テキスト内容 | 死ぬこと。「身=(まか)ル」の意(『時代別国語大辞典』)。山上憶良の「熊凝(くまごり)のためにその志を述ぶる歌に敬和する六首」の序文に、「天の為に幸あらず、路に在りて疾を獲、即ち安芸国佐伯郡高庭の駅家にして身故(みまか)りぬ。」(5-886)とある。大伴君熊凝は肥後国益城郡の人で、年18歳、天平3年6月17日に、相撲の部領使(ことりづかい)の国司某の従者となって、奈良の都に向かった。その父母にとって気の毒なことに、道中で病を得、すぐに安芸国佐伯郡高庭の駅で亡くなった、というのである。その臨終の時に歌った6首の中に、「家にありて 母が取り見ば 慰むる 心はあらまし 死なば死ぬとも〈一に云ふ、「後は死ぬとも」〉」(5-889)がある。この「死」と「身故る」は対応する。万葉集中「みまかる」の確例はこの1例のみ。「故」には、「物故」に「死」の意味があるが、「罷」と同様に、「まかる」という和語に漢字を当てた用法である。死を意味する和語は多くあるが、「罷」をもちいた「まかる」の用例としては、「楽浪(ささなみ)の志賀津の児らが〈一に云ふ、「志賀の津の児が」〉罷(まか)り道(ぢ)の川瀬の道を見ればさぶしも」(2-218)がある。「吉備津采女が死にし時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首」(2-217)の第一短歌である。この「罷り道」が死出の道を指すことは、『続日本紀』宝亀2(771)年2月、左大臣藤原永手が亡くなった時の宣命(51詔)に、「大臣(おほまえつきみ)明日は参出来仕(まゐできつか)へむと待たひ賜ふ間に休息安(やす)まりて参出ます事は無くして天皇(すめら)が朝を置きて罷(まか)り退(いま)すと聞(きこ)し看(め)しておもほさく、」とある「罷り退す」と同様の用い方である。「みまかる」の歌での使用例がなく、「まかる」が死ぬの意で用いられることが少ないのは、注意すべきであろう。死の敬避表現として、比較的新しく成立した語なのかもしれない。 |
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