テキスト内容 | ①御門・宮門(1-52、2-186、11-2568)、②宮殿・皇居(1-50、2-168、3-478)、③朝廷(5-879)、④国の版図(6-973)、国家(19-4245歌の「国家」の通訓はミカドだが、『新大系』はクニイヘと訓む)、⑤天皇(20-4480)。ミカドの意味は①~⑤の順で成立したという。①を原義とし、さらに御門に象徴される宮殿、そして統治機構としての朝廷、また、国の領域や、天皇を暗示する用例も現れる。ただし、各用例において意味が明確に分かれているわけではない。「皇子の御門」では皇子の御所の意とともに儀礼の場でもある「ご門」の原義を残すものもあり、「我が造る日の御門」(1-50)では宮殿と朝廷の意が重なる。その原義としての「御門」では一般の「門」の敬語としての例はなく、すべて宮廷の門や皇子の宮殿の門をいう。溯ると「御門」は宮殿の特定の門を指したと考えられ、これは朝廷の語義とも関係する。まず、朝廷の表記についていえば、「朝廷」と記す例は記・紀に見え、廷と庭とは通用することから、中国の古典や史書には「朝廷」と「朝庭」の両方が見られる。一方、万葉集では「朝庭」と記し(一部古写本には廷の用字もあるが)、『続日本紀』にも原本には「朝庭」と表記したらしい。この「朝庭(みかど)」は宮殿の構造に由来する。推古朝の小墾田宮(をはりだのみや)では、宮は南面し、宮門(南門)を入ると広い空間(これが「朝庭(おほば)」)があり、その東西には政務を行う朝堂が建ち並び、朝庭の北の大門を入ると中庭の向こうに天皇の居所である大殿があった。「御門(みかど)」とは本来この大門のことで、その前庭を「朝庭(みかど)」と称するようにもなった。門が聖域を象徴したのであろう。なお、小墾田宮に至ってはじめて「朝参」や「朝政」の制度が確立したともいう(朝庭の成立を難波長柄豊碕宮(なにはながらとよさきのみや)に見る説もある)。万葉集で「朝庭」と記すのは「遠(とほ)の朝庭(みかど)」の用例に限られ、8例を見る。九州や越中国などに関して用いられることから、都から遠く離れた行政官庁(大宰府や国府)の意、またそこへ派遣される官人を指していうが、「大君の遠の朝廷」あるいは「スメロキの-」、などと用いられるので、辺境の意識も含むものの、天皇の領知する遠方の世界として、それを担う官人としての自負もうかがえる。武田祐吉「御門考」『文学』10巻3号。田村圓澄「『遠の朝廷』考」『古代文化』42巻5号。佐竹昭「朝廷の語義について」『古代文化』46巻9号。 |
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