テキスト内容 | 神の継げる言葉。神託、託宣。万葉集では、入唐使の送別の宴で「住吉の社にお仕えする祝(はふり)(神官)の『神言』には、行きも帰りもお船は速かろうとのことです」(19-4243)と詠まれ、神託によせて海路の安全を予祝する送別歌として見られる。同じく入唐使に贈った歌「どの神様にお祈りしたら行きも帰りもお船が速いでしょうか」(9-1784)が、手を尽くして神にすがる心を示すのに対し、「行くとも来とも船は早けむ」という神言は、確信としてその実現が保障されている。それは、「言霊の幸はふ国」(5-894)「言霊の助くる国」(13-3254)に見られる言霊思想と関係する。西宮一民はカミとは「人間の思考や仕業を超えて、畏敬の念を起さしめる存在」とし、西條勉は「言語としてのコトは、その能記面では、自然の威力、すなわちカミの聴覚的な現象であり、その所記面では、畏怖すべき自然の心象的な隠喩である」とする。したがって、そのカミのコトを読み解くことが技術的に要請される。欽明紀16年「策を神々にお尋ねになった。祝者(はふり)が『神の語』を告げて」、皇極紀2年「国内の巫覡(かむなき)らは榊などの枝を折り取って木綿(ゆう)をかけ競って『神語』をのべた」などに見られる「祝者」「巫覡」はその要請を受け持つ人であった。仲哀記には、大后が神依せをしたが、その神の託宣を信じなかったために仲哀天皇が崩御されたことが記されているが、青木周平が述べるように、神言は神の立場で、神からの一方的な発言としてあり、対話性をもった言ではない。なお、万葉集には「天地の神言寄せて」という表現が2例見られるが(4-546、18-4106)、この場合は、神が言葉によって協力し縁を取り持つこと、「俗言にいはば神の引合せにて」(『攷証』)などの意味となる。内田賢徳「萬葉の言」『萬葉』123号。西條勉「モノとコトの間」『古代の読み方』(笠間書院)。青木周平「倭建命東征伝承と『言擧』」『古事記研究』(おうふう)。西宮一民『上代祭祀と言語』(櫻楓社)。 |
---|