テキスト内容 | ひき蛙。記の神代では、大国主神の国作りの段において、少名毘古那神の名を明かす場面に「多邇具久」が見える。大国主神に従う諸の神は少名毘古那神の名を明かすことが出来ず、尽く天の下の事を知れる神である「久延毘古」によって、その名が明かされるのだが、久延毘古ならば知っていると注進する役割を多邇具久が果たす。谷蟆とは、国土の隅々まで知り尽くした存在であるとするものや、地上を這い回る支配者とする解釈などがある。谷蟆は、地上の至る所に存し、それゆえ、地上のことを知る存在と認識されていたと考えられる。これらは万葉集における「たにぐくのさ渡る極み」という語からもうかがえる。万葉集では、「山上憶良の惑へる情を反さしむるの歌」において、「倍俗先生」と名乗り、俗世を離れたと自称する者に対して、地上の全ては天皇の支配領域であると諭す際に、「天雲の向伏極み谷蟆のさ渡る極み」(5-800)と見え、身体が地にある以上、天皇の支配領域以外の場所に存することは出来ないという意味であろう。これは、天皇の地上における支配領域が谷蟆の渡るところすべてとする認識を基盤とする表現であり、その根底には、天孫降臨に先行して行われた大国主神からの支配権の献上という行為があると考えられる。 |
---|