テキスト内容 | 現在の神戸市灘区岩屋町一帯の海岸。摂津国風土記によると美奴売とは神の名で、神功皇后が新羅へ出発の時、神前まつばら(豊中)で神集いをされたところ、能勢の美奴売山の神様がこられ、わが山にある杉の木をきり船を造り新羅へ行かれるなら、幸いする所ありと数えられた。その通りにすると大成功をおさめた。還る時この地で船が動かなくなったので、占い問うと神の御心であるとお告げがあったことから美奴売の神様をこの地に祀り、船も献上したとある。また敏馬の浦は百船の過ぎて往く(6-1064)と云われるような賑わった港であった。新羅からの使節来朝の折には、生田神社で醸した酒を敏馬浦において給したことが『延喜式』玄番寮に見えている。万葉集羈旅歌には柿本人麻呂が「珠藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の先に舟近づきぬ」(3-250)というように航路の道行きに詠み込まれる地名であり、また大伴旅人の「妹と来し敏馬の崎を還るさに独し見れば涙ぐましも」(3-449)や巻15の「属物発思」の歌に「敏馬=見(み)ぬ妻(め)」から妹への想いを引き出す地名としても詠み込まれる。この敏馬あたりが東西を分ける精神的地点であったのだろう。また「八千桙の 神の御世より 百船の 泊つる泊と 八島国 百船人の 定めてし 敏馬の浦は」(6-1065)とあり大国主・大汝の神話があったものか。 |
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