有栖川宮幟仁親王

大分類明治期国学・神道・宗教関係人物データベース
分野分類 CB宗教学・神道学
人名有栖川宮幟仁親王
+読み仮名 / NAME / 性別ありすがわのみや たかひとしんのう / ARISUGAWANOMIYA Takahito Shinno / 男
+別称〔幼名〕八穂宮(やほのみや)[略年譜]
+生年月日文化9年(1812)1月5日[略年譜]
+没年月日明治19年(1886)1月24日[略年譜]
学統・宗派有栖川宮韶仁親王[略年譜]
+研究書・伝記『総裁有栖川宮幟仁親王御事蹟』皇典講究所、1936年。
神崎一作『神道總裁有栖川宮幟仁親王と明治神道界の一班』宣揚社、1936年。
『幟仁親王日記』上・中・下・附録、高松宮家、1936〜7年。
『有栖川宮総記』高松宮家、1940年。
国学院大学八十五年史編纂委員会編『国学院大学八十五年史』国学院大学、1970年。
武田勝蔵『有栖川宮家について』高松宮家、1974年。
『有栖川宮幟仁親王妃廣子命御事蹟—昭和五十年七月九日百年式年祭に当たって』高松宮家、1975年。
日本史籍協会編『幟仁親王日記』4冊、東京大学出版会、1976年。
国学院大学八十五年史編纂委員会編『国学院大学八十五年史 史料篇』国学院大学、1979年。
『有栖川宮幟仁親王御事蹟—昭和六十一年一月二十四日百年祭に当って』高松宮、1986年。
國學院大學校史資料課編『國學院大學百年史』上、國學院大學、1994年。
☆岩壁義光監修・解説『近世有栖川宮歴代行実集成7 幟仁親王行實』ゆまに書房、2012年(復刻版)。
+研究論文武田勝蔵「有栖川宮と飯田忠彦」『史学』33、1924年。
佐伯有義「幟仁親王行実を拝読す」『神社協会雑誌』3210、1933年。
山田統「告論〔本学の建学の精神、有栖川幟仁親王による〕と宋学」『國學院雜誌』752、1974年。
上田賢治「初代総裁有栖川宮幟仁親王殿下百年祭記念講演—皇典講究所の創立と国学の精神」『國學院大學学報』313、1986年。
藤井貞文「有栖川宮幟仁親王」『皇典講究所草創期の人びと』国学院大学、1982年〔國學院大學日本文化研究所編刊『國學院黎明期の群像』〈1998年〉に再録〕。
秋元信英「『有栖川宮幟仁親王日記』の文化史的特質」『國學院短期大学紀要』26、2009年。
秋元信英「『有栖川宮幟仁親王日記』の茶道文化史的特質」『國學院大學伝統文化リサーチセンター研究紀要』1、2009年。
秋元信英「明治十九年、皇典講究所の官費を請願」『國學院大學伝統文化リサーチセンター研究紀要』3、2011年。
並木昌史「有栖川宮家の江戸時代—初代好仁親王から八代幟仁親王まで」中部日本放送編刊『宮廷の雅—有栖川宮家から高松宮家へ』2011年。
堀口修「歴読古文書講座 その七 五箇条の御誓文 幟仁親王御筆」『歴史読本』579、2012年。
廣田吉崇「明治前期の「貴紳の茶の湯」—『幟仁親王日記』および『東久世通禧日記』にみる喫茶文化の状況」『日本研究』45、2012年。
+事典・略伝等時山弥八『関八州名墓誌』明治堂書店、1926年。
『神道人名辞典』神社新報社、1986年。
+略年譜文化9年(1812) 1月5日、島岡俊章の家で誕生、八穂宮(やほのみや)と称する[略年譜]。
文政3年(1820) 6月7日、父宮につき歌道を学ぶ。10月10日、治部権大輔による論語学の講義を受ける[略年譜]。
文政5年(1822) 11月15日、光格天皇の猶子となる[略年譜]。
文政6年(1823) 9月23日、12歳で親王宣下、幟仁の名を受ける。10月21日、元服[略年譜]。
文政10年(1827) 9月10日、飛鳥井雅光につき鞠道を学ぶ[略年譜]。
天保6年(1835) 5月16日、父宮より能書方の伝授を受ける[略年譜]。
弘化4年(1847) 8月4日、中務卿に就任。8月25日、飛鳥井雅光につき歌道を学ぶ[略年譜]。
安政5年(1858) 12月、阿弥陀住職祐月より五重伝法の伝授を受ける[略年譜]。
元治元年(1864) 5月9日、国事御用掛に就任。7月、蛤御門の変につき不審とされ、参朝を停止され、他行や他人との面会を禁止される[略年譜]。
慶応3年(1867) 1月15日、明治天皇大喪により勅勘を免ぜられる。12月20日、一品叙位[略年譜]。
慶応4年(1868) 1月17日、神祇事務総督に就任。2月20日、議定職、神祇事務局督に就任。3月14日、五箇条御誓文の清書を奉呈する。5月25日、議定職を退任[略年譜]。
明治4年(1871) 7月25日、隠退の請願勅許、家督を熾仁親王に譲る[略年譜]。
明治5年(1872) 3月18日、東京に移住[略年譜]。
明治6年(1873) 6月10日、大教院の依頼により楼門の額字を揮毫[略年譜]。
明治8年(1875) 10月31日、勲一等叙位、旭日大綬章受章[略年譜]。
明治14年(1881) 2月23日、神道教導職総裁に就任。12月1日、神道の精神について奏上[略年譜]。
明治15年(1882) 3月4日、神道教導職総裁を免ぜられ、御親祭御用掛に就任。3月13日、皇典講究所総裁に就任。3月24日、神道総裁に就任。11月4日、皇典講究所開校式[略年譜]。
明治17年(1884) 4月中旬より病床に就く。8月29日、老齢と闘病のため、神道総裁を辞任[略年譜]。
明治18年(1885) 8月頃より胃癌を発症[略年譜]。
明治19年(1886) 1月24日、危篤。大勲位叙位、菊花大綬章受章。同日、75歳で薨去。1月29日、葬儀[略年譜]。
+主要著作有栖川宮幟仁『幟仁親王日記 上・中・下巻・附録』高松宮家、19361937年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916143〕〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916158〕〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916171〕〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916184〕。
+キーワード(1)神祇官(神祇事務局、神祇省)
+キーワード(2)神道家教導職
+キーワード(3)教部省
+キーワード(4)大教院
+キーワード(5)神道事務局
+キーワード(6)皇典講究所(國學院)
データベースの典拠「略年譜」=岩壁義光監修・解説「略年譜」『近世有栖川宮歴代行実集成7 幟仁親王行實』ゆまに書房、2012年(復刻版)。
-106845 50 2018/02/27 kota.saito 本登録 0 JMK000027 有栖川宮幟仁親王 有栖川宮幟仁親王 ARISUGAWANOMIYA Takahito Shinno 文化9年(1812)〜明治19年(1886) ありすがわのみや たかひとしんのう / ARISUGAWANOMIYA Takahito Shinno / 男 ありすがわのみや たかひとしんのう 〔幼名〕八穂宮(やほのみや)[略年譜] 文化9年(1812)1月5日[略年譜] 明治19年(1886)1月24日[略年譜] 有栖川宮韶仁親王[略年譜] 『総裁有栖川宮幟仁親王御事蹟』皇典講究所、1936年。
神崎一作『神道總裁有栖川宮幟仁親王と明治神道界の一班』宣揚社、1936年。
『幟仁親王日記』上・中・下・附録、高松宮家、1936〜7年。
『有栖川宮総記』高松宮家、1940年。
国学院大学八十五年史編纂委員会編『国学院大学八十五年史』国学院大学、1970年。
武田勝蔵『有栖川宮家について』高松宮家、1974年。
『有栖川宮幟仁親王妃廣子命御事蹟—昭和五十年七月九日百年式年祭に当たって』高松宮家、1975年。
日本史籍協会編『幟仁親王日記』4冊、東京大学出版会、1976年。
国学院大学八十五年史編纂委員会編『国学院大学八十五年史 史料篇』国学院大学、1979年。
『有栖川宮幟仁親王御事蹟—昭和六十一年一月二十四日百年祭に当って』高松宮、1986年。
國學院大學校史資料課編『國學院大學百年史』上、國學院大學、1994年。
☆岩壁義光監修・解説『近世有栖川宮歴代行実集成7 幟仁親王行實』ゆまに書房、2012年(復刻版)。 武田勝蔵「有栖川宮と飯田忠彦」『史学』3-3、1924年。
佐伯有義「幟仁親王行実を拝読す」『神社協会雑誌』32-10、1933年。
山田統「告論〔本学の建学の精神、有栖川幟仁親王による〕と宋学」『國學院雜誌』75-2、1974年。
上田賢治「初代総裁有栖川宮幟仁親王殿下百年祭記念講演—皇典講究所の創立と国学の精神」『國學院大學学報』313、1986年。
藤井貞文「有栖川宮幟仁親王」『皇典講究所草創期の人びと』国学院大学、1982年〔國學院大學日本文化研究所編刊『國學院黎明期の群像』〈1998年〉に再録〕。
秋元信英「『有栖川宮幟仁親王日記』の文化史的特質」『國學院短期大学紀要』26、2009年。
秋元信英「『有栖川宮幟仁親王日記』の茶道文化史的特質」『國學院大學伝統文化リサーチセンター研究紀要』1、2009年。
秋元信英「明治十九年、皇典講究所の官費を請願」『國學院大學伝統文化リサーチセンター研究紀要』3、2011年。
並木昌史「有栖川宮家の江戸時代—初代好仁親王から八代幟仁親王まで」中部日本放送編刊『宮廷の雅—有栖川宮家から高松宮家へ』2011年。
堀口修「歴読古文書講座 その七 五箇条の御誓文 幟仁親王御筆」『歴史読本』57-9、2012年。
廣田吉崇「明治前期の「貴紳の茶の湯」—『幟仁親王日記』および『東久世通禧日記』にみる喫茶文化の状況」『日本研究』45、2012年。 時山弥八『関八州名墓誌』明治堂書店、1926年。
『神道人名辞典』神社新報社、1986年。 文化9年(1812) 1月5日、島岡俊章の家で誕生、八穂宮(やほのみや)と称する[略年譜]。
文政3年(1820) 6月7日、父宮につき歌道を学ぶ。10月10日、治部権大輔による論語学の講義を受ける[略年譜]。
文政5年(1822) 11月15日、光格天皇の猶子となる[略年譜]。
文政6年(1823) 9月23日、12歳で親王宣下、幟仁の名を受ける。10月21日、元服[略年譜]。
文政10年(1827) 9月10日、飛鳥井雅光につき鞠道を学ぶ[略年譜]。
天保6年(1835) 5月16日、父宮より能書方の伝授を受ける[略年譜]。
弘化4年(1847) 8月4日、中務卿に就任。8月25日、飛鳥井雅光につき歌道を学ぶ[略年譜]。
安政5年(1858) 12月、阿弥陀住職祐月より五重伝法の伝授を受ける[略年譜]。
元治元年(1864) 5月9日、国事御用掛に就任。7月、蛤御門の変につき不審とされ、参朝を停止され、他行や他人との面会を禁止される[略年譜]。
慶応3年(1867) 1月15日、明治天皇大喪により勅勘を免ぜられる。12月20日、一品叙位[略年譜]。
慶応4年(1868) 1月17日、神祇事務総督に就任。2月20日、議定職、神祇事務局督に就任。3月14日、五箇条御誓文の清書を奉呈する。5月25日、議定職を退任[略年譜]。
明治4年(1871) 7月25日、隠退の請願勅許、家督を熾仁親王に譲る[略年譜]。
明治5年(1872) 3月18日、東京に移住[略年譜]。
明治6年(1873) 6月10日、大教院の依頼により楼門の額字を揮毫[略年譜]。
明治8年(1875) 10月31日、勲一等叙位、旭日大綬章受章[略年譜]。
明治14年(1881) 2月23日、神道教導職総裁に就任。12月1日、神道の精神について奏上[略年譜]。
明治15年(1882) 3月4日、神道教導職総裁を免ぜられ、御親祭御用掛に就任。3月13日、皇典講究所総裁に就任。3月24日、神道総裁に就任。11月4日、皇典講究所開校式[略年譜]。
明治17年(1884) 4月中旬より病床に就く。8月29日、老齢と闘病のため、神道総裁を辞任[略年譜]。
明治18年(1885) 8月頃より胃癌を発症[略年譜]。
明治19年(1886) 1月24日、危篤。大勲位叙位、菊花大綬章受章。同日、75歳で薨去。1月29日、葬儀[略年譜]。 - 有栖川宮幟仁『幟仁親王日記 上・中・下巻・附録』高松宮家、1936-1937年〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916143〕〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916158〕〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916171〕〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916184〕。 神祇官(神祇事務局、神祇省) 神道家教導職 教部省 大教院 神道事務局 皇典講究所(國學院) - - 文化~慶応 明治0年代 明治10年代 - - - - - - - 「略年譜」=岩壁義光監修・解説「略年譜」『近世有栖川宮歴代行実集成7 幟仁親王行實』ゆまに書房、2012年(復刻版)。 - 1
資料ID40188

PageTop