テキスト内容 | 万葉集2-16)の題詞に「天皇の崩りましし後の八年の九月九日、奉為の御斎会の夜に、夢の裏に習ひ賜ふ御歌一首古歌集の中に出でたり」とある。題詞にある持統7(693)年9月9日は、天武天皇の国忌の日に当たる。その斎会とは、参集した僧侶に食物を供養する法会のことである。翌10日には「無遮大会」(天皇が施主となり供養布施する法会)が内裏に設けられた(紀)。この9月9日、10日の行事は「全く性質の異なる両会」(『私注』)と思われるが、その主催者は共に持統天皇であろう。「夢の裏に習ひ賜ふ御歌一首」とは持統天皇の御製であり、神観念の問題としては、「御斎会」と「夢の裏」に習った歌との関わりのあり方がある。紀によると、天武天皇は朱鳥元(686)年9月9日に崩じ、以後約2年2カ月余りにわたって 殯(喪葬)儀礼が行われた。その行事の中に、伝統的な「哭」や「誄」儀礼と共に、「無遮大会」や「斎」が設けられたことが注意される。安井良三が指摘するように、仏教と葬礼がすでに結びついていることが注目されるのである。そのような流れの中で題詞の「御斎会」は理解されるべきである。持統紀5年2月条には、天武天皇に倣って月ごとの六斎(精進)を行い、仏法を信奉せよ、という公卿等に対する詔が見える。持統天皇は亡き夫、天武に対して供養を行ったのであり、万葉集に即して言えば、その天武に対する精進のあり方が「夢」を通して示されたことになる。「夢」とは、神が自己の意思を人に伝える回路である(『日本神話事典』大和書房「夢」の項参照)。持統天皇の歌(162)の文脈を追ってみたい。まず「明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君」と歌いだし、「高照らす 日の御子」が「いかさまに 思ほしめせか」(どのようにお思いになったか)「神風の伊勢の国」に留まったという。なぜ伊勢かは、天皇が天照大神の直系の「日の御子」であるからに他ならない。その「伊勢の国」を「沖つ藻も なみたる波に 塩気のみ かをれる国に」と〈形見〉のイメージを込めて歌い、「うまこり あやにともしき」と対象賛美の表現へと続き、「高照らす 日の御子」で歌い収める。この詞章には、天武に対する持統の賞賛と嘆きの心情が窺える。それは〈人〉から〈神〉へと変質した天武に対する公私入り混ざった心情でもあるが、「夢」の機能を考えると、天武の意思に基づく持統の皇統継承への確信と周囲への宣言でもあった。神観念が仏教を取り入れることにより成りたった歌といえる。安井良三「天武天皇の葬礼考―『日本書紀』記載の仏教関係記事―」『日本書紀研究1』(塙書房)。青木周平「持統天皇の天武天皇挽歌」『セミナー万葉の歌人と作品1』(和泉書院)。 |
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