テキスト内容 | 紀伊国にあった玉津島を遠望して山とみなした言い方。「神代より 然(しか)そ貴き 玉津島山」と歌われる万葉集の山部赤人歌(6-917)は、聖武天皇が724(神亀元)年冬10月5日に紀伊国に行幸した折りの行幸従駕歌である。『続日本紀』にも同様の記事があり、新大系『続日本紀』の脚注には「この行幸は元正の美濃行幸(養老元年九月)のような即位後の国見か、或いは践祚大嘗祭の予備行事としての御禊行幸か」とある。いずれにせよ、同年2月に即位した聖武天皇にとって重要な行幸であった。『続日本紀』は、都を出発した天皇一行が10月8日に「玉津嶋頓宮」に到着し、十数日間留まったことを伝えている。この間天皇は詔を発し、この地の風光明媚な景観を賞美し、また、春と秋に官人を派遣して「玉津嶋の神」「明光浦(あかのうら)の霊(みたま)」を祭るよう命じた。赤人歌の「神代より 然そ貴き 玉津島山」という表現は、聖武天皇の重要な行幸のこうした状況に基づいた讃美表現であったことになる。またこの歌では「やすみしし わご大君の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ そがひに見ゆる 沖つ島」と歌われるが、その「沖つ島」について、『新全集』の頭注は、雑賀野の離宮から眼前に見えた島々のことだと説明し、現在の和歌浦は妹背山だけ海中にあるが、当時は他にも海に浮かぶ島があったのであろうことを地図を併記し説明している。万葉集にはこの他には「玉津島山」の例は無いが、「玉津島」の例ならばある。奈良にいる人が行幸から帰った人を待ち受けて、玉津島の素晴らしさを聞いたらどうしよう。だから、玉津島をよくご覧なさい。と歌う歌(7-1215)であり、「玉津島 見れども飽かず」と歌い、この地を見ること叶わぬ都の人のために土産として包んで持ち帰ることを歌う歌(7-1222)である。これらの歌は、海の無い奈良に住む貴族たちにとって、風光明媚な紀伊国玉津島があこがれの地であったことを告げている。 |
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