テキスト内容 | 加茂社、加茂下上(げじょう)ともいう。京都市北区上賀茂にある賀茂別雷神社と左京区下鴨にある賀茂御祖神社の両社の総称。前者は上加茂社・加茂社・上社ともいい、別雷神を祭り、後者は下加茂社・鴨社・下社ともいい、玉依姫命・賀茂建角身命(かもたけつのみ)を祭る。山城国一の宮。万葉集には6-1017に見える。加茂神社の祭祀由来譚は『釈日本紀』所引の山城国風土記逸文が最も古く、加茂説話、加茂伝説として知られている。そこには、山城国の加茂社のカモという名の由来について、加茂県主の祖先神の賀茂建角身命が遍歴の末この地にとどまったことによるとする。賀茂建角身命ははじめ日向の曽の峰に天降ったが、神武天皇の東征の先導役として倭の葛城山に至った。そこから更に山城国に移り、岡田の賀茂を経て山代河を下り葛野川と賀茂河の合流点で賀茂河を御覧になり「狭い川だが清浄な川である」と言って「石川の瀬見の小川」と名付け、賀茂河をさかのぼりこの地に落ち着いた。そこで丹波国の神、伊可古夜日女を娶り玉依日子・玉依日売の兄弟を生む。ある時、玉依日売が加茂川の上流から流れてきた丹塗り矢を床辺に置いたところ懐妊し、誕生したのが別雷神であり、兄の玉依日子の子孫となる賀茂(加茂)県主一族がこれを奉斎したとある。この話の中心は丹塗り矢型とよばれる神婚説話であるが、そこに盟酒の要素や建国伝説に絡めたカモ氏の始祖伝承が含まれる。他に本朝月例所引の秦氏本系帳、『袖中抄』の或書内にも同様の祭祀由来譚が記されている。ここに登場する、賀茂建角身命は神武天皇を導いたとされるが、『新撰姓氏録』の山城国神別の項、『古語拾遺』には神武天皇を導いた八咫烏として登場している。社については、天平の頃に賀茂別雷神社から賀茂御祖神社が分立したとされる。また社伝によると神武天皇の代に祭神が降臨したとされる。初めは京都北部に住む賀茂(加茂)氏の氏神として奉斎されたが、平安遷都以後は王城鎮護の神として、しばしば行幸があり、朝廷の尊崇を受けた。参籠して利生を祈る社でもあった。伊勢神宮に準じた扱いを受け、平安時代には、未婚の皇女が斎院として奉仕した。例祭の賀茂祭は葵祭として有名である。平安時代には「祭」といえば加茂祭を指したほどであり、三勅祭の一つでもある。伴信友「瀬見小河」『全集2』(国書刊行会)。肥後和男『日本神話研究』(河出書房)。『神道大系 神社編 賀茂』(神道大系編纂会)。 |
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