テキスト内容 | 九州の総称。また、筑前・筑後の総称を意味することもある。福岡県筑紫郡筑紫野町に筑紫の小部落があり、筑紫神社を祀る。本来はこの地方名であったが、筑紫君の勢力増大に伴ってその範囲も拡大し、継体21~22年の磐井の乱後、609(推古17)年4月に初見の筑紫大宰が置かれ、九州全域を統治するようになってから、全島を筑紫と呼ぶようになったと思われる。「大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に」(5-794)とあるように、筑紫の国(大宰府)は都から遠く離れた天皇の行政官庁であり、朝廷において重要な拠点であった。筑紫というのは、中国大陸や韓半島の入り口にも当たり、先進文化が最も早く流入する地点でもあった。韓半島に関して言えば、筑紫の北岸に至れば島影が見えるという。神功皇后が新羅征討に向かう時、胎児(応神天皇)出産を石を用いて鎮めたのも、筑紫の国(筑前国怡土郡深江村子負の原)であった。ここから先は戦場という意識もあったであろうが、また八百万の神々の霊験が現れる最西端という意味もあったのであろう。文化的に見ると、筑紫には多くの文人が集まっており、万葉集巻5などからは、大伴旅人を中心とした大宰府文学圏が存在したことがうかがえる。大宰府が遣唐使の渡唐や帰朝の際、また諸外国の来朝の際の玄関口となっており、大陸文化の影響を特に受けていたと考えられる。「陸奥国の歌」に「筑紫なる にほふ児故に 陸奥の 香取娘子の 結ひし紐解く」(14-3427)というのがあり、筑紫の娘子を「にほふ」といい、娘子を照り輝くばかりに美しいと評価するのである。防人の歌と思われ、昔誓いあった陸奥の娘子との仲も筑紫の娘子の前では、無に帰してしまうのである。文化的に洗練された艶なる筑紫の娘子を思わせる歌である。また、都から筑紫の国へと続く道を「筑紫道」と呼んだ。12-3206に「筑紫道の荒磯の玉藻」とあることから、道が磯近くを通っていることが知られる。15-3634には「筑紫道の可太の大島」とあり、この島は山口県大島郡の尾代島のことで、筑紫道が瀬戸内海沿岸を通る道であったことが知られるのである。また地名を詠む歌に「筑紫の崎」(20-4372)があり、九州北部の防人の駐屯地を指している。 |
---|