テキスト内容 | 石上神宮のある奈良県天理市の地名。『延喜式』神名帳には、「山辺郡石上坐布留御魂神社」と見える。その創建の古さから「神さび」た神性が看取されていたものと思われ、「石上 布留の神杉」(10-1927・11-2417)と詠み、また、古人も布留川の瀬音を聞いたかと懐古して「この古川の 清き瀬の音を」(7-1111)と詠むのも神性を感じたものであろう。石上神宮の鎮座地としてよく知られるだけでなく、地理的に大和の中心に位置することもあって、「石上布留の早稲田」(7-1353、9-1768)や「石上布留の高橋」(12-2997)、あるいは「布留の里」(9-1787)、「布留山」(9-1788)と歌われる他、石上乙麻呂を指して「石上 布留の尊は」(6-1019)とも詠まれている。また、掛詞として「雨ふる川の」(12-3012)と詠まれているが、特に、「娘子らが 袖布留山の」(4-501)や「石上 袖布留川の」(12-3013)では、万葉に多く詠まれる「袖振り」と結びつく面が注意される。別離における「袖振り」または「ひれ振り」と直接に関わるものではないが、「ふる」という語には「魂振り」の呪術に通じるものが認められる。記上巻のオホナムヂ神話に、蛇・百足・蜂のひれを「ふる」とあることや、『先代旧事本紀』に、苦痛の際に十種の瑞宝を「由良々々止布留部(ゆらゆらとふるへ)」と見えることには、対象の魂に何らかの影響を及ぼす呪術への信仰があろう。ある場合にはそれが「魂鎮め」であり、他方では「魂振り」となるのである。そうした呪術の微かな記憶が、石上神宮の神域の神性と相まって無意識下に歌に詠まれていると言えよう。丹生王(にふのおほきみ)が詠んだという石田王(いはたのおほきみ)挽歌の反歌に「石上 布留の山なる 杉群の 思ひ過ぐべき 君ならなくに」(3-422)と歌うのは、亡き石田王の蘇生を願う思いが、遠い記憶としての「魂振り」に繋がる「ふる」の地を想起させたものと思われる。折口信夫「日本文学の発生―その基礎論―」『全集7』(中央公論社)。 |
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