テキスト内容 | 住吉は摂津国に属し、住吉の港とこれを守る住吉神社が祭られて発展した地であった。広範な地域を含むようで、万葉集では遠里小野、浅沢小野、得名津、浅鹿乃浦、名児之浜辺、出見浜、粉浜、敷津之浦などさらに狭い多様な地域が歌われる。万葉集の漢字表記としては「住吉」・「墨吉」の他、「墨江」・「墨之江」・「清江」があり、音仮名表記としては「須美乃江」・「須美之延」とあるから、スミノエと訓まれるべき地名であった。歌では、「住吉(墨吉)の岸(崖)」が多く詠まれるが、地名なのか、崖状の地域なのか、岸辺なのか判然としない例もある。地名の岸には鉄分を含んだ黄土が出るので、染料に用いられたものか、「草枕 旅行く君と 知らませば 岸の埴生に にほはさましを」(1-69)と歌われる。もとより住吉は飛鳥の都からは大坂を越えて丹比道を西に海岸まで出たところにあり、瀬戸内海航路はもとより、朝鮮半島や中国に渡る船が発着し、朝廷の管理下に置かれた港、住吉の津があった。そうして、ここには航海の守護神としての住吉三神が祭られた。この港の管理と神社の祭祀にかかわったのが津守連で、その一族には大津皇子と石川郎女の関係を露見させた通がいる(2-109)。住吉三神は摂津国住吉郡の他、同国菟原郡・周防国・筑前国・壱岐国・対馬国に祭られ(『延喜式』神名)、また仲哀記では新羅国王の門に祭ったとするように、朝鮮半島への航路と深くかかわった神であるとわかる。底筒之男・中筒之男・上筒之男の住吉三神の出現は記紀では伊邪那岐命の日向の橘の小門の阿波岐原での禊祓条に、祭祀のことは紀神功皇后摂政元年2月に語られる。しかし、万葉集で住吉三神にかかわる表現がみえる歌は3首(石上乙麻呂卿土佐国配流の時の歌、733(天平5)年の遣唐使関連の歌)だけである。墨江は風光明媚なところであったためか、あるいは港としての機能が残り、住吉大社の門前町の様相を呈してもいたためか、難波行幸の折に官人たちは住吉まで足を伸ばすことも、難波に住吉の遊女を呼ぶようなことも行われたようであり、万葉集にみえる清江娘子や弟日娘(1-65、69)はそうした折に宴の座に呼ばれたものとみられる。中西進編・井村哲夫『万葉の歌5 人と風土 大阪』。日下雅義『古代景観の復元』。 |
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