テキスト内容 | 733(天平5)年11月の大伴氏の氏神を祭る時に大伴坂上郎女が「聊かに」作ったと左注に記された歌が「神を祭る歌」(3-379~380)である。氏神の祭祀は、氏上がおこなう決まりであったことから、731(天平3)年に大伴旅人が死んだ後は坂上郎女が一族の家刀自的存在となって氏神の祭祀をおこなったのではないかと考える説がある。しかし、坂上郎女はあくまでも家刀自的存在であったと推定できるにすぎず、旅人亡き後の大伴氏の氏上であったとは考えられないこともあり、坂上郎女が氏神の祭祀の主催者であったとするべきではなかろう。坂上郎女が氏神の祭祀をおこなっていたのではないかとする根拠にもなっている長歌(3-379)冒頭の「ひさかたの 天の原より 生れ来る 神の命」という大仰なうたい起こしにもかかわらず、結果的に歌そのものの主眼は、長歌末尾と反歌(380)でくり返しうたわれている「かくだにも 我は祈ひなむ 君に逢はじかも」という個人的な願い事である。この「君」を大伴氏の氏神と考えて全体を「神を祭る歌」として一貫したものとして捉える説もあるが、坂上郎女のほかの歌に見える「神」をめぐる表現(4-619、17-3930)や万葉集中の女性が「神」をうたう表現から考えると、彼女たちは「恋の成就」や「旅の無事を祈る」といった明確な目的をもって神に祈っている場合が多いことに注目しなければならないであろう。さらに、この歌の左注に「聊かに」作ったと記されていることも視野に入れるならば、氏神を祭る機会を好機として坂上郎女が個人的な願いを詠んだ相聞歌として「神を祭る歌」を捉えるべきではなかろうか。 |
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