とおのみかど
とおのみかど
大分類 | 万葉神事語辞典 |
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分野分類 CB | 文学 |
文化財分類 CB | 学術データベース |
資料形式 CB | テキストデータベース |
+項目名 | とおのみかど;とほのみかど;遠の朝廷・遠の朝庭 |
+項目名(旧かな) | とほのみかど |
+表記 | 遠の朝廷・遠の朝庭 |
Title | Tonomikado |
テキスト内容 | 都から遠く離れた地方の政庁、あるいは遠方の政庁に派遣される官人。特に大宰府を指して使用されるほか、国府や新羅の日本の政庁も指す。田村圓澄は「(政庁を指すのではなく)律令体制下の日本全土が、『朝廷』であり、そして遠方の地域が『遠の朝廷』であった。」と考える。中西進は「遠の朝廷」を人麻呂の造語とする。大宰府は和名を「於保美古止毛知乃司(おほみこともちのつかさ)」(『倭名類聚抄』)と言い、福岡県太宰府市に政庁跡等が確認されている。西海道九国三島の管轄や外交使節の接待等を行った朝廷の地方政庁であるが、森弘子は「大君の 遠(とお)の朝廷(みかど)と…(中略)…敵守(あたまも)る おさへの城(き)そと」(20-4331)とあるように、外敵からの防衛の任も課せられていたと考えた。「大宰府」の文献史料上の初見は、天智紀10(671)年11月条である。740(天平12)年9月の大宰少弐藤原広嗣(だざいのしょうにふじわらのひろつぐ)の乱を受けて742(天平14)年正月大宰府は一時廃されたが、 745(天平17)年6月に再置された。中央政府が太政官の上に神祇官を配すように、大宰府では帥(長官)の上に主神(かんつかさ)を置き「諸祭祠事」(養老令)を掌らせた(中央政府と同様、位階は帥より主神が下)。官人構成や諸官衙の設置など、あたかも中央政府を小規模にしたような体裁となっており、「遠の朝廷」の称にふさわしい。万葉集には8例の「トホノミカド」が見えるが、すべて「大君の」、「天皇(すめろき)の」、「食(を)す国の」何れかを冠し、天皇の遠方の政庁、天皇の治める国の遠くへ派遣された官人という表現となっている。中でも(3-304)は遠の朝廷に通う瀬戸内海の諸海峡を見ると「神代」が偲ばれると歌い、国生み神話と重ねて天皇の統治を寿ぐ表現となっている。田村圓澄「『遠の朝廷』考」『古代文化』第42巻第5号。 中西進「『万葉集』と大宰府」『九州歴史資料館開館十周年記念大宰府古文化論叢下巻』(吉川弘文館)。森弘子『太宰府発見』海鳥社。 |
+執筆者 | 藤原享和 |
コンテンツ権利区分 | CC BY-NC |
資料ID | 32178 |
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