テキスト内容 | ①神に仕える人。神社で神に奉仕する人。神官。②令制の神祇官。③令制の大宰主神。②の神祇官は、太政官とともに「二官」のうちの一で、神祇の祭祀の執行、諸国の官社の総管など、神祇行政全般を掌る。上古には祭と政とは密接不可分であり、ともに「まつり(まつりごと)」と呼ばれていた。そのため、中国に倣って律令制が行われるようになっても、古来の祭政一致の名残として、神事を司る神祇官と、行政を司る太政官とが並び立つという、日本独自の官司制度が作られた。官位相当は、太政官の長官である太政大臣・左右大臣が一位・二位という最高位であるのに対して、神祇官の長官である神祇伯は従四位下に過ぎず、八省の卿にも及ばないが、官司としての序列は、職員令において、神祇官の方が太政官よりも前に位置している。紀にすでに「神祇官」や「神祇伯」は散見するが、これらの表記は大宝令のものを遡らせて記したものであって、大宝令以前にこれらに相当する官司官職の名称は「かむづかさ」「かむづかさのかみ」と呼ばれ、実際の表記は「神官」「神官頭」であったと考えられる。③は大宰府において祭祀を司る官職で、定員1名。中央の神祇官に相当する役割を担う。大宰府は九州における朝廷の出先機関で、九州全体の行政の統轄をした。大宰主神の官位相当は正七位下という低いものであるが、職員令では、大宰府の長官である大宰帥(官位相当従三位)よりも前に記されており、中央における神祇官と太政官との序列に対応するものである。万葉集では、730(天平2)年正月、大宰帥大伴旅人邸における梅花の宴の歌32首のそれぞれの作者を記した下注に「神司荒氏稲布」(5-832)とある「神司」が唯一の例である。この宴席への参加者は、大部分が大宰府または九州諸国の官人であるので、この「神司」も大宰主神のことであろうと考えられる。なぜ「主神」ではなく「神司」と表記したのか明らかではないが、この一連の下注には「薬師」と表記した者が2名あり、これらも大宰府の官職ならば「医師」とあるべきものなので、この下注の表記者には、正式表記よりも訓に密接な表記を優先させるような意識があったものかもしれない。ここに見える「荒氏」は荒木氏や荒田氏などを指すものであろうし、769(神護景雲3)年、道鏡事件の折の大宰主神は習宜阿曾麻呂であったことが記録にあるが、やがて大宰主神は中臣氏の独占に帰したらしく、『古語拾遺』にその旨の記述がある。 |
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