テキスト内容 | 神霊。人の霊魂。万葉びとは、神霊に温和な和魂(にきたま)と荒々しい荒魂(あらたま)の二面性を見(神功皇后摂政前紀・3-417)、「ひと」(人)は「からだ」(体)に「たましひ」(魂)が込められた生命存在であると考えていた。人の存在実体を「み」(身)と呼び、魂は身から抜け出ると考えていた。生者の場合、相手への強い思いによって、魂は一時的に身から抜け出て相手のもとに通い、相手の魂と一つになると信じられた。「魂合(たまあ)ひ」(14-3393)がそれである。身の「魂」が萎(な)えて、永遠に抜け出てしまった状態が「死」であった。魂が萎えゆく状態は「病む」で、この段階から魂を活性化する「魂振(たまふ)り」が行われた。その甲斐もなく息絶えた場合には、その身から抜け出た魂を呼びもどす復活儀礼(殯宮(ひんきゅう)儀礼)が行われた。そして、魂がもどらぬと知った時、埋葬された。以上のこと、天智天皇挽歌群(2-147~155)が物語る。身から抜け出て永遠にもどらない死者の魂が「人魂(ひとだま)」である。「人魂の さ青なる君」が「葉干屋(はひや)」(薬草の葉を乾燥させる臨時的小屋の意と覚しい)にあらわれた時のぞっとする恐ろしさを詠んだ歌(16-3889)もある。「魂」が球体を成すと考えられていたことは、「魂」を「玉」と表記したり(13-3276)、玉石の意をかねた「奇(く)し御魂(みたま)」(霊妙な御魂の石の意)の例(5-813)があることから知られる。また、「御魂」(神霊)を、人の心入れの意に用いた例(5-882)もある。「言霊」は言語に宿る霊力で、言語表現どおりに事柄や事態を実現させる呪力をいう。万葉集に3例。1例は「言霊の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 夕占(ゆふけ)問ふ」(柿本人麻呂歌集11-2506)と歌う。言霊は夕方に幾筋もの道が交差する辻において最も活動し、道行く人の言語による夕占などが行われたのである。他の2例は柿本人麻呂作と覚しき人麻呂歌集歌(13-3253~4)と山上憶良歌(5-894~6)で、いずれも遣唐使に贈る歌であることが注意される。前者は、「言挙げ」(開口発声して言葉を挙げ述べること)の語を3度繰り返す。このことは、日本の神々の意思の及ぶ国内から神意が及ばない外国に赴く人達を思い、言挙げを通して日本の言霊の海外への波及的発動による海外安全の旅を切に祈願したからだと考えられる。日本の言霊を海外へと及ぼす力強い歌でこれはある。近時、辰巳正明はその著『詩霊論』において、アジアを中心とする世界的視座から日本古代詩に宿る神霊の解明を行っており、注目される。 |
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