テキスト内容 | 神に幣をそなえる行為。特に旅中の安全を祈るものが多い。万葉集中「手向け」の語を詠み込む歌は17例みられる。それ以外にも「幣奉り斎ふ」(20-4402)など、旅の安全祈願を詠む歌は多く、万葉集における旅の歌の中心的発想をなしている。これらは、細かくは差異もあろうが、その実態についてはいまだ不明な点が多い。手向けの語義も未詳であるが「手による鎮定」の義(『全註釈』)を主眼においた語と考えられる。祈りを行う場所は、多くは坂や山であるが、「海中に幣取り向けて」(1-62)とあるように、海路でも行われている。そのような場所は「恐の坂」(6-1022)とあるごとく、畏怖すべき境界である。旅人の通過を妨げる荒ぶる神の説話は風土記に多くみられる。そして、そのような場所そのものが「たむけ」と言われ、後に「たふげ(峠)」に転じたと考えられている(『代匠記』ほか)。手向けは通過儀礼であるが、万葉歌には、家族・恋人に逢うことを目的に行う歌がある。長屋王の奈良山での歌(3-300)には、妻に絶えず逢わせたまえという願いで手向けをすると詠む。自身の安全祈願は無事の帰還につながる行為であるから、そこに家族・恋人との再会を詠むことも旅人の心情として理解できる。だが、田口広麿が死んだ時の刑部垂麿の作(3-427)では、手向けをすれば死んだ人に逢えるのではないかと詠む。この歌の「八十隈坂」は黄泉の国との境界とも考えられるから、そこでの祈りが死者との再会に繋がるのは自然であるが、通過儀礼としての手向けとの関係が問題となる。そこで、手向けが共感関係のうえに行われ魂の交感が詠まれるというみかたになる。家族・恋人は家で旅人の無事を祈る、手向けの場にその力を呼びよせる必要があったとするのである。さらに、特に再会の効果を求めることになにがしかの信仰的基盤を求める考え方もあり、妹の魂を神に捧げる、人身御供の代用的な発想によるとするみかたもある。 |
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