テキスト内容 | 「にひなへ」「にひなひ」「にはなひ」「にはなみ」「にふなみ」とも。その年の新穀を捧げて神を祭る祭り。祝詞「大嘗祭」に「今年十一月中卯日爾」とあり、11月の中の卯の日に行われたことがわかる。『延喜式』巻7「踐祚大嘗祭」条からも確認できる。ただし奈良時代は下の卯の日に行われた場合もある。この語(事象)は古代の諸文献に多数見出されるが、万葉集には「廿五日新嘗会肆宴応詔歌六首」(19-4273~4278)がある。752(天平勝宝4)年11月25日に開かれた宴で、この日は11月の下の卯の日に当たる。この6首を対象とした必見の研究論文には次のものがある。伊藤博「新嘗会応詔歌六首」(『萬葉集の歌群と配列』〔下〕塙書房 )と、廣岡義隆 「万葉・新嘗会歌群考」(美夫君志会編『万葉学論攷〔松田好夫先生追悼論文集〕』続群書類従完成会)である。とりわけ廣岡論文は、新嘗祭に関わる具体的な文献・資料に密着して説いている。廣岡論文によれば、前半3首すべてに「天地」「天」が詠み込まれ、「天地と相ひ栄えむ」(19-4273)、「天地と久しきまでに」(19-4275)とは「新穀が天地からの最上の賜物であると共に天地悠久の未来を寿ぐといふ新嘗の根幹に関わる観念」を表現したものである。また第3首に歌われた「黒酒白酒(くろきしろき)」は「新嘗会白黒二酒料」(『延喜式』巻40「造酒司」)とあり、新嘗祭に必要不可欠のものであった。また万葉集には「天平宝字元年十一月十八日於内裏肆宴歌二首」(20-4486、4487)がある。757(天平宝字元)年11月18日の干支は「壬辰」であるので、前日の「辛卯」日(中の卯の日)に行われた新嘗祭を引き継いだ「肆宴」(豊明節会(とよのあかりのせちえ))で詠まれた歌である。また万葉集巻14の「東歌」にも、新嘗(にふなみ)が詠まれている。新嘗の祭りに夫を送り出して、自分はひとり残って精進潔斎している女の許に、別の男が言い寄ってきたという歌である(14-3460)。新嘗祭は宮中のみならず、村落共同体でも広く行われていたのである。「東歌」にはもう1首(14-3386)新嘗の歌がある。常陸国風土記「筑波郡」の条には、「駿河国福慈岳(ふじのやま)」(富士山)と「常陸国筑波岳(つくはのやま)」(筑波山)をめぐっての有名な伝承が記し留められている。神祖(みおや)の尊が日暮れに福慈の岳を訪れて一夜の宿りを請うた時、福慈の岳は新粟(わせ)の「初嘗(にひなへ)」中であることを理由に、宿泊を断り、一方、筑波の岳は「新粟嘗(にひなへ)」中であるにも関わらず、神祖の尊を歓待した、その結果、筑波の岳は今にいたるまで大いに栄えているという話しである。 |
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