ふじわらのみや

大分類万葉神事語辞典
分野分類 CB文学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
+項目名ふじわらのみや;ふぢはらのみや;藤原の宮
+項目名(旧かな)ふぢはらのみや
+表記藤原の宮
TitleFujiwaranomiya
テキスト内容694(持統8)年12月から710(和銅3)年3月までの15年余、持統、文武、元明三代にわたる宮。従前の諸宮が天皇一代限りの宮であったのに対して、恒久的な宮として計画、造営された最初の宮である。「藤原宮」の語は紀にも多く見える。宮の名称については「(藤の木蔭に)よい井泉があつたのでそのあたりを藤井が原と呼び、略して藤原ともいひ、そこを中心に宮殿が営まれ、その宮を藤原の宮と呼んだ」(『沢瀉注釈』)というのが通説であるが、「飛鳥浄御原から遷った新宮を「藤原宮」というのは、持統天皇が不比等の本貫地である飛鳥の藤原の地名、または不比等の姓を採って名づけたもの」という反論(土橋寛「「藤原宮御井歌」の政治的性格」『文学第53巻第3号』(岩波書店))も説得力を持つ。宮の場所については『扶桑略記』に「大和国高市郡鷺栖坂地」、『釈日本紀』所引『氏族略記』に「高市郡鷺拪坂北地」とある。しかし、賀茂真淵は『万葉考』で「香山・耳成・畝火の三山の真中也、今も大宮と云て、いさゝかの所を畑にすき残して松立てある是也」と述べ、現在の橿原市高殿町大宮土壇を宮の場所と考えた。本居宣長も同様に「藤原ノ宮と申せしは。このわたりにぞ有けん。今高殿なンどいふ里の名も。さるよしにやあらん。」(『菅笠日記』)としている。近代に入って木村一郎、高橋健自らが大宮土壇説、喜田貞吉が『扶桑略記』等に見える「鷺栖坂」の記述などから鷺栖神社北方の長谷田土壇説を唱えたが、1934(昭和9)年から日本古文化研究所による発掘が行われ、大宮土壇が藤原宮大極殿跡であることが判明した。宮域の推定や宮の構成はその後の発掘調査(『藤原宮─国道165号線バイパスに伴う宮域調査』『奈良県史跡名勝天然記念物調査報告25』(奈良県教育委員会)や岸俊男の研究(『日本古代宮都の研究』岩波書店)などにより飛躍的に進展し、現在なお奈良文化財研究所を中心に調査継続中である。万葉集には1-28、1-50、1-51、1-52、1-53、1-78、1-79、2-105、2-163、3-268、3-416、10-2289、13-3324の歌や題詞、左注に「藤原宮」「藤原京」「藤原」の語が見える。「藤原の宮」という語そのものを神事語彙として位置づけることはできないが、1-52は「藤原宮の御井」の清水が永遠に湧き出る様を藤原の宮の永続繁栄の象徴として歌う。斎藤茂吉は御井の場所を特定すべく検証を行った(「藤原宮御井について」『柿本人麿雑纂篇』岩波書店)が、藤原宮址発掘にあたった足立康(日本古文化研究所)はこの研究を真正面から否定した。また、同歌において藤原宮は東の香具山、西の畝傍山、北の耳成山、南の吉野の山に囲まれた地として歌われているが、(1-38で吉野の山川、神々が天皇に従属奉仕する存在として描かれるのと対照的に)これらの山々は「天皇によって祭られる対象としての山々」、「藤原宮を囲繞しそれを鎮護する四つの聖なる山」として位置づけられているという考察もある(吉田義孝「万葉集における持統朝・序説─藤原宮役民歌・御井の歌を中心に─」『愛知教育大学国語国文学報』第42集)。『延喜式』祝詞「祈年祭」は「御県に坐す皇神等」として「高市」「葛木」「十市」「志貴」「山辺」「曾布」、「山の口に坐す皇神等」として「飛鳥」「石村」「忍坂」「長谷」「畝火」「耳無」、「水分に坐す皇神等」として「吉野」「宇陀」「都祁」「葛木」をあげており、これらが飛鳥諸宮または藤原宮を中心とした四方に位置することから、同祝詞が飛鳥浄御原宮または藤原宮時代に制定されたものであろうと推測されている(大系『古事記 祝詞』)。喜田貞吉『藤原京』(鵤故郷舎出版部)。和田萃「藤原宮の御井の歌」『古代学研究』第94号(古代学研究会)。八木充『研究史飛鳥藤原京』(吉川弘文館)。木下正史『中公新書1681 藤原京 よみがえる日本最初の都城』。小澤毅『日本古代宮都構造の研究』(青木書店)。
+執筆者藤原享和
-68836402009/07/06hoshino.seiji00DSG000662ふじわらのみや;ふぢはらのみや;藤原の宮Fujiwaranomiya694(持統8)年12月から710(和銅3)年3月までの15年余、持統、文武、元明三代にわたる宮。従前の諸宮が天皇一代限りの宮であったのに対して、恒久的な宮として計画、造営された最初の宮である。「藤原宮」の語は紀にも多く見える。宮の名称については「(藤の木蔭に)よい井泉があつたのでそのあたりを藤井が原と呼び、略して藤原ともいひ、そこを中心に宮殿が営まれ、その宮を藤原の宮と呼んだ」(『沢瀉注釈』)というのが通説であるが、「飛鳥浄御原から遷った新宮を「藤原宮」というのは、持統天皇が不比等の本貫地である飛鳥の藤原の地名、または不比等の姓を採って名づけたもの」という反論(土橋寛「「藤原宮御井歌」の政治的性格」『文学第53巻第3号』(岩波書店))も説得力を持つ。宮の場所については『扶桑略記』に「大和国高市郡鷺栖坂地」、『釈日本紀』所引『氏族略記』に「高市郡鷺拪坂北地」とある。しかし、賀茂真淵は『万葉考』で「香山・耳成・畝火の三山の真中也、今も大宮と云て、いさゝかの所を畑にすき残して松立てある是也」と述べ、現在の橿原市高殿町大宮土壇を宮の場所と考えた。本居宣長も同様に「藤原ノ宮と申せしは。このわたりにぞ有けん。今高殿なンどいふ里の名も。さるよしにやあらん。」(『菅笠日記』)としている。近代に入って木村一郎、高橋健自らが大宮土壇説、喜田貞吉が『扶桑略記』等に見える「鷺栖坂」の記述などから鷺栖神社北方の長谷田土壇説を唱えたが、1934(昭和9)年から日本古文化研究所による発掘が行われ、大宮土壇が藤原宮大極殿跡であることが判明した。宮域の推定や宮の構成はその後の発掘調査(『藤原宮─国道165号線バイパスに伴う宮域調査』『奈良県史跡名勝天然記念物調査報告25』(奈良県教育委員会)や岸俊男の研究(『日本古代宮都の研究』岩波書店)などにより飛躍的に進展し、現在なお奈良文化財研究所を中心に調査継続中である。万葉集には1-28、1-50、1-51、1-52、1-53、1-78、1-79、2-105、2-163、3-268、3-416、10-2289、13-3324の歌や題詞、左注に「藤原宮」「藤原京」「藤原」の語が見える。「藤原の宮」という語そのものを神事語彙として位置づけることはできないが、1-52は「藤原宮の御井」の清水が永遠に湧き出る様を藤原の宮の永続繁栄の象徴として歌う。斎藤茂吉は御井の場所を特定すべく検証を行った(「藤原宮御井について」『柿本人麿雑纂篇』岩波書店)が、藤原宮址発掘にあたった足立康(日本古文化研究所)はこの研究を真正面から否定した。また、同歌において藤原宮は東の香具山、西の畝傍山、北の耳成山、南の吉野の山に囲まれた地として歌われているが、(1-38で吉野の山川、神々が天皇に従属奉仕する存在として描かれるのと対照的に)これらの山々は「天皇によって祭られる対象としての山々」、「藤原宮を囲繞しそれを鎮護する四つの聖なる山」として位置づけられているという考察もある(吉田義孝「万葉集における持統朝・序説─藤原宮役民歌・御井の歌を中心に─」『愛知教育大学国語国文学報』第42集)。『延喜式』祝詞「祈年祭」は「御県に坐す皇神等」として「高市」「葛木」「十市」「志貴」「山辺」「曾布」、「山の口に坐す皇神等」として「飛鳥」「石村」「忍坂」「長谷」「畝火」「耳無」、「水分に坐す皇神等」として「吉野」「宇陀」「都祁」「葛木」をあげており、これらが飛鳥諸宮または藤原宮を中心とした四方に位置することから、同祝詞が飛鳥浄御原宮または藤原宮時代に制定されたものであろうと推測されている(大系『古事記 祝詞』)。喜田貞吉『藤原京』(鵤故郷舎出版部)。和田萃「藤原宮の御井の歌」『古代学研究』第94号(古代学研究会)。八木充『研究史飛鳥藤原京』(吉川弘文館)。木下正史『中公新書1681 藤原京 よみがえる日本最初の都城』。小澤毅『日本古代宮都構造の研究』(青木書店)。
,663ふじわらのみやふぢはらのみや藤原の宮藤原享和ふ1
資料ID32272

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