テキスト内容 | 力くらべ。すもう。現在の相撲よりも、もっと広い範囲の力比べをいったらしく、打合いや蹴合のほか、首引き・腹引きの類まで含んだらしい。須恵器に四つに組んだ人と行司と見物人の四人の像のある画があり、また力士埴輪などもあり、その由来は古く、神と精霊との力比べによって秋の実りを占う意味をもち、神事と深いかかわりを持つものであった。記に「相撲」の語はみえない。垂仁紀7年の、当麻村の力士・当麻蹶速(たぎまのくゑはや)と出雲の国の勇士・野見宿祢の力比べの記事中に、二人は互いに向かい合って立ち足を挙げて蹴りあった、とあり相撲のさまを伝える。紀に「相撲」の語がはじめてみえるのは雄略13年9月のことで、天皇が木工の猪名部真根(ゐなべのまね)が誤たずに木を切ることができるかを試すのに、采女(うねめ)を集め衣服を脱いでふんどしをつけさせ、猪名部真根根(ゐなべのまね)がよく見える場所で「相撲」をとらせたとある。これ以降の紀の「相撲」はいずれも朝廷で行われている(天武11年7月3日、持統9年5月21日)。726(神亀5)年4月には全国に勅使を派遣して相撲人を集めさせ(『続日本紀』)、734(天平6)年7月7日には聖武天皇は相撲の技をご覧になり、この夕べ、南苑に移って文人に命じ七夕の詩を作らせ、出来に応じて禄を賜ったという記事に見えるように、このころには宮中で7月7日の七夕祭の余興に相撲の節会が行われていた(『続日本紀』)。これは中国の風習を取り入れたことによる。万葉集に、730(天平2)年7月7日に書かれた筑前守・山上憶良あての吉田宣の書簡中に、「相撲の部領使(ことりづかい)に頼んで、手紙をことづけます」(5-864前文)というのがある。部領使は徴用された人民を引率する官であるから、相撲人を集めさせる部領使が九州へ向かったことになる。また、731(天平3)年6月17日奈良に向った「相撲使(すまひのつかひ)」某国司の従人・熊凝(くまこり)がその途中で亡くなったことが見えるが(5-886前文)、この「相撲使」も「相撲の部領使」のことである。 |
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