テキスト内容 | 依り憑いた神の意。万葉集に「我が祭る 神にはあらず ますらをに つきたる神そ よく祭るべし」(3-406、譬喩歌)とある。本文では「認有神」とあるが、「認」は「つく」の意。これは佐伯赤麻呂と贈答する娘子の歌で、恐い神が鎮座する「神の社」を題材にして応酬する一連の宴席歌と推定される。「神の社」が恨めしいと娘子の愛人に譬えてうたいかけた赤麻呂に対して、娘子が、それは赤麻呂様に憑いた神なのですよと「神」に赤麻呂の妻を譬えて切り返した歌である。「よく祭るべし」は相手をやりこめるという贈答歌の技法だけでなく、その背景には自分に依り憑いた神を丁重に祭祀するという万葉人の生活があったと見るべきであろう。神が依り憑くことをうたった万葉歌は他に、大伴安麻呂が巨勢郎女に求婚した時の「玉葛実成ならぬ木にはちはやぶる神そつくといふ成らぬ木ごとに」(2-101)がある。これも贈答歌で、心を寄せてくれない娘子に、そんな女は恐ろしい神に取り憑かれるぞと、安麻呂が自分に向けさせようとする歌である。「実成ならぬ木」には恋が成就しない、あるいは子を産むに至らないことを含意するが、その背景には悪神が取り憑いていると実がならないという民間信仰の存在が考えられる。それを譬喩として女への悪神の憑依を警告しているわけである。万葉集に神の憑依をうたうことは多くないが、記紀には、例えば憑依した神を疑ったために死に至る仲哀天皇の話が有名である。天皇は神託や神意を得るために、祭祀生活の中で神の憑依を行う存在でもあったと言える。神は神意を伝えるためによく子どもにかかる。記紀の崇神天皇条に、謀叛を知らせるために少女に歌をうたわせるというのはその例である。それは異変の予兆を表す童謡の「童」の字にも示されている。憑きたる神は神の憑依によって神意を知るという古代の信仰生活を基盤とする語である。 |
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