テキスト内容 | 大宮人、大宮所にかかる枕詞。人麿は持統天皇の吉野行幸に従駕して、天皇の支配する天下に優れた国は多くあるが、山川の優れた所として「御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば 百磯城の 大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る」(1-36)と詠む。天皇が宮殿を建てられると、大宮人はその優れた天子のために奉仕するというのである。大宮人に百磯城が掛かるのは、すでに天智天皇挽歌に見える。天皇を山科陵へ葬り退散する時に、額田王は「山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや 百磯城の 大宮人は 行き別れなむ」(2-155)と詠んでいる。ここでの百磯城も枕詞として使われていることから、近江朝時代に認められることになる。「百磯城」というのは、多くの石をもって立てられた城(き)を指すものと思われ、いわば頑丈な石組みの城という意味となる。このような石城が近江朝に登場したのは、おそらく白村江の戦いと関係しよう。百済滅亡により日本に逃れてきた多くの渡来人は、高度な学問や技術を身につけた者であった。天智天皇は新羅からの侵略を恐れ、明日香から急ぎ近江大津の宮へと遷都した。その大津の宮は、周りは急峻な山に囲まれ背後に湖を配置するのであり、明らかに敵からの侵略を防ぐために造られた砦としての役割をはたしたであろう。そこに百磯城が築造されたとすれば、渡来人たちの技術で造られた石城であったに違いない。この時の渡来人が各地に石を廻らせた城を築き、筑紫に水城を築いたことを天智紀が記している。百磯城とは大宮を褒める形容であるが、そこには石組みの頑丈な城が渡来人の手により築造されたことを物語っている。 |
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