- | 68520402009/07/06hoshino.seiji00DSG000346くにみ;国見・望国Kunimi来訪する神や、クニの首長が高所に登って国の様子を眺める祭り。一般には春山入りの民間習俗や農耕予祝儀礼から説かれることが多いが、古代文献から見るといくつかの層がある。①は王による国土の画定、②は来訪神による予祝、③は天子による民風視察である。①は神武紀に天皇が高倉山から国内を望むと、国見丘の上に八十梟師(やそたける)がいて、これを殺したという(即位前紀戊午九月)。国見丘の支配は、王の祭祀権と支配権とに関わることが理解される。また、神武天皇は行幸をして腋上の嗛間(ほほま)の丘に登り国形を望み、蜻蛉(あきつ)が連なり飛んでいるような国を得たことだと喜ぶ。それで秋津洲という地名が出来たと伝える(神武紀31年4月)。これは地名起源としても伝えるように、国見を行いこの国を獲得し画定したことを示す例である。またここにはイザナギの命による土地の画定の伝承の他に、ニギハヤヒの命が天の磐船に乗り国を見て天降り、ここを「虚空(そら)見つ日本の国」と名づけたという伝承も見られる。②は王の巡幸による土地褒めの形式である。折口はこれを〈まれびと〉の来訪と考え、遠処の精霊が山の上に立ち土地の精霊に対して命令を下すのだという。常陸国風土記に倭武天皇が各地を巡幸し、丘に登り土地の形を褒めるという伝承が複数ある。行方郡の現原の丘では、四方を遠く望むと山と海とが交わり、物の色は美しく国の形は素晴らしいので、この地を行細(なめくわし)の国と呼ぶと述べている。倭武天皇とは地方伝承に登場する天皇であるが、これは遠処の精霊が天皇へと移行し、ヤマトタケル伝承とも複合した段階の伝承と思われるが、国見の古層を示す。あるいは記歌謡には仁徳天皇が難波の埼から国を見ると、淡島、淤能碁呂島、檳榔の島、佐気都島が見えたという。ここには神話的島も見られ、国見は原初の国造りを想定させ、これも〈まれびと〉の宣り歌であろう。万葉集では舒明天皇が天の香具山に登り国見をした時、蜻蛉島(あきつしま)の大和の国は、国原には煙が立ちのぼり、海原には鴎が飛び交い、素晴らしい国であると称える。舒明御製と伝えるのは伝承であるが、天皇と国見との関係が明確に結合している。国原と海原とが同時に詠まれるのは、高天の原の香具山から国見が行われたからで、これも国見の原初的性格を示す例であり、歌は〈まれびと〉の宣の歌である。③は舒明御製の国見を「望国」と漢字表記したことと関わる。記紀の仁徳天皇は丘や高殿から国見をして民の貧しさを発見し、三年の間課税を中止した。3年後に再び国見をすると民の竈に煙が立ちのぼり豊かになったことを確かめ、租税を取る。これを聖帝の世というのは、聖帝は国見をして民の風俗を知るという儒教的思想からである。中国の聖天子は山に登り天地・山川の神を祭るのであり、それを「望祭」といった。持統天皇も吉野へ行幸した折に、柿本人麻呂は天皇が高殿に登り国見をしたと歌うが(1-38)、これも天子の望祭を指す例である。国見は以上のように分類できるが、それらは重なりながら展開していることも確かである。折口信夫「国文学の発生」『全集1』(中央公論社)。土橋寛「国見の起源」『古代歌謡と儀礼の研究』(岩波書店)。辰巳正明「惟神の真意義と民族的モラルセンス」『折口信夫』(笠間書院)。 ,347くにみ国見・望国辰巳正明く1 |
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