けたじんぐう

大分類万葉神事語辞典
分野分類 CB文学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
+項目名けたじんぐう;気太神宮
+表記気太神宮
TitleKetajingu
テキスト内容石川県羽咋市寺家(じけ)町に鎮座する神社。『延喜式』神名帳にある能登国羽咋郡の気多神社に比定される。のちに能登国一の宮。現在は気多大社と称し、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。ケタは「気太」、「気多」などと表記する。ケタの語義については、間のあいている渡し木(桁)のことで、海から寄り来る神の陸地へ上がる足溜まりの意とする折口信夫の説などがある。気多神宮の初見は万葉集で、748(天平20)年、越中守大伴家持が国内巡行の際に「気太神宮」を参拝したことが知られる(17-4025題詞)。その後、765(天平神護元)年に神封30戸(『新抄格勅符抄』所引大同元年牒)、768(神護景雲2)年に神封20戸、神田2町を授かり、770(神護景雲4)年には称徳(しょうとく)天皇不予に際して気多神に奉幣がなされ、784年に従3位から正3位に(以上『続日本紀』)、859(天応3)年には従1位に昇叙(『三代実録』)9世紀前半には「気多大神宮」と呼ばれ(『続日本後紀』承和元年9月26日条など)834(承和元)年には禰宜(ねぎ)・祝(はふり)の把笏(はしゃく)が許された(『続日本後紀』)。また、855(斉衡2)年までには神宮寺(じんぐうじ)である気多大神宮寺が建立されている(『文徳実録』)。高岡市東木津遺跡出土の木簡に「気多大神宮寺」「□暦二年」とあり、991(正暦2)年説もあるが(『木簡研究』23)、遺跡の年代観からすると783(延暦2)年が穏当であり、780年代初頭には神宮寺が存在した可能性が高い。気多神の越中への勧請は8世紀には確認できず、能登気多神宮(寺)の信仰圏を示すと推測される。気多神宮の祭祀については、羽咋川(はくいかわ)旧河道南岸にある寺家(じけ)遺跡(寺家町・柳田町)との関わりが注目されている。7世紀前半から9世紀代に及ぶ祭祀関連遺物が出土しており、10世紀になると砂丘の移動により祭祀施設は現気多大社東側の台地に移動したとみられる。9世紀には南北二群からなる大型掘立柱建物が造営され、北群から南群へと立て替えられた可能性も指摘されている。また北群から「宮厨」墨書土器が検出されており、気多神宮の厨(くりや)に関わる土器とみられ、神宮の中心的建物があったと推測されている。土器は祭祀後の直会に用いられたのであろう(『寺家遺跡』)。気多神宮の神格が8世紀後半から上昇するのは、早くから神仏習合が進み、護法善神の思想を背景とする聖武、孝謙(称徳)天皇の仏教信仰に合致したことや、境界領域の防疫神として注目されたこと、対渤海外交における安全の確保、蝦夷との緊張関係などが影響していると推測される。寺家遺跡と気多神宮、もしくは能登客館との関係、柳田(やないだ)シャコデ廃寺(7世紀末~9世紀中頃)と気多神宮寺との関係の解明が待たれる。折口信夫「春来る鬼」『全集』15(中央公論社)。荒井隆・岡田一広「釈文の訂正と追加」『木簡研究』23号。川崎晃「『越』木簡覚書」(高岡市万葉歴史館紀要11号)。『古代寺家遺跡のナゾを探る』(羽咋市ふるさと歴史シンポジウム資料集、2006)。
+執筆者川崎晃
コンテンツ権利区分CC BY-NC
資料ID31964
-68528402009/07/06hoshino.seiji00DSG000354けたじんぐう;気太神宮Ketajingu石川県羽咋市寺家(じけ)町に鎮座する神社。『延喜式』神名帳にある能登国羽咋郡の気多神社に比定される。のちに能登国一の宮。現在は気多大社と称し、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。ケタは「気太」、「気多」などと表記する。ケタの語義については、間のあいている渡し木(桁)のことで、海から寄り来る神の陸地へ上がる足溜まりの意とする折口信夫の説などがある。気多神宮の初見は万葉集で、748(天平20)年、越中守大伴家持が国内巡行の際に「気太神宮」を参拝したことが知られる(17-4025題詞)。その後、765(天平神護元)年に神封30戸(『新抄格勅符抄』所引大同元年牒)、768(神護景雲2)年に神封20戸、神田2町を授かり、770(神護景雲4)年には称徳(しょうとく)天皇不予に際して気多神に奉幣がなされ、784年に従3位から正3位に(以上『続日本紀』)、859(天応3)年には従1位に昇叙(『三代実録』)9世紀前半には「気多大神宮」と呼ばれ(『続日本後紀』承和元年9月26日条など)834(承和元)年には禰宜(ねぎ)・祝(はふり)の把笏(はしゃく)が許された(『続日本後紀』)。また、855(斉衡2)年までには神宮寺(じんぐうじ)である気多大神宮寺が建立されている(『文徳実録』)。高岡市東木津遺跡出土の木簡に「気多大神宮寺」「□暦二年」とあり、991(正暦2)年説もあるが(『木簡研究』23)、遺跡の年代観からすると783(延暦2)年が穏当であり、780年代初頭には神宮寺が存在した可能性が高い。気多神の越中への勧請は8世紀には確認できず、能登気多神宮(寺)の信仰圏を示すと推測される。気多神宮の祭祀については、羽咋川(はくいかわ)旧河道南岸にある寺家(じけ)遺跡(寺家町・柳田町)との関わりが注目されている。7世紀前半から9世紀代に及ぶ祭祀関連遺物が出土しており、10世紀になると砂丘の移動により祭祀施設は現気多大社東側の台地に移動したとみられる。9世紀には南北二群からなる大型掘立柱建物が造営され、北群から南群へと立て替えられた可能性も指摘されている。また北群から「宮厨」墨書土器が検出されており、気多神宮の厨(くりや)に関わる土器とみられ、神宮の中心的建物があったと推測されている。土器は祭祀後の直会に用いられたのであろう(『寺家遺跡』)。気多神宮の神格が8世紀後半から上昇するのは、早くから神仏習合が進み、護法善神の思想を背景とする聖武、孝謙(称徳)天皇の仏教信仰に合致したことや、境界領域の防疫神として注目されたこと、対渤海外交における安全の確保、蝦夷との緊張関係などが影響していると推測される。寺家遺跡と気多神宮、もしくは能登客館との関係、柳田(やないだ)シャコデ廃寺(7世紀末~9世紀中頃)と気多神宮寺との関係の解明が待たれる。折口信夫「春来る鬼」『全集』15(中央公論社)。荒井隆・岡田一広「釈文の訂正と追加」『木簡研究』23号。川崎晃「『越』木簡覚書」(高岡市万葉歴史館紀要11号)。『古代寺家遺跡のナゾを探る』(羽咋市ふるさと歴史シンポジウム資料集、2006)。
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