テキスト内容 | 交通の難所にいる神。集中1例。税帳使として京に向かう大伴家持に贈った大伴池主の送別の歌(17-4008)に、「礪波山手向けの神に幣奉り」とある。礪波山は越中と越前との境の山で、その境界の神に祈るのである。以下の句にその内容が続くが、「ま幸くも ありたもとほり」の解釈が分かれる。「たもとほる」を移動の意とすると、回り道する、途方に暮れるといった意となり、旅人の無事を祈る内容に相応しくない。そこで、まとわりつく意から「ずっと離れず守護して」(『新編』)と神が家持の身を離れず守り続けることを祈るとする。これは、反歌(17-4009)で道の神に賄を贈るから家持を見守ってくださいという内容と等しい。だが、境界にいる神が道中ずっと見守るとは考えにくい。手向けが交通の難所で行われている通過儀礼だからである。ここは家持自身の行程の意とするのでが穏やかであろう。池主は見送る立場から、敢えてこのように詠み家持への情を示したのであって、この歌は手向けの神に向けられた言葉ではない。風土記には、行路妨害神の話が多い。例えば播磨国揖保郡の意此川の話には、出雲の御蔭大神が神尾山にいて、常に旅人をさえぎり半数を殺し半数を通したとある。風土記では共通してこれらの神を克服する話となっているが、その内容は手向けの神の性格をよく示している。出雲国島根郡の加賀神埼の話では、舟人が密かに通過すると、神が現れて突風を起こし舟を転覆させるとある。ここでは通過儀礼として大声をあげるのであるが、勝手に通り抜けようとする者に対して災いをもたらすのが交通妨害神である。その荒ぶる神への畏怖から旅人は手向けを行うのである。それは安全無事のために祈るのではあるが神の出現を願うものではない。手向けの目的は、積極的に神に加護を求めるのではなく、荒ぶる神を避けるための行為と考えられる。 |
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