テキスト内容 | 海水と食塩の意があるが、文字としては万葉集において使い分けはされていない。海水から塩が作られていたが、万葉集にも塩焼きの風景は詠まれている。記にも「枯野を塩に焼き」(歌謡74)がある。塩焼きの情景は「網の浦の 海人娘子らが 焼く塩の 思ひそ焼くる 我が下心」(1-5)のように、胸の内の想いに例えられたり、「志賀の海人の火気焼き立てて焼く塩の辛き恋をも我はするかも」(11-2742類歌、15-3652、17-3932)と恋の辛さの譬えとして塩焼きが詠まれることもあった。海と関係深い「しほ」であるが、潮の満ち引きは海神の支配するものと考えられていた。「海神は くすしきものか…(中略)…夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干れしむ 潮さゐの 波を恐み」(1-388)と詠まれている。神の力によって現れる潮干は様々な情景に詠まれ、「潮干れば葦辺に騒く百鶴の妻呼ぶ声は宮もとどろに」(6-1064)などのように、行幸従駕歌や羇旅歌で宮廷人の望郷の念を誘うものとして潮干が詠み込まれる。この他にも「生死の二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも」(16-3849)と、仏教的無常観として詠まれるものもある。「しほ」は神と海と人との関係性が現れた言葉である。 |
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