る。8月3日、これまでの住居を取り壊す作業に先立って金神に拝礼する。8月28日、予定通りに移転を終え、金神の神棚を整え普請成就の御礼をする。[大神の生涯]。
嘉永4年(1851) 12月15日、二女くら生まれる[大神の生涯]。
安政元年(1854) 12月25日、五男宇之丞(後の虎吉、宅吉)出生。「四十二の二歳子」であったため、子の生まれ年の祭り変えをする[教祖の生涯]。
安政2年(1855) 4月25日夜より当時難病とされた喉痺を患い、医師から「九死一生」と告げられる。4月29日、義弟・古川治郎が病気平癒の祈祷をする。治郎は神がかりにおちいり、金神に無礼をしていると宣べる。文治は病床から声を振り絞って神に詫びを述べる。これを機に文治の病は快方に向かう[大神の生涯]。
安政4年(1857) 10月13日、実弟・香取繁右衛門の身に金神がかかり、亀山村の難波家に金神の宮の建築を頼まれる。11月9日、難波家の建築が完成し、新居に金神を移す[大神の生涯]。
安政5年(1858) 元日、繁右衛門にかかった金神から「金乃神下葉の氏子」に取り立てられる(「神門拍手」)。1月17日、三女この生まれる。3月15日、文治は自分の手が神の「お知らせ」を受けていることを悟る。7月13日、金乃神の「ことば」が文治の口から出るようになる。9月23日、神命によって金乃神の「一乃弟子」となる。12月24日、「文治大明神」の名を神から授かる[大伸の生涯]。
安政6年(1859) 元旦に隠居を願い出よとの神命を受け、庄屋に隠居を願い出る。6月10日、「金子大明神」と神号を改める。10月21日、家業をやめて取次ぎに専念せよとの神命が下る(「立教神伝」)[大伸の生涯]。
万延元年(1860) 12月、田地を売り渡せとの神命を受け、妻の実家である古川家に譲渡する[大神の生涯]。
文久元年(1861) 元旦、東長屋を建てよとの神命を受ける[大神の生涯]。
文久2年(1862) 11月23日、「金光大明神」の神号を授かる[大神の生涯]。
文久4年(1864) 元日、社殿造営の神命を受ける[大神の生涯]。
元治元年(1864) 4月9日、神道家元の白川家に入門。「金神の宮」の建立を白川家から内諾を得る。6月10日、「湯、行水御差留」の神命を受ける。10月24日 「金光大権現」の神号へと進み、妻とせも「一子明神」の神号を授かる。[教祖の生涯]。
慶応元年(1865) 白川家によって神拝許状を受ける[創始者伝]。
慶応3年(1867) 2月22日、白川家より神主職補任状を下附される。3月11日、藩から名字帯刀を許され「金光文治」と名乗った後、藩庁に「金光河内」への改名を願い出る。4月、藩庁に社殿の建立を正式に願い出る[大神の生涯]。また、この頃から「お知らせ覚書帳」の執筆をはじめる[創始者伝]。
明治元年(1868) 9月24日、「生神金光大神」と神号を授かる。11月1日、子女にも神号が許される[大神の生涯]。
明治4年(1871) 10月、浅尾県庁から、神職の免職の通達を受ける[創始者伝]。
明治5年(1872) 2月、戸籍の作成にあたり姓を「金光」、名を「大神」と届け出るが、「神」とは不穏当であるとされ、戸籍名は「大陣」とされる。9月、社殿の建立も許されないことが明らかとなり、中断となる。11月、小田県の命により神前奉仕を禁じられる[大神の生涯]。
明治6年(1873) 2月17日、神前撤去を命じられ、翌日午後に撤去を終える。19日から広前を退いて、控えの間での祈念の生活に入る。3月15日、「天地金乃神、生神金光大神、一心に願、お陰は和賀心にあり」との書附をつくる。4月11日、この書附に「今月今日でたのめい」との終句が加えられ、「天地書附」の形式が定まる。これによって神名、金光教の神観が確定する。3月22日、取次ぎを内々に再開する。10月10日、出社はすべて「金光大神一乃弟子」と呼ぶことに改めよとの神命を受ける[大神の生涯]。
明治7年(1875) 11月23日、自伝「金光大神覚」の述作にとりかかる[大神の生涯]。
明治9年(1876) 11月、岡山県令にあてて「敬神教育之義」を願い出、取次ぎに対する県当局の黙認をえる[大神の生涯]。
明治16年(1883) 7月1日から最後の修行として「百日修行」に入る。9月27日、この日かぎりで広前を退く。10月10日、死去[創始者伝」。
+主要著作金光教本部教庁『金光大神覚』金光教本部教庁、1972年。
高橋一邦訳『現代語訳金光大神覚』金光教本部教庁、1977年。
村上重良校注『金光大神覚—民衆宗教の聖典・金光教』平凡社、1977年。
金光大神著、村上重良校注『金光大神覚 : 民衆宗教の聖典・金光教』平凡社、2003年。
+キーワード(1)教派神道(神道教派)
データベースの典拠「大神の生涯」=村上重良『金光大神の生涯』講談社、1972年。
「教祖の生涯」=瀬戸美喜雄『金光教祖の生涯』教学叢書2、金光教学研究所、1980年。
「創始者伝」=瀬戸美喜雄『新宗教創始者伝・金光教—金光大神の生涯と信仰』講談社、1985年。
-106850 50 2018/02/27 kota.saito 本登録 0 JMK000032 金光大神 KONKO Daijin 金光大神 KONKO Daijin 文化11年(1814)〜明治16年(1893) こんこう だいじん / KONKO Daijin / 男 こんこう だいじん 〔幼名〕源七[教祖の生涯]
〔名〕文次郎、国太郎、文治、大陣[教祖の生涯]
〔号〕文治大明神、金子大明神、金光大明神、金光大権現、生神金光大神[大神の生涯] 文化11年(1814)8月16日[教祖の生涯] 明治16年(1893)10月10日[大神の生涯] 金光教 金光大陣『金光教祖神誡正傳』1900年。
金光大陣『金光大教 : 完』1904年。
金光大陣『金光教』1912年。
金光大陣『金光大教』1912年
碧瑠璃園『金光教祖』宗徳書院・興風書院、1912年。
渡辺霞亭『金光教祖』教育勅語実会、1923年。
初代白神先生追慕記念会『金光教祖と白神初代』同、1923年。
早田玄洞『金光教祖とその教義』山陽新報社出版部、1930年。
中山慶一『教派神道の発生過程』森山書店、1932年。
青山茂『教祖さま』金光教徒社、1933年。
大西利夫『金光教祖物語』宝文館、1933年。
佐古信宜『神の人金光さま』言海書房、1936年。
鶴藤幾太『教派神道の研究』大興社、1939年。
青木茂『金光教祖伝』金光教徒社、1948年。
金光教本部教庁『金光大神』(縮小版)金光教本部教庁、1953年。
金光教本部教庁『金光大神総索引註釈人物志年表』金光教本部教庁、1955年金光大明神。
小野敏夫『金光教祖の生活態度 御伝記「金光大神」をいただいて』金光教徒社、1956年。
高橋正雄『「金光大神」を頂いて』上下、金光教本部教庁、1958−1959年。
村上重良『近代民衆宗教史の研究』増訂版、1963年。
村上重良・安丸良夫校注、『民衆宗教の思想』「金光大神覚」「金光大神理解 (抄)」日本思想体系67、岩波書店、1971年。
金光教本部教庁『金光大神覚』金光教本部教庁、1972年。
丸山照雄編『変革期の宗教』伝統と現代叢書、伝統と現代社、現代ジャーナリズム出版会、1972、74年。
☆村上重良『金光大神の生涯』講談社、1972年。
丸山照雄編『金光と大本 : 教典その心と読み方』河出書房新社、1975年。
高橋一邦訳『現代語訳金光大神覚』金光教本部教庁、1977年。
村上重良校注『金光大神覚—民衆宗教の聖典・金光教』平凡社、1977年。
西川澄『助かってくれい : 金光大神の願いにそいて』講談社、1979年。
☆瀬戸美喜雄『金光教祖の生涯』教学叢書2、金光教学研究所、1980年。
山縣二雄文、花田富士雄写真『金光大神』山陽カラーシリーズ 別巻、山陽新聞社、1981年。
金光教本部教庁『金光大神』金光教本部教庁、1982年。
金光教本部教庁編『金光教教典』金光教本部教庁、1983年。
窪田英樹『神と人と : 金光大神の歩み』三交社、1983年。
☆瀬戸美喜雄『新宗教創始者伝・金光教—金光大神の生涯と信仰』講談社、1985年。
丸山照雄編、 大場正範 [ほか]著『金光と大本 : 教典その心と読み方』現代人の宗教3、御茶の水書房、1986年。
金光教本部教庁編『金光教教典用語索引』金光教本部教庁、1987年。
田中義能『神道十三派の研究』第一書房、1987年(『金光教の研究』日本学術研究会、1934年を収録)。
金光教本部教庁 編『天地は語る—金光教教典抄』金光教本部教庁、1989年。
福嶋義次『天地世界をつつむ : 金光大神の大いなる信仰世界』金光教本部教庁、1991年。
『新訳金光大神御覚書』金光教走社、1992年。
金光教笠岡教会『陰徳 : 笠岡金光大神の信心を今に頂く』金光教笠岡教会、1995年。
青木茂『笠岡金光大神』金光教笠岡教会、1995年。
金光大神著、村上重良校注『金光大神覚—民衆宗教の聖典・金光教』平凡社、2003年。 渡辺順一「天地の規範と生神の道伝え—『覚帳』の向明神、白神についての記述内容をめぐって」『金光教学』33、1933年。
高橋 博志「教学の根本問題--生神金光大神と教祖」『金光教学』10、1−17、金光教徒社、1952年。
高橋 博志「生神金光大神の両面性について」『金光教学』13、1−16、金光教徒社、1953年。
岩本徳雄「金光大神における食の教義」『金光教学』24、1954年。
和泉乙三「金光大神と六根清浄祓」『金光教学』14、1−5、金光教徒社、1954年。
大淵千仞「教祖の信心について」上中、『金光教学』1、1958・59年。
内田守昌「信心の基本構造—安政5年〜6年の教祖を中心として」『金光教学』1、1958年。
金光真整「教祖と神との関係について一考察」1、『金光教学』2、1959年。
松井雄太郎「生神の意味—文治大明神について」『金光教学』3、1960年。
松岡道雄「教祖における人間形成について—42才までを中心として」『金光教学』3、1960年。
矢野信太「『氏子あっての神神あっての氏子』理解の論理的立場について」『金光教学』3、1960年。
岡開造「教祖の信心の基本的性格—42才を中心として」『金光教学』4、1961年。
宮田真喜雄「金光教における死の意味—教祖の生死に対する態度について」『金光教学』5、1962年。
内田守昌「教祖における布教の意義」『金光教学』6、1963年。
三矢田守秋「教祖一家の農業経済についての一考察—近世大谷村農地の実情」『金光教学』7、1964年。
瀬戸美喜雄「教祖の信心の基本的特性—現実生活との関係を中心として」『金光教学』7、1964年。
藤村真佐枝「教祖の信心における道理の自覚について」『金光教学』7、1964年。
福嶋義次「『秋浮塵子』の事蹟について—『御覚書』解釈のための試論」『金光教学』8、1968年。
金光真整「金光大神御覚書の読み方について」『金光教学』9、1969年。
沢田重信「信心・布教・政治—金光大神御覚書、明治6年『神前撤去』の解釈」『金光教学』9、1969年。
高橋行地郎「37才の教祖—その苦しみのとき」『金光教学』9、1969年。
竹部教雄「安政5年12月24日のお知らせの一解釈」『金光教学』9、1969年。
福嶋義次「安政5年7月における精霊回向の事跡解釈—伝承の世界と信仰の世界」『金光教学』9、1969年。
瀬戸美喜雄「教祖42歳の大患の事跡について」1・2、『金光教学』10・12、1970・72年。
福嶋義次「一乃弟子もらいうけをめぐる金神と天照皇大神の問答—伝承の世界と信仰の世界—」『金光教学』10、1970年。
高橋行地郎「教祖における信心展開の意味構造—『月の三日参り』の意味をたずねて」『金光教学』11、1971年。
真鍋司朗「33才の教祖—四国めぐりの意味をたずねて」『金光教学』11、1971年。
小沢浩「幕末における民衆宗教運動の歴史的性格—川手文治郎の思想形成と金光教の成立をめぐって」『歴史学研究』384、1972年。
沢田重信「金光大神における出社の意義—明治6年8月19日のお知らせの一解釈」『金光教学』12、1972年。
福嶋義次「維新期における教祖の視座」『金光教学』12、1972年。
金光和道「大谷村と巡見使—金光教祖と巡見使」『金光教学』13、1973年。
高橋行地郎「文治大明神誕生過程の考察—金神の悪神性との関係を視点にして」『金光教学』13、1973年。
真鍋司朗「民衆宗教の論理—金神信仰の系譜とその深化」『金光教学』13、1973年。
瀬戸美喜雄「近世後期大谷村の社会・経済状況について」『金光教学』14、1974年。
高橋行地郎「生神金光大神社についての一考察—金子大明神の誕生過程を視座に」『金光教学』13、1973年。
真鍋司朗「民衆宗教の論理—金神信仰の系譜とその深化」『金光教学』13、1973年。
三重野 晋一「金光大神覚(こんこうだじんおぼえ)にみる農民の智恵 」『Agriculture and horticulture』養賢堂 49(11)、1974年。
瀬戸美喜雄「近世後期大谷村の社会・経済状況について」『金光教学』14、1974年。
高橋行地郎「生神金光大神社についての一考察—金子大明神の誕生過程を視座に」『金光教学』15、1975年。
高橋一郎「新興宗教論ー金光教について」『試行』44、1975年。
早川公明「修験者との触衝過程に関する一考察—尊滝院許状の取得から返却に至る過程分析」『金光教学』16、1976年。
福嶋義次「『理解』のことばについて—金光大神理解研究ノート」『金光教学』16、1976年。
瀬戸美喜雄「神の怒りと負け手—明治6年10月10日の神伝をめぐって」『金光教学』17、1977年。
福嶋義次「金神、その神性開示について—金光大神理解研究ノート」『金光教学』18、1978年。
岩本徳雄「日天四と金光大神」『金光教学』18、1978年。
石河道明「天地書附の生成過程に関する一考察—生神金光大神研究」『金光教学』19、1979年。
島薗進「金光教学と人間教祖論—金光教の発生序説」『筑波大学哲学思想学系論集』4、1979年。
福嶋義次「時節考—金光大神理解研究ノート」『金光教学』19、1979年。
荒木美智雄「周縁と新しい人間—金光教祖の場合」『思想の科学』55-11、1980年。
岩本徳雄「神名について」『金光教学』20、1980年。
島薗進「宗教の近代化—赤沢文治と日柄方位信仰」、五来重編『講座日本の民俗宗教』5、弘文堂、1980年。
島薗進「金神・厄年・精霊—赤沢文治の宗教的孤独の生成」『筑波大学哲学思想学系論集』5、1980。
島薗進「民俗宗教の構造的変動と赤沢文治と石鎚講」『筑波大学哲学思想学系論集』6、1980年。
高橋行地郎「金光大神の救済観—内信心を視点にして」『金光教学』20、1980年。
福嶋義次「『人代』—その神の忘却と隠蔽についての素描」『金光教学』21、1981年。
荒木美智雄「宗教的自叙伝としての『金光大神御覚書』と『お知らせ事覚帳』—その宗教学的意味について」『金光教学』23、1983年。
井上順孝・島薗進「回心論再考」、上田閑照編『宗教学のすすめ』筑摩書房、1985年。
早川公明「『此方』考—『覚書』『覚帳』テキスト分析ノート」『金光教学』25、1985年。
福嶋義次「神としての『天地』—金光大神理解研究ノート」『金光教学』25、1985年。
岩本徳雄「『不浄・汚れ』に関する金光大神理解—その背景と意味について」『金光教学』26、1986年。
松沢光明「明治2年3月15日の神伝に関する一考察」『金光教学』26、1986年。
川村邦光「教祖のドラマトゥルギー—カリスマの制度化と継承」宗教社会学研究会編『教祖とその周辺』雄山閣、1987年。
早川公明「『金光大神御覚書』『お知らせ事覚帳』とレトリック—『覚書』『覚帳』のテクスト分析ノート」『金光教学』27、1987年。
福嶋義次「死を前にした金光大神—『身代わり』考」『金光教学』28、1988年。
早川公明「『覚書』『覚帳』の執筆当初における視点の相違について」『金光教学』29、1989年。
弓山 達也「新宗教における「教え」の成立過程--金光大神のばあい」『Journal of religious studies』63(3)、日本宗教学会、1989年。
福嶋義次「赤沢文治—金光教の開祖と民衆教化」、農文協『人づくり風土記』33、1989年。
竹部教雄「神名としての『天地金乃神』考—追体験的思考による『立教神伝』」『金光教学』30、1990年。
竹部弘「『お知らせ事覚帳』に見られる『お知らせ』の考察」『金光教学』30、1990年
竹部弘「明治期の金光大神と神・歴史・時間—『神代』の歴史意識をめぐって『金光教学』31、1991年」。
岡成敏正「『覚帳』に見られる親子関係についての一考察—金光大神とその長男浅吉の生活史を中心として」『金光教学』32、1992年。
竹部弘「金光大神晩年の『世界』像と『天地』観—明治10年7月29日の神伝をめぐって」『金光教学』33、1993年。
福嶋信吉「教団と救い」『東京大学宗教学年報』11、1994年。
桂島宣弘「『病気』と『直し』の言説—赤沢文治・近代への路程」『江戸の思想』1、1995年。
生咲 恭仁彦「ふるさと文化探訪 史話・瀬戸内の文化人(89)金光大神」『岡山経済』26(307)、48-51、岡山経済研究所、2003年。
池田 道男「「天地金乃神」について--金光大神御理解集を中心にして (〔神道宗教学会〕第57回学術大会紀要号) — (研究発表 第二部会)」『神道宗教』194、155-157、神道宗教学会 、2004年。
渡辺 勝義「日本精神文化の根底にあるもの(11) 「神道の生死観」について」『長崎ウエスレヤン大学現代社会学部紀要』10、2012年。
水内 勇太「「不可解さ」へ向けて : 金光大神『お知らせ事覚帳』研究方法序説 (露口卓也先生 退職記念論文集)」『文化学年報』63、242-271、2014年。 『新宗教教団・人物事典』

*国史大辞典、神道事典、神道辞典、神道人名辞典、神道大辞典 文化11年(1814) 8月16日、農民であった父・香取十平、母・志もの次男として備中の国占見村香取に生まれる[教祖の生涯]。
文政8年(1825) 11月26日、遠縁にあたる大谷村の川手粂治郎の養子となり、名を川手文次郎と改める[大神の生涯]。
文政9年(1826)生涯の師と仰ぐことになる大谷村の庄屋・小野光右衛門のもとで手習いを受けはじめる[大神の生涯]。
天保3年(1832) 領主名との関係で、養父・粂治郎は多郎左衛門、文治郎は国太郎と改名する[大神の生涯]。
天保7年(1836) 8月6日、多郎左衛門が死去する。養父の遺言によって、川手姓からもとの赤沢姓へと改姓する。12月14日、古川八百蔵の長女とせと結婚する[大神の生涯]。
天保8年(1838) 3月、居宅にはじめての増築を行い、日柄をみて風呂場と便所を新築する[大神の生涯]。
天保10年(1839) 6月、長男亀太郎が生まれる[大神の生涯]。
天保13年(1842) 8月、亀太郎早世。10月、次男槙右衛門出生[大神の生涯]。
天保14年(1843) 家の南南東に門納屋を建てることを思いつき、日柄方角を調べ上げ、翌年1月26日に完成させる[大神の生涯]。
弘化元年(1844) 国太郎の名を再び改め直し、文治に戻る[教祖の生涯]。
弘化2年(1846) 2月、3男・延治郎(後の浅吉、金吉)出生[教祖の生涯]。
弘化4年(1847) 9月、長女ちせが生まれるが、翌年6月に亡くなる[大神の生涯]。
嘉永2年(1849) 4月、四男茂平(後の石之丞、萩雄)出生[教祖の生涯]。
嘉永3年(1850) 1月4日、前年の暮れに持ち込まれた隣村の青木竹次郎の母屋買取の話について、小野光右衛門から改めて日柄方位の指示を受ける。3月、指示に従い仮移転をする。5月、次男の槙右衛門が急死。残る二児にも湿疹が出る。8月3日、これまでの住居を取り壊す作業に先立って金神に拝礼する。8月28日、予定通りに移転を終え、金神の神棚を整え普請成就の御礼をする。[大神の生涯]。
嘉永4年(1851) 12月15日、二女くら生まれる[大神の生涯]。
安政元年(1854) 12月25日、五男宇之丞(後の虎吉、宅吉)出生。「四十二の二歳子」であったため、子の生まれ年の祭り変えをする[教祖の生涯]。
安政2年(1855) 4月25日夜より当時難病とされた喉痺を患い、医師から「九死一生」と告げられる。4月29日、義弟・古川治郎が病気平癒の祈祷をする。治郎は神がかりにおちいり、金神に無礼をしていると宣べる。文治は病床から声を振り絞って神に詫びを述べる。これを機に文治の病は快方に向かう[大神の生涯]。
安政4年(1857) 10月13日、実弟・香取繁右衛門の身に金神がかかり、亀山村の難波家に金神の宮の建築を頼まれる。11月9日、難波家の建築が完成し、新居に金神を移す[大神の生涯]。
安政5年(1858) 元日、繁右衛門にかかった金神から「金乃神下葉の氏子」に取り立てられる(「神門拍手」)。1月17日、三女この生まれる。3月15日、文治は自分の手が神の「お知らせ」を受けていることを悟る。7月13日、金乃神の「ことば」が文治の口から出るようになる。9月23日、神命によって金乃神の「一乃弟子」となる。12月24日、「文治大明神」の名を神から授かる[大伸の生涯]。
安政6年(1859) 元旦に隠居を願い出よとの神命を受け、庄屋に隠居を願い出る。6月10日、「金子大明神」と神号を改める。10月21日、家業をやめて取次ぎに専念せよとの神命が下る(「立教神伝」)[大伸の生涯]。
万延元年(1860) 12月、田地を売り渡せとの神命を受け、妻の実家である古川家に譲渡する[大神の生涯]。
文久元年(1861) 元旦、東長屋を建てよとの神命を受ける[大神の生涯]。
文久2年(1862) 11月23日、「金光大明神」の神号を授かる[大神の生涯]。
文久4年(1864) 元日、社殿造営の神命を受ける[大神の生涯]。
元治元年(1864) 4月9日、神道家元の白川家に入門。「金神の宮」の建立を白川家から内諾を得る。6月10日、「湯、行水御差留」の神命を受ける。10月24日 「金光大権現」の神号へと進み、妻とせも「一子明神」の神号を授かる。[教祖の生涯]。
慶応元年(1865) 白川家によって神拝許状を受ける[創始者伝]。
慶応3年(1867) 2月22日、白川家より神主職補任状を下附される。3月11日、藩から名字帯刀を許され「金光文治」と名乗った後、藩庁に「金光河内」への改名を願い出る。4月、藩庁に社殿の建立を正式に願い出る[大神の生涯]。また、この頃から「お知らせ覚書帳」の執筆をはじめる[創始者伝]。
明治元年(1868) 9月24日、「生神金光大神」と神号を授かる。11月1日、子女にも神号が許される[大神の生涯]。
明治4年(1871) 10月、浅尾県庁から、神職の免職の通達を受ける[創始者伝]。
明治5年(1872) 2月、戸籍の作成にあたり姓を「金光」、名を「大神」と届け出るが、「神」とは不穏当であるとされ、戸籍名は「大陣」とされる。9月、社殿の建立も許されないことが明らかとなり、中断となる。11月、小田県の命により神前奉仕を禁じられる[大神の生涯]。
明治6年(1873) 2月17日、神前撤去を命じられ、翌日午後に撤去を終える。19日から広前を退いて、控えの間での祈念の生活に入る。3月15日、「天地金乃神、生神金光大神、一心に願、お陰は和賀心にあり」との書附をつくる。4月11日、この書附に「今月今日でたのめい」との終句が加えられ、「天地書附」の形式が定まる。これによって神名、金光教の神観が確定する。3月22日、取次ぎを内々に再開する。10月10日、出社はすべて「金光大神一乃弟子」と呼ぶことに改めよとの神命を受ける[大神の生涯]。
明治7年(1875) 11月23日、自伝「金光大神覚」の述作にとりかかる[大神の生涯]。
明治9年(1876) 11月、岡山県令にあてて「敬神教育之義」を願い出、取次ぎに対する県当局の黙認をえる[大神の生涯]。
明治16年(1883) 7月1日から最後の修行として「百日修行」に入る。9月27日、この日かぎりで広前を退く。10月10日、死去[創始者伝」。 - 金光教本部教庁『金光大神覚』金光教本部教庁、1972年。
高橋一邦訳『現代語訳金光大神覚』金光教本部教庁、1977年。
村上重良校注『金光大神覚—民衆宗教の聖典・金光教』平凡社、1977年。
金光大神著、村上重良校注『金光大神覚 : 民衆宗教の聖典・金光教』平凡社、2003年。 教派神道(神道教派) - - - - - - - 文化~慶応 明治0年代 明治10年代 - - - - - - - 「大神の生涯」=村上重良『金光大神の生涯』講談社、1972年。
「教祖の生涯」=瀬戸美喜雄『金光教祖の生涯』教学叢書2、金光教学研究所、1980年。
「創始者伝」=瀬戸美喜雄『新宗教創始者伝・金光教—金光大神の生涯と信仰』講談社、1985年。 - 1
資料ID40193

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