テキスト内容 | 「挽」は柩をひく意。よって、「挽歌」とは、葬送に際して、柩を載せた車をひく者の詠う歌の意。転じて人の死を悼む歌の総称となった。万葉集では、歌を内容で部類するための最も基本的な三つの部立のうちの一つで、雑歌、相聞とならび「三大部立」と称せられており、その由来は『文選』の「挽歌詩」によるという。葬送の歌は言うまでもなく、病中や臨終の作、死者を追悼する歌や、伝説上の人物の死を詠む歌など、広く人の死に関わる歌が集められている。万葉びとにとって、死は肉体から魂が抜け出ることを意味した。従って、万葉集の中でも初期の挽歌にあたる天智天皇の挽歌には天皇の魂が「青旗の木幡の上を通ふ」(2-148)といい、こうして抜け出してしまった魂をつなぎ止めるために「標結」(2-151)ことが詠われた。ところで、万葉集の挽歌の表現史をたどると、柿本人麻呂を契機として挽歌の表現が変わっていることに気づく。例えば、日並皇子の挽歌に皇統を詠み込み、その死を悼み「いかさまに思ほしめせか」(2-167)とかきくどく。あるいは、明日香皇女の挽歌に「形見」(2-196)や「御名」(2-197)を詠み込んで忘れないことをいう表現には、天智天皇の挽歌にうかがえたような招魂的呪術性はなく、人の死を哀しむ心情が前面に打ち出されるようになる。こうしたことは、他でもない、万葉びとの「死」に対する観念の変化と無関係ではなく、制度的にも645(大化2)年に薄葬令が出されるなど、再生を願うよりも、死を哀しむ心情を詠うことによって、死者の魂を慰撫する意義が増していくのである。 |
---|