テキスト内容 | 遠い昔の神。「とほ」「ちか」は遠近をいう言葉あるが、それは空間と時間の両方に用いられる。「遠つ国」(9-1804)、「遠妻」(4-534)、「遠音」(4-531)は空間である。対して、万葉集の「遠つ神」は時間的遠さをいうものと判断される。祭祀の起源の古さに言及することは、神を讃えることになるので、遠つ神は神への讃辞と考えてよい。「ぬえこ鳥 うらなけ居れば 玉だすき かけのよろしく 遠つ神 我が大君の 行幸の 山越す風の」(1-5)では、「遠つ神」が「我が大君」を修飾しており、天皇を指すものと考えられる。つまり、遠い昔から神として祀られてきて今あるわが天皇という意味であろう。「住吉の 野木の松原 遠つ神 我が大君の 幸行処(いでましどころ)」(3-295)も同様である。この歌では、「住吉の野木の松原」というところは、遠い昔から神として祀られてきた神である天皇、その天皇のお出ましがあった場所であると歌っている。この2例を以って枕詞と認定することはできないけれども、固定的修飾関係が成立していたとすれば、枕詞だった可能性がある。「我が大君」は自らが仕える今上の天皇という意味であるから、その天皇は遠い昔から神として祀られていたと称することが、逆に讃辞として機能するのであろう。もう一つの共通点は、ともに行幸関係歌で使われた修飾句であるということである。つまり、両例に共通しているのは、遠い昔から神として祀られている天皇、その当代の天皇が、今この地に来ている。ないしは、お出ましがあったところだと表現している点である。それは、行幸地においては、天皇は讃えられる存在であり、系譜の古さが強調されるからであろう。天皇を遠つ神と称するのは、その歴史性に依拠して、天皇を讃えるからであると推察できる。 |
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